人骨の会(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)主催の連続フィールドワーク 第2回 特別企画「世田谷平和マップ ~世田谷区の戦争遺跡を歩いてみよう~」が6月12日(日)世田谷区立太子堂区民センターで座学が、その後旧陸軍駒澤練兵場と軍事施設のフィールドワークが行われました。
参加者は、人骨の会会員、歴史教育者協議会関係者、しんぶん赤旗「くらしの情報」欄を見た方、世田谷区民など22人でした。
座学の講師は管理人が、フィールドワークは東京歴史教育者協議会会長東海林次男さんです。



管理人は、下記のレジュメと東京城周辺の古地図に要人屋敷、政府、軍、警察、大使館を記した地図を用意しました。
「サンデー毎日」のスノーデン氏が太平洋海底ケーブルから米国が盗聴しているっという記事がでたことから、日露戦争のために海底ケーブルを敷設したが、「尖閣諸島」「竹島」を領土とする閣議決定をしたことは、戦争準備のためであったので、官報には掲載せず、外国に知らすことをしなかった深謀があったという「仮説」を説明し、「戦争とインフラ」の話をしました。
追加して配布した資料


「座学の内容」
かつて共産党の新宿区議会議員を七期務め、その時に人骨が発見されて当時社会党の川村一之さんなどと一緒に究明活動に取り組んだ。その後引退した後は、二〇〇〇年に新宿平和委員会の会長として防衛庁の移転に反対したり、今の防衛省市ヶ谷記念館に東京裁判の歴史を刻む活動に取り組んでいる。その後、亡父の生まれ故郷の石川県金沢市に移住したが、定着できずに世田谷区に戻った。昨年、保坂展人世田谷区長が区広報に、「馬事公苑がオリンピック会場になるが、ここは戦前輓馬部隊があったところだ」という記述があり、そこから世田谷の戦争遺跡に興味がわいた。そこで調べ始めたのだが、新宿にいた時に、手製で新宿平和マップを作成したことがあるので、同じく手製で世田谷平和マップを作成した。
戦争とインフラ
戦跡を語る切り口として戦争とインフラの関係を論じたい。
情報インフラとして海底ケーブルが世界中に張り巡らされている。日露戦争のために海底ケーブルを敷設したが、「尖閣諸島」「竹島」を領土とする閣議決定をしたことは、戦争準備のためであったので、官報には掲載せず、外国に知らさなかった深謀があったのではないかとの「仮説」を考えている。
道路と鉄道については、大崎駅から分岐した西南短絡線、新しい横浜駅をつくり、旧横浜駅を桜木町駅にしたことを見るとインフラを利用しながら軍都が発展する様子が分かる。
道路網は、江戸時代の五街道を中心に東京から放射状に広がる道路と、それらを横につなぐ環状線がある。江戸城の内堀、外堀は環状一号線、二号線である。中山道板橋宿のあった加賀藩前田家下屋敷跡には陸軍の兵器工場が建てられた。
明治維新後、天皇が京都から上京し東京奠都となった。江戸城は東京城、皇城、宮城となり現在は皇居だが、『江戸 東京大地図』(平凡社刊)の明治一六年古地図から、周辺の大名屋敷跡に要人邸・中央官庁・警察・近衛・軍隊の拠点を置いたことがわかる。
世田谷方面については、丸の内の陸軍用地が麻布・赤坂に移転、そこから青山練兵場、代々木練兵場、駒場・駒沢練兵場へと郊外に広がるが、この道筋は旧大山街道(国道二四六号線)沿いの拡大である。
鉄道については、東京では早くから市電ができており、均一料金で安く乗れた。清国の留学生も市電を使って早稲田やら明治やらに通ったという。
甲武鉄道は新宿駅まで来て、更にそこから飯田町駅まで延ばすが、これはその先の水戸徳川家屋敷跡にあった兵器工場、東京砲兵工廠と青山練兵場を繋いで、兵器と兵士を戦場に運ぶ狙いがあった。東京砲兵工廠で作製したのが明治三八年に制式化された三八式歩兵銃。陸軍が敗戦時まで長く採用した銃で武器に”菊の紋章”がついているのは三八銃だけ。千駄ヶ谷駅から青山練兵場へは引込線を作り、青山軍用停車場があった。
世田谷平和マップ
昭和三〇年の白地図にマッピングした。マップ作成に際して、加害、被害、抵抗の歴史を入れた。
駒場・駒沢の練兵場は目黒区との区界にある。京王線の明大前駅はかつて江戸幕府の煙硝蔵(武器庫)があったので当初は火薬庫前駅と呼ばれた。それから本土空襲になると、久我山、、経堂、弦巻町に高射砲陣地があった。どこの区でも東京の戦災資料センターにある被災マップを利用しているが、北烏山近辺が真っ白になって空襲がない事になっているが、久我山高射砲陣地への空襲で寺町が焼けた事実があった。世田谷区は十分に調査していないようだ。
それから抵抗の歴史が世田谷区にある。新宿でマップを作った時には入れられなかったのだが、幸徳秋水はじめ一二人が冤罪で処刑された東京監獄(市ヶ谷刑務所)があった。世田谷には、幸徳事件(大逆事件)の顛末に怒り、天皇に公開直訴を画策した徳冨蘆花の屋敷があり、今は蘆花恒春園として一般にも公開されている。大正期から革新的な教育で有名な成城学園や和光小学校も世田谷にあり、国定教科書を使わない成城学園を視野に平塚らいてふが引っ越してきた。
最後に、防衛省市ヶ谷記念館建設時に、東京裁判の記録も入れる合意があったが、完成してみたら陸軍士官学校の再現でしかなかった。これを東京裁判開始七〇年を期して運動をこれから考えている。
休憩中に、貼りだしたマップに参加者が集まりました。
①江戸朱引き図
②文政十一年古地図に鉄道・地下鉄を入れた地図(人文社刊)
③東京一目新圖(明治三〇年刊の復刻地図)
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・
東京の戦争遺跡を歩き「軍事大国日本」の創生期から「敗戦国日本」への百年史を考える

