(注)
引き続き、五井野正博士のファンレターとしてお読みください(^^)
前回の五井野正博士~出逢い~に続いて、最も賢い善人とは。で述べたように、何故私が五井野正博士を「最も賢い善人」と確信するのか?の理由を述べていきます。
その1 最高の仏教解釈
前回の記事でも述べたように、それまで自分は精神の拠り所として仏教を求め続けてきました。
仏教との最初の出逢いは、「禅」でした。
座禅を組んで瞑想することで、煩悩の滅尽を目指すというもので、煩悩・妄想の多い自分としては、何とかこれで無くせないか?と座禅を組んで瞑想したりしていました。
しかし、次から次と脳内に表れる煩悩・妄想に囚われまくり、結局三日坊主的に終了してしまったように思います。
よく本や漫画などで、「はっ!」と悟る、とありますが、あれは相当な修行を積まれた僧侶などがなることで、凡人が2,3日瞑想したところで起こることではありません。
次に挑戦したのは、「内観」です。
内観道場に1週間泊り込み、毎日「してさしあげたこと」「していただいたこと」「迷惑・心配をかけたこと」について、家族や友人など身近な人それぞれに対して深く顧みて、自己反省をする、というものです。
結果的に誰に対しても、「してさしあげたこと」よりも「していただいたこと」・「迷惑・心配をかけたこと」が圧倒的に多くなり、「自分はしてもらってばっかりだ」と気づいて自己反省していく、というのが内観の理想的パターンなのですが、生来のヒネクレ者の私は、一部感情的に有難い気持ちにもなったりしましたが、何かと怒りも多く出てしまって、泊り込んだ割には道場が終わればすぐに元に戻ってしまった苦い記憶があります。
これより、内部の煩悩(怒り、貪り、迷い(無明))が多過ぎると、いろいろなものに対する素直さがなくなるために、内観では回復できないことを悟りました。
この後は、もっぱら書物やインターネットサイトを主に、仏教に関するものをつまみ食いしておりました。
一つは家出空間です。
こちらのサイトはかなり勉強になりました。瞑想時に妄想が表れると、煩悩である「貪(とん・欲望)・瞋(じん・怒り)・癡(ち・愚痴・無明)」からどれに当たるかを分類し、例えば怒りならば、「怒り、怒り、怒り、怒り…」と妄想に対して念を送り続けると、その怒りが鎮まる、というものでした。
これはなかなか効果があり、このサイトの主催である小池龍之介さんの本にも興味を持って何冊か読んで、とても参考にしていました。
しかし、これらの煩悩が一瞬でも消えたは良いのですが、消えた後何をするのか?というところがわからず、小池さんは「ただ無心に物事に徹する」とはいうものの、何かをするときにはいろいろ考えながらしなければいけないことが多く、いろいろうまくいかなくなって結局離れてしまった、という経緯があります。
他には、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッスレ・スマナサーラ長老という方ですね。
こちらの方は、「慈悲の瞑想」というものを実践することを勧めておりまして、こちらのブログでも過去にご紹介しました。
「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように…」など、このようなことを、毎日瞑想で実践していけば、心からそう思うようになる、というものなのですが、私はどうしても自我が出てしまい、「自分がこんなにいろいろ大変なのに…そんなことできるか!」みたいな心がわいわい出てきまして、これも三日坊主的にやめてしまったように思います(書いていて、我ながら根気がないな…(苦笑))。
そして、五井野正博士の登場です。
「科学から芸術へ」でも釈迦の心について少し触れられておりますが、博士の仏教に対する造詣は果てしなく深く、「いったい何者なのだ?!」という気持ちが自然と沸いてきました。
そこで、2冊目に選んだのが「法華三部経体系(総論)」という本です。
タイトルはとても固い内容で、なかなか普通の人が手に取るようなものではないのですが(このことは博士も本の中で触れています)、内容がとてつもなく素晴らしい!!!
