子宮頸がんワクチン問題について
創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部
稚拙な文章で申し訳ありませんでしたが、以上の創作小説読んでいただけましたでしょうか?
内容的にはちょっと重たい感じのものとなりましたが、読んでいただいた方々も、もし自分がそれぞれの登場人物と同じ立場だったらどうしただろう?と考えながら読んでいただけたと思います。これが小説の良いところですね。
「自分も同じ立場だったら、きっと同じように振舞ってしまうだろうな…」とか「いや!自分だったら勇気を出して違う行動するぜ!」などなど、様々に感じ取っていただければ作者としては嬉しいです。
最後に怪しげな世界の支配者?みたいな人物が登場しましたが、さらに突っ込んで、彼らと同じ立場だったら…とまで考えてみた人は少ないかもしれませんね。
さて、このようなワクチン問題などの社会の暗部のような情報に触れると、嫌な感じや聞きたくないな…と感じる人が多いと思います(私も基本的にはそうです)。
一方、ワクチンの危険性について知ることは、自分の知識や見識が広がり実生活に応用できるかもしれないことなので、最初は驚くことではありますが、本来は自分のためになる!と喜ぶことでもある?という見方も出来ます。
例として、自分の気持ちに正直で、人生を主体的に前向きに生きている超ポジティブな人がこの情報を知った場合、最初は非常に驚くかもしれませんが、やはり自分や家族、知人にも関わることなので、「そうか…ワクチンは危険かもしれない…でも自分でまずは調べてみて十分に理解してそういうことならば、自分や家族や友達の危険を未然に防げるかもしれない!それなら嬉しい!貴重な情報ありがとう!」というポジティブな解釈をするでしょう。
しかし、ほとんどの方々は、やはり暗い気持ちになったり、そういう情報は知りたくない、という心理が働いたりしていると私は考えています。
これは何故なんでしょうか?
お気づきの方も多いかもしれませんが、第1部のテーマは、怪しげな世界の支配者?も口にしていた「無知と欺瞞」です。
そして、今回のワクチン問題に限らず、日本や世界が抱えるその他の問題も、似たような構図を感じた方も多いと思います。
例えば、原子力発電所事故後の日本の状態は、様々なところでまさに「無知と欺瞞」を感じている人も多いのではないでしょうか。
実はこの「無知と欺瞞」が、先の私たちの問題の一部になっているのかもしれない、と私は考えているので、このような小説を書いたのです。
「無知」は皆さんも分かるように、知らない、ということです。
「欺瞞」はあまり馴染みがないと思いますので引用すると、
goo辞書より
ぎ‐まん【欺×瞞】
[名](スル)あざむくこと。だますこと。「―に満ちた言動」「国民を―する」
とあり、いわゆるだますことです。
さて、このワクチンの問題について、私たちは何に対して「欺瞞」なのでしょうか?
それは、「自分の良心(あるいは気持ち)」であると私は考えています。
この世にいる人々は全て、少なからず良心を持っていると私は考えます(全くない人もいる?かもしれませんが)。
現に、私たちは今回のワクチン被害者の状況をブログなどで読むと、自分の良心から、可哀想だ、何とかしてあげたい、という気持ちが沸いてくる人がほとんどでしょう。
しかし、私たちは日々のことに忙しく、そういう気持ちが沸いてきたとしても、何とかしてあげたいが何もしてやれない…と無力感を感じてやや暗い気持ちになってしまうか、仕方ないことだと問題そのものに対して関心を持たないようにするかもしれません。
一見普通のことのようですが、実はここに若干ではありますが、例の「欺瞞」が潜んでいる、と私は考えます。
というのは、自分の良心が沸いてきたにも関わらず、それを捨て去っているからです。
これを、別な言い方にすると、「自己欺瞞」というものです。
再び引用しますと、
goo辞書より
じこ‐ぎまん【自己欺×瞞】
自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)。
ということで、よく理解できると思います。
この状態になると、どうしてもそのような自分を正当化することにエネルギーを費やさなければならないので、気も落ちて元気がなくなります。
人は元気がなくなるのは困るので、なるべくこのような状態にならないようにするでしょう。
それゆえ、最初に書いたように、ワクチン問題など社会の暗部の問題には入り込まないようにする、というのも自分の元気を守るひとつの方法となってしまうのでしょう。
