発行者 昭和23年24年開成学園卒業生の記録
“ペンと剣の旗の下”刊行委員会
発行2007年11月11日(非売品)
“ペンと剣の旗の下”
「第5章 学徒勤労動員」
東京第一陸軍造兵廠
其のⅡ
学徒動員の想い出 E・M
開成中学・高校生活で、最も特異なそして貴重な経験をした、学徒動員された造兵廠の事について少し述べたいと思います。
私共が開成中学に入学したのは昭和18年4月でした。日米間には暫く前から戦雲が漂い、昭和16年12月の真珠湾攻撃で日米戦争が開始され、日本は有史以来の危機に突入しました。昭和19年末には、私共中学生まで学徒動員きれ、二年次の12月から陸軍第一造兵廠王子工場に配属されました。仕事は小銃の弾の検査でした。冶具を使って長さ・円周の径等をチェックする事でした。
何ヶ月してから、今度は日本刀の鞘造りに変わりました。日本刀を、朴(ホウ)の木の長板に鉛筆で型取りし、日本刀がもぐり込める程に掘り込むことでした。日本刀というのは、ほんとうによく切れました。スウツト手足に触れたなと気付き、冷やっこいなあと感じたと思ったら、後から血が垂れてきます。痛さは感じません。それ程に良く切れたという事です。やはり日本人の魂がこもっていると云われる所以ですね。私共もよく切りました。今考えると恐ろしい事ですね。
この頃の私は殆どM・S君と遊んで過ごしました。このM君が、或る日から突然来なくなりました。後、聞く処によると、三月十日の東京大空襲によって家を焼かれ、近所の小学校の水泳プール(因みに、彼は錦糸町駅の近くに住んでいると言っていました)に逃げましたが、炎のあまりの強さに、そのプールで焼け死んだそうです。いくら戦争とは云えこういふ事があっても良いのでしょうか。
三月十日の大空襲の犠牲者は、十万人以上といわれています。敢えて私はアメリカに抗議します。『日本国民に謝罪すべし』と。
それはさておき、あの大東亜戦争の数百万の犠牲者の御冥福を切に祈念致します。
それから数カ月後、私共は又々配置替えがあり、私と他に一人(確かK・Y君だった様な気がします。違うかも知れません。若し違っていたらご勘弁くだきい。)小計二人が刀鍛冶の師匠の下で、種々下働きの様な仕事をさせられました。
① 鞴(フィゴ)の風送り
② 巨大なグラインダーでの刀の粗研ぎ
③ 刀の鞘入れの漆の塗布 等
異常時でなければとても経験できない様な仕事をさせられました。
特に漆塗りは大変でした。漆にかぶれるというのは、それまで全く想像もしたことが無かった大変なものでした。
顔が火照る・腫れる・赤く色付く、顔が凸凹に大きく腫れ、人に見せられるものではありません。熱も出ました。
私はとても我慢できずに何日か休みました。いずれにしても滅多に出来ない経験を致しました。
この貴重な経験をした私共の仕事場は、皆様はご存知ないと思いますが、造兵廠の川一つ超えた向う側にありました。そこには機関砲の射撃演習場があり、私も何度か其の音を聞いたものです。それは大変な迫力を伴う凄まじい響きでした。宇宙の大気が一遍に震えて、一大音響と同時に崩れるかと思う程でした。
斯様な苦しい学徒動員も、昭和20年8月の終戦で停止され、まもなく懐かしい道灌山での学枚復学が始まりました。まだまだ教材をはじめ履物、衣類等も不足する時期でしたが、其れまでの異常な経過をしいられていただけに、学枚生活の有り難き、貴重さが一際強く感じられたものでした。入学時の人数の半数ばかりの復学でしたが、何は無くとも皆逸速く明るきを取り戻していました。
最後に、皆橡の益々のご健勝をお祈り致します。
竹の秋 学徒動員 刀研ぐ M
学徒等は 蛙(カワズ)聞きつヽ 銃検査 M
【参考】 (K・J付記)
E・M君が最初に陸軍東京第一造兵廠に配属きれた時の名簿
です。文末の二人で刀鍛冶の師匠の下で働いた事は、殆どの人が知
りませんし、配置図にも部署は出ていません。従って本丈は大変貴重な記録だと云えます。