(1)天皇制国家の確立と戦没者にたいする祭祀制度の靖国神社創建
中山忠能の長女慶子天皇睦仁誕生 幼名祐宮(さちのみや)
慶応2年12月25日(1867年1月30日)孝明天皇が崩御。満14歳で践祚の儀を行い皇位に即く。京都御所にて即位の礼を執り行い、即位したことを内外に宣下する。大嘗祭は明治4年11月17日<1871年12月28日>に東京で挙行。一条美子を皇后に。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改めた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
(2)天皇の軍隊は江戸城、親藩、旗本屋敷に築き“軍都東京”となる
高輪で西郷隆盛、勝海舟の談判。進軍を停止
東海道先鋒総督橋本実梁江戸城を収む
軍防事務局に属した御親兵を薩・長・士の兵を以て御親兵を再編
東京、大阪、鎮西、東北に鎮台。名古屋、広島にも鎮台(6鎮台)
陸・海軍省の分立
徴兵令の発布 屯田兵
丸の内の陸軍用地を払い下げ→三菱ヶ原に 赤坂・麻布中心に移転
日比谷練兵場の移転→日比谷公園 青山火薬庫跡→青山練兵場
陸軍を統括する機関、諸教育機関の集中
近衛師団と第一師団の配置。東京衛戍総督部
(3)外征への鉄道敷設
横浜駅の変遷。横須賀線敷設。
甲武鉄道市街線、三崎町官地に始発駅。
御所トンネルと青山軍用停車場。品川短絡線。宇品短絡線。
(4)「大山街道(矢倉沢往還)」の軍事利用
駒場練兵場の開設 新設部隊(騎兵大隊・輜重兵中隊・近衛輜重兵大隊・騎兵実施学校)
駒澤練兵場の開設 砲兵の駐屯・訓練
(5)防衛省市ヶ谷記念館
過去の戦争を裁いた「極東軍事裁判所記念館」が、現在の軍事中枢防衛省と共存することになる。偶然の結果とはいえ、このようなケースは世界にも類例がない。
・・・・・・・・引用おわり・・・・・・・・・・・・・・・