手にしてから一気読みですね、ほんと。
ざっくり内容を説明しますと、仏教とは本来何なのか?悟りとは何なのか?仏教にまつわる世界の本当の歴史とは何なのか?について、とても慎重に選ばれた言葉とわかりやすく無駄のない文章で記述されておりました。
途中に「アトランティス・オリオンの記憶」などの博士らしい表現(その他の著書にも随所に出てきます)や、キリスト教と西洋科学はどういう関係なのか?など、目からうろこ、とはこのことのような、合点のいくお話の流れにぐいぐい惹きこまれました。
ぜひ今生でご一読を(なかなか手に入りませんが)。
で、博士の仏教に最も共感した、というか感銘を受けたのは何と言っても、「心」を最も大事にしている点です。
釈迦は想像を絶する苦行をしてまで悟りを求めた、という知識は自分も以前からあったのですが、博士はその釈迦の「必ずや人間の苦しみは克服されるはずだ!」という前向きな心に着目して、人間はそのように生きてこそ真の成長があるのだ、といったような論法でやさしく文章を進めるのです。
この本の中で博士は、「私は悟っています」と明言していますが(このように書くと「胡散臭い」と思う人も多いかもしれませんが)、自分も最初「まさか!」と思いましたが、その他の著作や博士のこれまでの実績を鑑みると、本当にそうなんだ、と思わずにはいられません(また追って書いていきます)。
余談として、博士は中学卒業の15歳ぐらいのときには、大学生の兄から借りた教科書で大学の教養課程の数学・物理・化学を極めており、高校時代は化学クラブに所属して、もっぱら自分の研究(有機化学やリサイクルなどの化学実験、ロケットの開発などなど)やその他の医学・生物学などの学習を独自に勝手にやっていたそうで、高校卒業してからは大学には行かず、政治・経済・歴史・宗教の研究に入ったそうです。
さらにすごい余談として、高校入学時に高校3年生が受ける模試の数学・物理を一緒に受けて、その高校で1番(3年生を含めて)、全国でも5番以内(?)に入ったそうです(著作で、1問ミスしたのを悔やんでいました)。
「自分は高校で学ぶことはなかったのです」、「日本じゃなければ17歳で博士号が取れた」と著作で書かれていまして、カッコいいですね~ほんとファンです(^^*)
その中で仏教の研究進めて、釈迦や天台大師、日蓮の為したことやそのときの心までを把握したそうです。
自分は更に興味を感じて、「蜜の法華三部経体系」という、さらに突っ込んだ内容の本をオークションで取り寄せまして(これがかなり高い)、さぁどんなことが書いてあるのだろう???と楽しみに読み始めたのですが、自分はこの本の内容で博士に思いっきり殴られることになります…。
というのも、この本の内容は、現代人がこの世の中で生きていくための教えが書かれているのですが、原発の問題や社会風俗、政治、経済、教育などなど、戦後のGHQの政策の中、平和ボケした日本人をバッサリ切りまくりの内容で(30年以上前の本です)、自分としても耳が非常に痛く、また文章の難易度も上がって、とても1回で素直に読めるような内容ではありませんでした。
しかし、何度も読み返していくうちに、博士がなぜそこまで声を上げて日本人に伝えなければならなかったのか?そして、そのときの博士の心というものが少しずつわかってきて、本当に頭が下がる思いです。
以上、五井野正博士を最も賢い善人であると感じる理由の一つ、最高の仏教解釈、でした。
(続く)
引き続き、五井野正博士のファンレターとしてお読みください(^^)
前回の五井野正博士~出逢い~に続いて、最も賢い善人とは。で述べたように、何故私が五井野正博士を「最も賢い善人」と確信するのか?の理由を述べていきます。
その1 最高の仏教解釈
前回の記事でも述べたように、それまで自分は精神の拠り所として仏教を求め続けてきました。
仏教との最初の出逢いは、「禅」でした。
座禅を組んで瞑想することで、煩悩の滅尽を目指すというもので、煩悩・妄想の多い自分としては、何とかこれで無くせないか?と座禅を組んで瞑想したりしていました。
しかし、次から次と脳内に表れる煩悩・妄想に囚われまくり、結局三日坊主的に終了してしまったように思います。
よく本や漫画などで、「はっ!」と悟る、とありますが、あれは相当な修行を積まれた僧侶などがなることで、凡人が2,3日瞑想したところで起こることではありません。
次に挑戦したのは、「内観」です。
内観道場に1週間泊り込み、毎日「してさしあげたこと」「していただいたこと」「迷惑・心配をかけたこと」について、家族や友人など身近な人それぞれに対して深く顧みて、自己反省をする、というものです。
結果的に誰に対しても、「してさしあげたこと」よりも「していただいたこと」・「迷惑・心配をかけたこと」が圧倒的に多くなり、「自分はしてもらってばっかりだ」と気づいて自己反省していく、というのが内観の理想的パターンなのですが、生来のヒネクレ者の私は、一部感情的に有難い気持ちにもなったりしましたが、何かと怒りも多く出てしまって、泊り込んだ割には道場が終わればすぐに元に戻ってしまった苦い記憶があります。
これより、内部の煩悩(怒り、貪り、迷い(無明))が多過ぎると、いろいろなものに対する素直さがなくなるために、内観では回復できないことを悟りました。
この後は、もっぱら書物やインターネットサイトを主に、仏教に関するものをつまみ食いしておりました。
一つは家出空間です。
こちらのサイトはかなり勉強になりました。瞑想時に妄想が表れると、煩悩である「貪(とん・欲望)・瞋(じん・怒り)・癡(ち・愚痴・無明)」からどれに当たるかを分類し、例えば怒りならば、「怒り、怒り、怒り、怒り…」と妄想に対して念を送り続けると、その怒りが鎮まる、というものでした。
これはなかなか効果があり、このサイトの主催である小池龍之介さんの本にも興味を持って何冊か読んで、とても参考にしていました。
しかし、これらの煩悩が一瞬でも消えたは良いのですが、消えた後何をするのか?というところがわからず、小池さんは「ただ無心に物事に徹する」とはいうものの、何かをするときにはいろいろ考えながらしなければいけないことが多く、いろいろうまくいかなくなって結局離れてしまった、という経緯があります。
他には、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッスレ・スマナサーラ長老という方ですね。
こちらの方は、「慈悲の瞑想」というものを実践することを勧めておりまして、こちらのブログでも過去にご紹介しました。
「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように…」など、このようなことを、毎日瞑想で実践していけば、心からそう思うようになる、というものなのですが、私はどうしても自我が出てしまい、「自分がこんなにいろいろ大変なのに…そんなことできるか!」みたいな心がわいわい出てきまして、これも三日坊主的にやめてしまったように思います(書いていて、我ながら根気がないな…(苦笑))。
そして、五井野正博士の登場です。
「科学から芸術へ」でも釈迦の心について少し触れられておりますが、博士の仏教に対する造詣は果てしなく深く、「いったい何者なのだ?!」という気持ちが自然と沸いてきました。
そこで、2冊目に選んだのが「法華三部経体系(総論)」という本です。
タイトルはとても固い内容で、なかなか普通の人が手に取るようなものではないのですが(このことは博士も本の中で触れています)、内容がとてつもなく素晴らしい!!!
