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読書の森

ああ無情 最終章

気がついた時、恵は清潔な布団の上に寝かされていた。
側の女性に取り敢えず「ありがとうございます」と小さな声で言った。
「いえいえ、こちらこそ本当に失礼致しました。その節は主人が大変お世話になりまして。遅れましたが、私小夜子と申します。宜しくお願いします」
その言葉で恵はハッとした。

(と言う事は、この田舎のおばさんそのものの女性が徹の妻なのか?ところどころに白髪の混じったひっつめ髪も赤らんだ頬も、野暮った服装も凡そSA製薬社員の妻に相応しくないが)

「主人は生憎今所用で出かけております。小一時間もすれば帰ります」
「いえいえ。突然押しかけてお世話になった上に、長居するなんて厚かまし過ぎますわ」

恵は早口で言って、床から立ち上がり、急いで身仕舞いを整えた。

「待ってください!」
恵がギョッとして振り向くと、思い切った表情の小夜子がいた。
「主人もお宅のご主人も、恵さんがお帰りになる事を見越して私を看病に当たらせたのです」
「じゃあ奥さんって言うのはお芝居なの?あなた彼の使用人ってことね」
ゲンキンなもので、嬉しそうに顔を崩した恵を見て、小夜子は笑い出した。

「分かりました。奥様そう言う方なのね」バカにされたような言葉で途端に恵は膨れた。妻と言うのは事実だった、なんでこんな冴えないおばさんと結婚したんだろう。

「奥様には恐縮です(?)が、私は田村の籍に先月入ってます。ただ彼との付き合いはずっと以前からございました。
幼い頃から二人は仲が良かったので、時々会ってたのです。兄妹のようなものでした。
あなたが結婚されてから、寂しがり屋の彼が私に連絡をとって、言わば通い妻の形で今迄いたのです」

「それなら、どうして今日まで正式の奥様にならなかったのですか?」
「私に精神病の病歴があるからです」
「嘘!そんな!」
「そう言う病歴を明らかにすると就職も結婚も難しいですが、隠してこの地方の郵便局でアルバイト職員をしてました。ただし、病気を誘発する直接の原因はずっとついて参りましたが」
「原因って?」
「つまり、、私達兄弟は実の母を、そう田村が上京した後に、亡くしてまして父親は男手一つで育ててくれまして、、私主婦代わりなので妙に所帯染みてて」
「それで、世間から陰口言われていじめられて?」
「違うんです!」
「この話、今は主人と弟しか知りませんが、私、父親の妻と娘を兼ねていたのです。医者にも言えませんでしたが、とても苦しかったです。年頃になって父親が独占欲を発揮すると敏感に反応するのです。気持ち悪くておぞましくて。その症状は精神病の症状そのもので暴れ出したりするのですが」
「、、、」
「それを彼に告白したら、逃げ出すどころか、たいそう同情してくれました。そして父親と離れるように私を援助してくれたのです」
「、、、」
「その父親と没交渉になった後、とても寂しそうだったと近所の方から親不孝者と怒られた事もあります。誰も事情を知らぬまま、父親は10年前に亡くなったのです。自殺でございます」

この話、聞かなければよかった。恵は激しく後悔した。
「すみません、聞かなかった事にしてください」
急に老け込んだ顔の恵の前に、これまた沈んだ諦め顔の小夜子がいた。

「奥様の前でなんですけど、これからの人生私の心の傷を治す為に生きると主人は言ってくれました。平凡なのが一番だ。死ぬ迄安泰に暮らせるお金ももらったし、安心しろと」
「お幸せですのね」
「いいえ!」
「なんですか、それ」
「結婚前そう言われた時、天国に登る心地でとっても幸せでした。
しかし、贅沢なようですが私もう飽き飽きしてるのです。財産がいくらあってもそれは夫のもので私は夫の自己満足の対象のペットに過ぎないからと思ってしまうのです。仕事もないし、精神病の病歴はやっぱり消えないし、いっそ父親の死後ホントに自立して生きてみたいと思ったのです!」
「それは贅沢ですよ!徹さんみたいに優秀な方に愛されて。
彼は自分の有り余る才能を捨ててあなたの為にこの生活を選ばれたと違いますか」
語気を強めた恵を寂しそうな目で小夜子は見た。
「奥様と一緒ですわ」
「、、、」
「いいえ、違いますよね、私は事情を知らない田舎医者ですが医者から精神病と刻印を押された人間です。つまり廃人宣告されたのよ。私それを覆したいんです。
こんな話したくないけど、小学校の頃は徹と1、2番を争う成績だったのです。自分の力で生きられる人間だと証明したい」
「、、、」
「今は自分じゃまともなつもりなんです」

必死に訴える小夜子は、ビックリする程面変わりして見えた。急に娘時代の顔に戻ったみたいにイキイキと可憐だった。
多分この人は徹と同じように真摯に生きる情熱を持った人なんだ。感情の変化が、奇跡のように人の印象を変える事を初めて恵は知ったのである。
(しかし「ええ、全然あなた普通。いいえ頭が鋭敏な方だったのね」
と恵は正直に言えない。それが嫉妬とは認めたくない)
「私医者じゃないから分かりません。この話忘れるわ」
そう言って逃げるように、外に出た。



その日の夕方、恵は未だXX県の街中を彷徨していた。
駅ビルの和風喫茶で一服して帰るつもりが、何故かしばらくこの取り残されたような町の空気を吸っていたいと無性に思ったのである。

それまで着ていた服はボストンバックに仕舞い込み、地元で買った普段着っぽいワンピースを着込んで、ぼんやり歩く。
赤々と夕陽を浴びた山々を背に、人通りのまばらな商店街を歩くと、風を感じた。そこを吹く風は生き返るように澄んで爽やかだった。
「何もかも忘れてもう一度無垢な子どもに戻りたい」
なぜか涙ぐんだ恵は痛切に思った。



読んでいただきありがとうございました。

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