阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

自我は100%正しい結果を出すことは無い。

2010年10月25日 | 思索
【自我は100%正しい結果を出すことは無い。】

「これが私だ」と思っていることは誰しも必ずある。
こういうときには私はこうする、といった、自己の規範となるべきものである。
各個人の経験や思考方法などで構成され、それは個性と呼ばれ、一人一人まったく違ったものとなって、人間社会はそういった人々が構成する多様なものとなっている。

そこで、果たしてそのそれぞれの自我というものを検証していったときに、その規範が「100%正しい」ということはありえるだろうか?ということを考察する。

■カレーが好きな人の話

例えば、「私はカレーが好きである」といった自我があるとする。
あるとき、見た目はカレーだが味がまったく好みとは違うカレーを食べたとする。
結果として、当然「私はこのカレーは嫌いだ」という結果が導かれるが、前提として自我が用意してある「私はカレーが好きである」というものが否定されることになる。
そこで自我はその見解を再構成して、「私は○○のカレーが好きであり、××のカレーは嫌いである」ということが起こる。
そして、自我は次の食べるカレーではそれに見合ったものかどうか検証していき、その結果違えばまた再構成していく、ということが起こる。

たくさんのカレーを食べていくうちに、一番最初の「私はカレーが好きである」ということは間違いであったことに気付かず、今現在の「私は○○のカレーや△△のカレーが好きであり、××のカレーや□□のカレーは嫌いである」ということが自分の真実として100%受け入れられている。そして、これが現時点で正しい、と考える。

次に、再び××のカレーと出会ったときに彼は、「前食べて美味しくなかった」という条件を引き出し、そのときの不快な感情や味を思い出し、仕舞いには食べなくて良いものなら食べない、といった選択を行うかもしれない。

しかし、その××のカレーを作った人は、その後鍛錬を重ねて見た目は同じでも味が一級品になっているかもしれない。そうした場合に彼は、自分の規範である自我の声に従ったがために、そうした経験を体験することも無くその場を過ごしてしまうことになる。

もしここで彼が、「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということを受け入れていれば、「前は口に合わなかった事実はあったが、それは前のこと。今度はどうだろう?」という気持ちになり、実際食べてみて驚きの変化に驚嘆して、やはり自分が間違っていたことを改めて自覚することになるだろう。

■カレーが好きな人の自我の検証

このようにしてみると、いろいろなカレーを食べ進めているうちに、最初に考えていた「私はカレーが好きである」という前提は細かく分断され、最初の前提が間違っていたことがわかってくる。いよいよ彼は日本で作られているカレーをすべて食べつくしたとき、彼のカレーに関する自我は当初のものよりとても複雑でいわば「通」と呼ばれるぐらいまで発展しているであろう。しかし、さらに海外のカレーには様々なものがあり、その中にはこれまでの経験を超える味のカレーがあるかもしれない。そして海外のカレーを食べ進めていくうちに、日本でのカレーに関する自我は間違っていたことに気付くかもしれない。

カレーは世界に無限に存在するわけではないが、彼の一生でレストランで食べるものから、各家庭で作られるカレーをすべて食べて、完全なカレーに関する自我を形成することはおおよそ不可能である。よって、最後までいろいろなカレーを食べ続けた彼の死の段階でのカレーに関する自我も、その先の様々なカレーを考えると、間違っている、ということが言える。

彼が一生かけて食べてきたカレーに関する自我は、一度も正しかったことはなかったのである。

■カレーが好きな人の正しかったこと

では彼は間違っていたのだろうか?そうではない。彼が次のカレーに駆り立てられたのは、これまでのカレーに関する自我を否定して「まだきっと美味しいものがあるだろう」と考えたからである。彼は「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということを知っていた。だからこそ、新しいカレーを求め続け、そこには様々なカレーとの出会い、驚きのある素晴らしい人生であった、ということが言えるのである。

もし、彼の自我が途中で「もう自分は食べつくした、すべての美味しいカレーは知った」という気持ちが沸き起こったのなら、その先の彼の経験は、すでに知ってしまったものばかりになってしまうため、退屈なものになってしまっていただろう。

■四角形か三角形か?