手にしてから一気読みですね、ほんと。
ざっくり内容を説明しますと、仏教とは本来何なのか?悟りとは何なのか?仏教にまつわる世界の本当の歴史とは何なのか?について、とても慎重に選ばれた言葉とわかりやすく無駄のない文章で記述されておりました。
途中に「アトランティス・オリオンの記憶」などの博士らしい表現(その他の著書にも随所に出てきます)や、キリスト教と西洋科学はどういう関係なのか?など、目からうろこ、とはこのことのような、合点のいくお話の流れにぐいぐい惹きこまれました。
ぜひ今生でご一読を(なかなか手に入りませんが)。
で、博士の仏教に最も共感した、というか感銘を受けたのは何と言っても、「心」を最も大事にしている点です。
釈迦は想像を絶する苦行をしてまで悟りを求めた、という知識は自分も以前からあったのですが、博士はその釈迦の「必ずや人間の苦しみは克服されるはずだ!」という前向きな心に着目して、人間はそのように生きてこそ真の成長があるのだ、といったような論法でやさしく文章を進めるのです。
この本の中で博士は、「私は悟っています」と明言していますが(このように書くと「胡散臭い」と思う人も多いかもしれませんが)、自分も最初「まさか!」と思いましたが、その他の著作や博士のこれまでの実績を鑑みると、本当にそうなんだ、と思わずにはいられません(また追って書いていきます)。
余談として、博士は中学卒業の15歳ぐらいのときには、大学生の兄から借りた教科書で大学の教養課程の数学・物理・化学を極めており、高校時代は化学クラブに所属して、もっぱら自分の研究(有機化学やリサイクルなどの化学実験、ロケットの開発などなど)やその他の医学・生物学などの学習を独自に勝手にやっていたそうで、高校卒業してからは大学には行かず、政治・経済・歴史・宗教の研究に入ったそうです。
さらにすごい余談として、高校入学時に高校3年生が受ける模試の数学・物理を一緒に受けて、その高校で1番(3年生を含めて)、全国でも5番以内(?)に入ったそうです(著作で、1問ミスしたのを悔やんでいました)。
「自分は高校で学ぶことはなかったのです」、「日本じゃなければ17歳で博士号が取れた」と著作で書かれていまして、カッコいいですね~ほんとファンです(^^*)
その中で仏教の研究進めて、釈迦や天台大師、日蓮の為したことやそのときの心までを把握したそうです。
自分は更に興味を感じて、「蜜の法華三部経体系」という、さらに突っ込んだ内容の本をオークションで取り寄せまして(これがかなり高い)、さぁどんなことが書いてあるのだろう???と楽しみに読み始めたのですが、自分はこの本の内容で博士に思いっきり殴られることになります…。
というのも、この本の内容は、現代人がこの世の中で生きていくための教えが書かれているのですが、原発の問題や社会風俗、政治、経済、教育などなど、戦後のGHQの政策の中、平和ボケした日本人をバッサリ切りまくりの内容で(30年以上前の本です)、自分としても耳が非常に痛く、また文章の難易度も上がって、とても1回で素直に読めるような内容ではありませんでした。
しかし、何度も読み返していくうちに、博士がなぜそこまで声を上げて日本人に伝えなければならなかったのか?そして、そのときの博士の心というものが少しずつわかってきて、本当に頭が下がる思いです。
以上、五井野正博士を最も賢い善人であると感じる理由の一つ、最高の仏教解釈、でした。
(続く)