
茶の間に明かりが灯って、ちゃぶ台を囲んだ女たちはテレビを観ながらおばさんの入れてくれたお茶を飲む。
画面の中の城卓也が『骨まで愛して』を熱唱していた。
体格のいい真面目そうな城卓也が唄うと、恋歌と言うより応援歌に聞こえた。
「いい若者ですねえ」
下宿のおばさんは微笑んだ。
「そうですねえ」 ポン女(日本女子大卒の赤堀栄養学校で働く)の姉さんが答える。
跡見の子と私も合わせて頷く。
赤の他人の女ばかり暮らすこの小さな家の夜は電灯の光みたいな蜜柑色の幸せに包まれていた。
「生きてる限りは どこまでも
探し求める こいねぐら」
「何にもいらない 欲しくない
あなたがいれば幸せよ」
ねぐらって大好きな人と一緒に暮らす所なんだ❣️と若かった私は思う。
私もいつかそこで暮らしたい。
それは60年近く過ぎた今も鮮明に覚えている歌詞である。

江戸の昔、武家屋敷だった文京区高田老松町の一角、戦争未亡人の子供のいないおばさんと女子学生達の住む古い木造家屋。
格安の部屋だった。それに通ってる大学迄坂を下ったら直ぐの場所にあった。
19歳の私、喜び勇んで引っ越す事にしたのである。
一人っ子の自分は、子供のいないおば達と、祖母、包丁もマッチも危ないので持たせてくれない両親の過保護に包まれて(?)育った。
嫁、姑、小姑の女の戦いの中で窒息しそうだった。
その為、高校時代からせっせと貯めた小遣いを全部下宿住まいを始める費用に使ったのである。
大学の学生課の紹介で見つけた格安の下宿に格安の引っ越し業者のリヤカーの様な車で運んだのは、机と椅子と寝具、当面着る衣類、それと勉強道具、とその日の為に購入した電気釜だった。
風呂無し、台所とトイレ共用、三畳一間の2階の部屋。窓から小さな庭が見えた。
跡見の女の子とベニヤ板一枚隔てたお隣で、どっちが自分の部屋か分からないほどしょっちゅう行き来していた。
おままごとしてるみたいに楽しい日が続いたのである。
「いつか私も恋ねぐらを見つけたいわああ」二人の女子の思いは同じである。
跡見(跡見女子短大)の女の子は
「いいわねえ、男子のいる大学に入れて!」
とか言ってた。
しかしその頃の私凄い硬派でして、「好きになる人はたった一人で絶対それは守り通す」などとガチガチに固まっていたのです。
しかし、楽し過ぎた学生下宿は自分だけの蓄えで暮らせる訳もなく、半年もたたぬ内に過保護の親に引き戻されてしまったのである。
ただ今も鮮明に思い出へ残っている。戦前にタイムスリップしたような高田老松町の家並み、みんなで囲んで観たテレビ、城卓也の『骨まで愛して』。
「骨迄愛して」とは「死んで骨になるまでずっと変わらない気持ちでいてください」と言う意味である。
これが相当に難しい事なのを私は歳を経てやっと知った。
あの時の皆さん、息災でいらっしゃるだろうか?
おばさん、どうなっちゃたか?
人生は無常である。
歌手城卓也は若くして世を去った。
高田老松町、と言う町名も消えてしまった。
しかし、私の記憶の中の高田老松町は今も昔の家並みを残し、青春の歌が流れている。