別な例で考える。
目隠しした状態で、目の前の四角いプレートがある。「このプレートの1箇所だけ触れて、その形を答えよ」という問題があったとする。その人は、角のとがった部分に触れて、「これはとがっているものです」と答えるだろう。「ではさらにもう一箇所触れて、その形を答えよ」と言われれば、もうひとつの角に触れて、「これは針のようなものです」と答えるだろう。「ではさらにもう一箇所触れて、その形を答えよ」と言われれば、さらにもうひとつの角に触れて、「これは三角形です」と答えるだろう。

ここで、「正解です、これは三角形です」と言われたまま、正解も見ずにその場を去れば、その人には「あそこで触ったプレートは三角形だった」、という記憶が残り、持続する。実物の正解を見るまでは、彼は三角形であった、と言い張るだろう。

もっとも、これだけでは情報が足りない、と考える人も多いだろうが、結局三角形が正解だ、と言われた場合、その人の自我はそう思い満足するしかない。

■日常の自我に対する考察

これら二つの例から、人間それぞれが持つ自我の情報というものは、どこかで「頭打ち」になっていることがわかる。日常の生活では、この「頭打ち」が新たな経験の阻害になるケースが非常に多い。例えば、道端にコスモスが生えていたとする。初めて見る子供などは、名前も知らないその花を、視覚・嗅覚・触覚など全神経を使って観察するだろう。しかし、図鑑などで似たようなコスモスを見ていたことがあり、名前も知っている人がそのコスモスを見た場合、「これはコスモスだ」ということで、そのコスモスの花びら・茎・葉などをしっかり見たり触れたりすることなく、そのコスモスを経験することはない。

自我には大事な役目がある。それは、日常の経験を記憶し整理し、状況に応じて再び取り出す機能である。しかし、その役目が正しく機能することはめったにない。なぜなら、そのときの気分や感情、状況によって、同じ経験でもまったく違って記憶されるケースがほとんどであるからだ。また、ほとんどの場合、その記憶の仕方も包括的ではなく、断片的・局所的になってしまう。例えば、初めて会う人が自分の嫌いな振る舞いをした場合など、その人がどういう人かまったくわからないにも関わらず、「嫌な人かも」という記憶の仕方になる。

新しい経験の上で、自我より誤った記憶を引き出して、それを経験よりも優先して採用する場合、新しい経験は経験とはならず、何ら新しいものを得られないまま、過去の自我の記憶を強めてしまう。子供の頃より情報過多に陥っている現代人は、早い段階で新しい経験から遠ざかる人々が増えている。新しい経験から遠ざかれば、非常に凝り固まった自我による制限により、様々な弊害が出てくるだろう。ひとつは、物事に対して否定的になるだろう。経験よりも自我の情報を優先するということは、物事に対する決め付けが常に行われる。それに当てはまらない経験に対しては否定的になる。もうひとつには、近視眼的になる。断片的な物事から全体像を作る場合、その断片が強調されるため、本当のその物事とはかけ離れた全体像を見ることになり、それはあらゆる場面で多くの誤解を生じかねない。例えば最近の例では、中国で行われた反日デモだけを見て、「中国人は野蛮だ」と考えたりすることなど。

■まとめ

このように考察していくと、全人類にとって、あらゆる物事に対して100%正しい判断をする自我を持った人は存在しないことがわかる。中でも優れていると言われる人たちはこのことを十分に理解しており、自分の現在の自我よりも新しい経験を常に最優先にして、適切にその経験の記憶を自我に留めているだけである。新しい経験を最優先にするだけで、自我はその機能性のみを表し、的確に活動してくれるようになるだろう。反対に自我(気分・感情的なものや怒り・欲望・迷いを含む)を優先して活動する人間は、新しい経験が行われず、あるところの頭打ちな形で活動することになるだろう。それでも社会生活は可能であるが、仏教でいうところの六道輪廻(地獄、餓鬼、畜生、人、天、修羅)を繰り返すことになるだろう。

ある新しい経験を前にして、これまでの自分の持っている情報と違うのならば、自分の自我の情報を疑って直す、ということが日常的に行われるように活動するのが、人間の本来的な素質である、と考える。また、他人の経験談やメディアなどの伝聞(自分が経験していないこと)は、たかだか数人で行われる伝言ゲームが、最後まで正しく伝わらないことからみても、正確な情報とは言いがたく、もしその真相が知りたければ、同じように自分でやってみる、もしくは直接本人に聞いてみる、などの行動が自我の健全な形成を促すと考えられる。

以上より、表題の「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということが言える。

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4 コメント

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考える人 (ローグロー)
2010-10-26 08:01:37
いつも、アベタクの頭の中を見てみたい!!と思ってしまうけど、考えることが好きなんだなぁ~と感じました☆


自然にしてしまってることなら、賢い人じゃなきゃなかなかここまで考えられないし、思考が追いつかず、考えようともせずに流してしまうでしょう。
良い考えばかりが生まれず、考える行為が自分を追い詰めることになっても、考えることでまた良い方へ導かれることもあると知っているからかな。


