昨日は、二日続けて孫が遊びに来てくれた。
娘がもぐら叩きのおもちゃを何処に嵌ったのかゲラゲラ笑っていた。今日は枇杷をちぎりたくさん持って帰った。近所の小父さんからもたくさんの甘夏と大きな玉ねぎを頂いた。お礼に何かしなくちゃ。
最近、ちいさなゴキブリが出てくる。HERO源義経の身長は151センチ 小さなリーダーが屈強な鎌倉武士を率いていたことにカリスマ性を感じる。戦に於いては天才肌で自信家の義経。
主な義経の戦い 1184年⒉月 一ノ谷の戦い
1185年⒉月 屋島の戦い
1185年3月 壇ノ浦の戦い この三つの戦いで平家を滅亡させた。一ノ谷!逆落としの謎 総大将は源頼 全体指揮するのは義経 鵯越の逆落としをしたのは義経ではない? なぜ逆落としをしたのか?鹿の糞を見つけ馬でも行けると思う。平家の本拠地・福原
平家から安徳天皇・三種の神器を福原に移していたのです。源義経は天皇と三種の神器を平家から奪還することが任務でした。源氏の軍勢は二手で攻めようと考えた。福原の西側に義経 東側に範頼 源氏は平家の守りを突破出来ず逆茂木・V字型の堀・垣盾 正面から戦っても叶わない その状況を打開するため鵯越の逆落としなのだ。一ノ谷の背後にある鵯越 急斜面を馬で駆け下り平家の陣に一気に攻め寄せた。平家物語では義経が鵯越の逆落としをやって勝負が決まったと云われていますが、作り話?だと云われています。ここは鵯越ではありません。ここから東に直線で⒏キロ離れた峠の道のこと。鵯越から福原に奇襲をかけるの抜うってつけの場所 「玉葉」源平合戦の時代に書かれた貴族の日記 義経は一ノ谷を落とした。と書かれていた。じゃ鵯越の逆落としは誰が攻めたのか?多田幸綱が山ノ手から攻めて始めに平家の陣を落とした。
多田幸綱は周辺に詳しい武将であり義経が馬が通れる道はありませんかと聞いていた。鵯越を提案したのも多田行綱 義経が多田行綱に鵯越を任せた。勝つために必要なこと考えて実行するのが義経の戦い方である
まず範頼軍と義経軍で挟み撃ちし多田行綱が一気に駆け下り奇襲攻撃して平家を落とした。
壇ノ浦では義経は平家軍の船の漕ぎ手への攻撃を命ずる。本来なら禁じ手なのだが名誉と云うよりも勝つことに異常なこだわりがあった。このあと義経に悲劇が
義経は平家を滅ぼし朝廷の信頼も厚かった。強い影響力も持っていた。兄・頼朝との深い亀裂が生じていた功績があっても罪はないのにお叱りを受けてむなしくしておりますと頼朝への手紙 頼朝は警戒の念を持つように頼朝としては御家人はたちにとって統領は1人で良いという考え方。頼朝は義経の脅威の念 頼朝は義経討伐の兵を出す。義経は頼朝を討つ挙兵 誰も力の差がありすぎて義経につくものがいない。義経は若い頃住んでいた平泉に逃げる。頼朝は義経を匿っていた奥州藤原もまとめて撃破する。1189年義経は自害する。31歳 義経は朝廷に手の平返しされ・・・頼朝を長として生きていればもっと頼朝との関係も良かったのでは。鎌倉殿は2人は要らない。朝廷をはじめて破ったのが鎌倉幕府 北条政子の力も凄い。
もっと書きたいところもあるが・・・戦の天才 朝廷も頼朝も恐怖を怯えていたかも。