■激動の昭和を国民と共に歩み日本を世界屈指の先進国に導いた先帝、昭和天皇
明日4月29日、昭和の日は先代の天皇陛下である昭和天皇の誕生日になります。
もちろん、殆どの日本人は知ってると思いますが、
10代、20代の人の中にはもしかしたら知らない人もいるのかも知れませんね。
今は平成ですが、その前の年号は昭和でしたね。
昭和と言えば、戦争で負けてしまった日本は焼け野原にされ、
これ以上無い苦しい状況になりました。
そんな、まさにどん底の日本を、日本人を励まし見守り、勇気付け
日本人の心の支えとなり、復興に向け祈りを捧げ、
そのどん底から世界屈指の先進国に導いたのが昭和天皇でした。
せっかくの昭和天皇誕生日ですので、ちょっとエピソードを紹介しましょう。
●私の身はどうなってもよい、飢えに苦しむ国民を助けて欲しい。
敗戦した日本の下にマッカーサー元帥率いるGHQがやってきたある日の話。
アメリカ大使館内のマッカーサーの宿舎に昭和天皇が訪問した。
それまでの権力者の最後がそうであったようにマッカーサーは
昭和天皇が命乞いに来たのだと思った。
が、通訳を通して昭和天皇の口から出た言葉は意外なものだった。
「戦争に関わる全ての責任は私にある。好きなように処分してほしい。」
「だが、戦争の結果、国民は飢えている。このままでは罪のない国民に多くの餓死者がでるおそれがあるから、米国に食料援助をお願いしたい。」
「ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持ってきた。その費用の一部にあててほしい。」
マッカーサーも、「正直グッと来た」と後の回顧録で話している。
昭和天皇本人は戦争やりたくなかったが軍部が暴走し戦争突入、結果敗戦となった。
大日本帝国憲法では法律的にも戦争責任は内閣にあるのに、
いざ敗戦となれば死をかえりみず「全部、俺の責任だ。」
おまけに私財をなげうって「飢えた国民に飯を食わせてやってくれ」
こんな君主は世界広しといえども、そうはいないのではないか。
↓動画、マッカーサーの通訳が語る、昭和天皇「私が身代わりになる」発言
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 ← ここをクリック
●25歳で即位された昭和天皇は、侍従に言った。
『9千万の国民と、皇祖皇宗から受け継いだ祖国の運命は、いま自分の双肩にかかっている。』
●戦後、昭和天皇は国民を励まし勇気付ける為、日本全国を巡幸されました。
堪え難きを堪えていたのは、陛下も同じだったのです。
そして,広島では被爆した男の子を抱き寄せ涙を流されました。
御巡幸のあいだ、各地で涙を流されたそうです。
●国民を思い、物を大切にし、贅沢を嫌った昭和天皇
『戦災の国民を考えれば、、(巡幸中)十日くらい風呂に入らなくてもかまわない。』
『私のパンだけ白いのは困る、国民の配給と同じにしてくれ。』
(巡幸の様子は)アメリカ人も見ていますから、背広を新調されては、、と言う侍従の勧めに、、
『アメリカは勝ったんだし金持ちなんだから、いいものを着たって当たり前だが、日本は負けて、みんな着るものもなくて困っているじゃないか。
洋服なんかつくる気になれない!』と、お答えになった。
公務で必要な洋服は体裁の為に新調されても、新しい服が傷まないよう、すぐに古い背広に着替えられた。
『これは,国民の肩身を狭くしないために作った服だから、そういうときのために、綺麗にとっておかなくては。』
●崩御(亡くなる)直前まで国民を思う
長雨が続いた昭和63年。末期がんで余命幾ばくもない陛下は侍従に病床から、、
『長雨にたたられた今年の稲の実りは、どうなっているか?(国民が飢えることはないか)』
と心配された。
自分の家族でもなく、財産でもなく、最後まで気に掛けていらっしゃったのは「日本と国民」の事。
昭和天皇のこういった「ちょっといい話」は沢山ありますので機会があれば本等を読んで見てください。
その素晴らしいお人柄は、今上天皇にも受け継がれ、
ご高齢で病気もなさっているのに東日本大震災でも、被災者を励まし元気付けております。
そして多くの被災者が感激し勇気付けられ涙を流しております。
日本が昭和天皇と共に戦後のどん底から這い上がったように、
日本には天皇陛下がいらっしゃる限り
東北の震災の復興も遂げ、さらに強く生まれ変わると信じます。
天皇陛下万歳☆
125代万世一系、世界で日本人だけが持てる誇り。
未来永劫の日本と御皇室の弥栄を祈ります。
参考過去記事
日本の君主のお話
天長節(天皇陛下ご生誕日)
日本の君主のお話(その2)
日本の君主のお話(その3)