説明をする東海林次男さん

参加者は、人骨の会会員、歴史教育者協議会関係者、しんぶん赤旗「くらしの情報」欄を見た方、世田谷区民など22人でした。
座学の講師は管理人が、フィールドワークは東京歴史教育者協議会会長東海林次男さんです。



管理人は、下記のレジュメと東京城周辺の古地図に要人屋敷、政府、軍、警察、大使館を記した地図を用意しました。
「サンデー毎日」のスノーデン氏が太平洋海底ケーブルから米国が盗聴しているっという記事がでたことから、日露戦争のために海底ケーブルを敷設したが、「尖閣諸島」「竹島」を領土とする閣議決定をしたことは、戦争準備のためであったので、官報には掲載せず、外国に知らすことをしなかった深謀があったという「仮説」を説明し、「戦争とインフラ」の話をしました。
追加して配布した資料


「座学の内容」
かつて共産党の新宿区議会議員を七期務め、その時に人骨が発見されて当時社会党の川村一之さんなどと一緒に究明活動に取り組んだ。その後引退した後は、二〇〇〇年に新宿平和委員会の会長として防衛庁の移転に反対したり、今の防衛省市ヶ谷記念館に東京裁判の歴史を刻む活動に取り組んでいる。その後、亡父の生まれ故郷の石川県金沢市に移住したが、定着できずに世田谷区に戻った。昨年、保坂展人世田谷区長が区広報に、「馬事公苑がオリンピック会場になるが、ここは戦前輓馬部隊があったところだ」という記述があり、そこから世田谷の戦争遺跡に興味がわいた。そこで調べ始めたのだが、新宿にいた時に、手製で新宿平和マップを作成したことがあるので、同じく手製で世田谷平和マップを作成した。
戦争とインフラ
戦跡を語る切り口として戦争とインフラの関係を論じたい。
情報インフラとして海底ケーブルが世界中に張り巡らされている。日露戦争のために海底ケーブルを敷設したが、「尖閣諸島」「竹島」を領土とする閣議決定をしたことは、戦争準備のためであったので、官報には掲載せず、外国に知らさなかった深謀があったのではないかとの「仮説」を考えている。
道路と鉄道については、大崎駅から分岐した西南短絡線、新しい横浜駅をつくり、旧横浜駅を桜木町駅にしたことを見るとインフラを利用しながら軍都が発展する様子が分かる。
道路網は、江戸時代の五街道を中心に東京から放射状に広がる道路と、それらを横につなぐ環状線がある。江戸城の内堀、外堀は環状一号線、二号線である。中山道板橋宿のあった加賀藩前田家下屋敷跡には陸軍の兵器工場が建てられた。
明治維新後、天皇が京都から上京し東京奠都となった。江戸城は東京城、皇城、宮城となり現在は皇居だが、『江戸 東京大地図』(平凡社刊)の明治一六年古地図から、周辺の大名屋敷跡に要人邸・中央官庁・警察・近衛・軍隊の拠点を置いたことがわかる。
世田谷方面については、丸の内の陸軍用地が麻布・赤坂に移転、そこから青山練兵場、代々木練兵場、駒場・駒沢練兵場へと郊外に広がるが、この道筋は旧大山街道(国道二四六号線)沿いの拡大である。
鉄道については、東京では早くから市電ができており、均一料金で安く乗れた。清国の留学生も市電を使って早稲田やら明治やらに通ったという。
甲武鉄道は新宿駅まで来て、更にそこから飯田町駅まで延ばすが、これはその先の水戸徳川家屋敷跡にあった兵器工場、東京砲兵工廠と青山練兵場を繋いで、兵器と兵士を戦場に運ぶ狙いがあった。東京砲兵工廠で作製したのが明治三八年に制式化された三八式歩兵銃。陸軍が敗戦時まで長く採用した銃で武器に”菊の紋章”がついているのは三八銃だけ。千駄ヶ谷駅から青山練兵場へは引込線を作り、青山軍用停車場があった。
世田谷平和マップ
昭和三〇年の白地図にマッピングした。マップ作成に際して、加害、被害、抵抗の歴史を入れた。
駒場・駒沢の練兵場は目黒区との区界にある。京王線の明大前駅はかつて江戸幕府の煙硝蔵(武器庫)があったので当初は火薬庫前駅と呼ばれた。それから本土空襲になると、久我山、、経堂、弦巻町に高射砲陣地があった。どこの区でも東京の戦災資料センターにある被災マップを利用しているが、北烏山近辺が真っ白になって空襲がない事になっているが、久我山高射砲陣地への空襲で寺町が焼けた事実があった。世田谷区は十分に調査していないようだ。
それから抵抗の歴史が世田谷区にある。新宿でマップを作った時には入れられなかったのだが、幸徳秋水はじめ一二人が冤罪で処刑された東京監獄(市ヶ谷刑務所)があった。世田谷には、幸徳事件(大逆事件)の顛末に怒り、天皇に公開直訴を画策した徳冨蘆花の屋敷があり、今は蘆花恒春園として一般にも公開されている。大正期から革新的な教育で有名な成城学園や和光小学校も世田谷にあり、国定教科書を使わない成城学園を視野に平塚らいてふが引っ越してきた。
最後に、防衛省市ヶ谷記念館建設時に、東京裁判の記録も入れる合意があったが、完成してみたら陸軍士官学校の再現でしかなかった。これを東京裁判開始七〇年を期して運動をこれから考えている。
休憩中に、貼りだしたマップに参加者が集まりました。
①江戸朱引き図
②文政十一年古地図に鉄道・地下鉄を入れた地図(人文社刊)
③東京一目新圖(明治三〇年刊の復刻地図)
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・
東京の戦争遺跡を歩き「軍事大国日本」の創生期から「敗戦国日本」への百年史を考える

