『クラインの壺』の著者、岡嶋二人はこの作品を最後に姿を消した。
というのは、岡嶋二人とは文字通りコンビを組んで推理小説を作ってきたが、発表後コンビを解消したからである。
現在小説家として活躍しているのは、井上夢人ひとりである。
数々の賞を受けた二人だが、この作品は公には何らの価値ある賞を受けていない。
しかし、発表当時つまり1989年に予想だにしなかった仮想空間の現実化を予知した作品である。
ネットが普及したのはずっと後である。
当時あったのはファミコンゲームで、きわめてマニュアックなものだったと記憶している。
その時代に現代のバーチャルリアリティの世界を描くとは、恐ろしい想像力である。
この作品がテレビドラマ化された1996年、私は初めて二人の著作に触れた。
ゲーム好きな学生がゲームのモニターにならないかと声をかけられる。
いかにもいかがわしい研究所職員の言葉に、冒険好きな少年はかえって興味を惹かれる。
場所が特定できない秘密の実験室の小部屋、そこで少年と共にスカウトされた美少女は、異次元を疑似体験するゲームに導かれるのだ。
ゲームは時間をかけて、二人はそれが日課のように体験していくのだ。
美少女役を佐藤藍子が演じて、大きな目が印象的だった事を覚えている。
細かいストーリーは覚えていないが、現実に生きる二人がゲームが作り出す仮想現実の深みに嵌まっていく様が非常に印象的だった。
原作はテレビドラマの冒険漫画のような面は薄れて、かなり世相をリアルに描いている。
「ここは一体、本当に存在するどこかなのだろうか?」
主人公の頭の中はこの思いに満ちて、ついに現実と非現実の区別がつかなくなっていった。
原作の想定では、主人公は大学を出たゲーム作家になっている。
そして金と引き換えに、自分自身が作ったゲームの世界の疑似体験をするのである。
世間知らずの彼は、怪しげな会社から、ゲームの中に原作をプログラムの形に変換して入力したい、そのために力を貸してほしいと言われ、参加してしまう。
企画したゲームでの名前は「クラインの壺」である。
クラインの壺というのは、2次元の世界で表が裏か、裏が表か、分からないものを称する。
彼は実験の最中、ゲームの舞台のアフリカで何度も死ぬ。
そして、死んでは蘇りを繰り返すうちに、現実と仮想空間の境目がぼやけていく。
私はゲームなるものに挑戦した事がない。
ゲームに夢中になり現実を忘れる怖さについて説教する気もない。
むしろ、それほど魅力的な仮想空間というものをこしらえ上げる技術があれば面白いだろうなと思う。
この作品の舞台は実名で出てくる。
それが、梶ヶ谷、溝の口、二子玉、と田園都市線の駅名である。
私にとって馴染み深い駅の周辺は小説ではひどく長閑に描かれている。
おずおずと近づく登場人物の若い男女の会話も長閑である。
このように、小説の中に流れるノスタルジックな情景に惹かれる。
これは未来予知のホラー小説というより、内向きの理系男子の妄想小説として読んだ方が面白いかも知れない。
読んでいただき心から感謝します。 宜しければポツンと押して下さいませ❣️
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