私のように、日々忘れっぽい人は、過去の経験も定かじゃないので、日々新しい経験のように感じ、あとから、過去にしたことを思い出したり…それもまた、どうかと思うけど、
子供に毎日“何で?何で?”と、あらゆる事柄を質問攻めにあい、一つ一つ分かりやすい説明するのがとても難しく、やっと説明出来たかと思うと次に“どうして?”が始まり、こちらからしてみれば逆に“どうして?って疑問がなぜわくの??”と思うけど、まっさらな子供からしてみれば当然の疑問で、我が子に間違った自我の形成をしないように(何が正しいかわからないけど…それはアベタクの思索のように…)母はしっかりしなきゃなぁ~と思いました…。
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相変わらず (ナツメグ)
2010-10-26 18:01:21
難しい(笑)
私は今判断していることは全て正しいと思う。それが必要で判断してるから。けど人間は常に変化していくから前の考えが間違ったりそれが正解だったり。そうして次を考えられ変化していると思うから。人はずっと同じではないと思う。前の経験だけで動かない人は人の評価にまどわされ問題をおこしたくない、嫌な思いをしたくないから動けないのかもしれない。けど変化したいって常に思ってるんじゃないかな。変化してるけど動けてないだけ?そんな気がします。。どっちもありでいいよーな気がします。って語ってしまったけどアベタクさんが話てることとかけ離れていたらごめんなさいね。
私も常に自分について考えてしまう日々です。
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でも・・・ (せいこ)
2010-10-27 12:24:38
少ない情報しか持ってない人は、多くの情報を持ってる人と全く同じ判断はできないと思います。四角いプレートの3つの角しか見えてない人が「これは三角だ」と判断するのは当然。
そこで重要なのは、三角と思い込み、そこからもう何も考えないか、それとも、「もしかして4つめの角があって、四角なんじゃないのか?」と夢や想像を膨らますかどうか。
数日後、4つめの角が見つかって、四角だとわかっても、数日前に「三角だ」と判断したことは、間違いじゃないと思う。
それしか情報がないときの、その人の精一杯の判断だったから。
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たくさんコメントありがとうございます (アベタク)
2010-10-28 10:38:07
皆さん、しっかり読んでくれて嬉しいです(^^)

> ローグローさん

本当に、考えることが好きみたいで(苦笑)
ただ、時に発展的な思考と自我に執着した思考がゴチャゴチャになることが多くて、今回はそれのすみ分けのための小論なのでした。

お子さんの「何で?何で?」っていうのは、とても自然な好奇心でしょうね。人間の特権である無知が発動して、それを恥ずかしいとか愚かだとかに捕らわれないで探求していくというのが、好奇心であると思います。大人だからといって、全部が全部説明できることではないので、わからないものはまた初心に戻って一緒に「何でだろう?」と考えてみるのが良い態度だと思いますね(時間の許す限りですが)。自分だけで探求するクセがついたら、それ以降は自我の形成はもう大丈夫だと思います。

> ナツメグさん

非常に自分の書いた内容をまとめていただいたようなコメントで感謝です。自分ももう少し簡潔に説明できたら良いんですが(苦笑)なので、とても記事の内容を良く理解していらっしゃると感じました。

自我の習性として、体や精神の変化を弱める(ブレーキのような)働きがあるように思いますね。体の例ならマラソンなど走っているときに呼吸が苦しくなったので走ることを中止させるとか、精神の例なら好き、嫌いなどで取り組み方が異なるなど。正常に動作しているなら問題ないですが、異常に動作している場合(例えばひとつの物事に執着している場合)には、心や体全体に影響して動きの統制が取れなくなることがあります。こうした場合に、本論の「自我は必ずどこか間違っている」ということを認めたとき、その執着の連鎖が一部分でも切れれば、楽になる、ことが言えると考えています。

> せいこさん

まさにその通りです。そこまで理解してくれたなら、とても嬉しいです。

これは教育というものを考えることにもつながってくるのですが、例えば小学生の地理の問題で、解答に「リアス式海岸」と答えればマル、という問題があったとします。ここで、児童が答えて先生がマルつけて、はいお仕舞い、であれば両者満足ですべて円満です。例えば、ここでその児童が好奇心旺盛で、「何でリアス式っていう名前なの?」とか、「他の式もあるの?」とか、「いつリアス式という名前に決まったの?」とか、矢継ぎ早に問いかけると、先生は答えられる範囲ではその場で答えますが、すぐには出てこないものや知らなかったものまで含まれると、先生はパニックになるかもしれません。なので、ここでいう「三角形で正解」ということにして、児童もそれ以上問うこともなくなれば円満、というひとつの社会構造が出来てくる、と考えています。

この人間の本来的で純粋な好奇心を満たすためには、人に聴くには限界があり、やはり最終的には独力で歩まなくてはならないことを示しています。この道は現代社会では多くの困難を伴いますが、素晴らしく充実した生命活動となることでしょう。
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