(1)天皇制国家の確立と戦没者にたいする祭祀制度の靖国神社創建
中山忠能の長女慶子天皇睦仁誕生 幼名祐宮(さちのみや)
慶応2年12月25日(1867年1月30日)孝明天皇が崩御。満14歳で践祚の儀を行い皇位に即く。京都御所にて即位の礼を執り行い、即位したことを内外に宣下する。大嘗祭は明治4年11月17日<1871年12月28日>に東京で挙行。一条美子を皇后に。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改めた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
(2)天皇の軍隊は江戸城、親藩、旗本屋敷に築き“軍都東京”となる
高輪で西郷隆盛、勝海舟の談判。進軍を停止
東海道先鋒総督橋本実梁江戸城を収む
軍防事務局に属した御親兵を薩・長・士の兵を以て御親兵を再編
東京、大阪、鎮西、東北に鎮台。名古屋、広島にも鎮台(6鎮台)
陸・海軍省の分立
徴兵令の発布 屯田兵
丸の内の陸軍用地を払い下げ→三菱ヶ原に 赤坂・麻布中心に移転
日比谷練兵場の移転→日比谷公園 青山火薬庫跡→青山練兵場
陸軍を統括する機関、諸教育機関の集中
近衛師団と第一師団の配置。東京衛戍総督部
(3)外征への鉄道敷設
横浜駅の変遷。横須賀線敷設。
甲武鉄道市街線、三崎町官地に始発駅。
御所トンネルと青山軍用停車場。品川短絡線。宇品短絡線。
(4)「大山街道(矢倉沢往還)」の軍事利用
駒場練兵場の開設 新設部隊(騎兵大隊・輜重兵中隊・近衛輜重兵大隊・騎兵実施学校)
駒澤練兵場の開設 砲兵の駐屯・訓練
(5)防衛省市ヶ谷記念館
過去の戦争を裁いた「極東軍事裁判所記念館」が、現在の軍事中枢防衛省と共存することになる。偶然の結果とはいえ、このようなケースは世界にも類例がない。
・・・・・・・・引用おわり・・・・・・・・・・・・・・・


説明をする東海林次男さん

東大前から自転車をこいで帰りましたが、翌日から足腰に激痛が起き大変な事態でした。