引っ越し

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暴論に対しての反論

2010-07-02 23:58:19 | 日記・エッセイ・コラム

中央公論5「学力なんて要らない」を読んだ

外山滋比古氏は、いつもの論調で、「異才」育成こそが重要だ、という。
中でも、「バイリンガルの負の側面」と題打って、インド・韓国を例に挙げ、バイリンガルは「思考力が高まらない可能性がある」と言う。

 しかし、ITや白物家電関連などの一部業界では、彼の地のエリートが牽引しているのも事実。日本人の新卒より頼りがいがあるというのも、事実。
 高度なコミュニケーション能力を要求される商社マンは、製品だけを売り込もうとするが、現地では、保守・維持などのサービスを望んでいる。イギリスでの日立は、成功例だろう。もはや、物だけでなく、人が必要とされているわけだ。
 外山氏は俯瞰と抽象的提言が多く、保守的な大学卒に対して苦言を呈する。つまり、馬鹿になれないと、この逆境は乗り越えられないというわけだ。

 確かに大学卒の能力は、低下しており、大学のブランド力に頼ることもできず、内定時に簿記の資格を取得するようにと言われた学生もいた。社員教育に力を入れられない会社が増えている現状では致し方ない。

 思うに、どこに成長分野があるのか、つまり、「失われた10何年」と評されるうちに蓄積された技術力の活路をどこに見いだすかが、鍵になる。いくら、技術力があっても、下請けで安住していたため倒産の憂き目を見た中小企業もある。一方、下請けを脱して世界に進出している企業もある。

 続いて対談「分数も年号も覚える必要ありません」「大学なんて要りません」のアンチテーゼを挙げての半ば無責任対談。茂木健一郎氏と東浩紀氏との対談。
 ネットで、調べられるのなら、教える方は、こういう人がいて、こんなこと言ってただけを説明すればいいという。生徒に対して未知の素材を提供・伝承するのが先生の役割なのに、これでは職務放棄発言に近い。時には歪められる、信憑性の疑わしいネットの記述に頼るのを推奨しているのもいただけない。
 ネットがあれば、勉強する必要もないという暴言を吐く輩もいるが、ネット上の記述の正否を判断できるようになるには、相当の学力の熟成を待たなければならないというのも事実である。時には、国家によって歪曲化される誤報・捏造事実に振り回されることもある。
 いったい独創とは、既知の中から未知な物を生み出すことであり、記憶の組み合わせ・試行錯誤によって偶然、否、半ば必然的に出てくるものなので、知識の獲得に関しては、ネットという手段が加わっただけであって、そもそも過度な期待は禁物だろう。