知ることより、無知であることを選択する、ということでもあると思います。
この自己欺瞞を別な例で簡単にしますと、都会の地下鉄での光景が良い例となります。
誰しも経験があると思いますが、混雑する地下鉄で自分は座っていて音楽でも聴いていたとして、目の前に立っているのが大変そうなお年寄りがいたときを考えてみましょう。
ふと席を譲ってあげたいな、と思ってしなかった場合、自己欺瞞が始まります。
「自分もけっこう疲れている」「音楽に集中していて自分は見てはいなかった」「この人はもうすぐ降りるかもしれない」「他の人も譲ってないし自分だけじゃない」などなど…。
さらにエスカレートする人になると、そのお年寄りやその他の人を責めるようになります。
「何で自分の前に来たんだ!」「あの若いやつのほうが元気そうなのに」「何だ誰も席譲るやつはいないのか」などなど…。
こういうときは、気分も下がって最悪はイライラ怒りも出てくるでしょう。
もちろん、席を譲ってあげたいな、と思うが早いか席を譲っている人はとても素晴らしいですね。そのような自分の良心や気持ちに正直な人は、いつでもどこでも自分も周囲もやわらかい波動で包むでしょう。
さて、小説に話を戻しますと、最初の厚労省の方とその奥さんが自己欺瞞の例となります。
知っていながら、自分の良心がありながら、自分の立場を優先してしまう…大なり小なり、この社会ではあちこちであり得ることなのかもしれません。
何がそうさせるのでしょうか?
今日はここで。また次回に続けます。
創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部
稚拙な文章で申し訳ありませんでしたが、以上の創作小説読んでいただけましたでしょうか?
内容的にはちょっと重たい感じのものとなりましたが、読んでいただいた方々も、もし自分がそれぞれの登場人物と同じ立場だったらどうしただろう?と考えながら読んでいただけたと思います。これが小説の良いところですね。
「自分も同じ立場だったら、きっと同じように振舞ってしまうだろうな…」とか「いや!自分だったら勇気を出して違う行動するぜ!」などなど、様々に感じ取っていただければ作者としては嬉しいです。
最後に怪しげな世界の支配者?みたいな人物が登場しましたが、さらに突っ込んで、彼らと同じ立場だったら…とまで考えてみた人は少ないかもしれませんね。
さて、このようなワクチン問題などの社会の暗部のような情報に触れると、嫌な感じや聞きたくないな…と感じる人が多いと思います(私も基本的にはそうです)。
一方、ワクチンの危険性について知ることは、自分の知識や見識が広がり実生活に応用できるかもしれないことなので、最初は驚くことではありますが、本来は自分のためになる!と喜ぶことでもある?という見方も出来ます。
例として、自分の気持ちに正直で、人生を主体的に前向きに生きている超ポジティブな人がこの情報を知った場合、最初は非常に驚くかもしれませんが、やはり自分や家族、知人にも関わることなので、「そうか…ワクチンは危険かもしれない…でも自分でまずは調べてみて十分に理解してそういうことならば、自分や家族や友達の危険を未然に防げるかもしれない!それなら嬉しい!貴重な情報ありがとう!」というポジティブな解釈をするでしょう。
しかし、ほとんどの方々は、やはり暗い気持ちになったり、そういう情報は知りたくない、という心理が働いたりしていると私は考えています。
これは何故なんでしょうか?
お気づきの方も多いかもしれませんが、第1部のテーマは、怪しげな世界の支配者?も口にしていた「無知と欺瞞」です。
そして、今回のワクチン問題に限らず、日本や世界が抱えるその他の問題も、似たような構図を感じた方も多いと思います。
例えば、原子力発電所事故後の日本の状態は、様々なところでまさに「無知と欺瞞」を感じている人も多いのではないでしょうか。
実はこの「無知と欺瞞」が、先の私たちの問題の一部になっているのかもしれない、と私は考えているので、このような小説を書いたのです。
「無知」は皆さんも分かるように、知らない、ということです。
「欺瞞」はあまり馴染みがないと思いますので引用すると、
goo辞書より
ぎ‐まん【欺×瞞】
[名](スル)あざむくこと。だますこと。「―に満ちた言動」「国民を―する」
とあり、いわゆるだますことです。
さて、このワクチンの問題について、私たちは何に対して「欺瞞」なのでしょうか?
それは、「自分の良心(あるいは気持ち)」であると私は考えています。
この世にいる人々は全て、少なからず良心を持っていると私は考えます(全くない人もいる?かもしれませんが)。
現に、私たちは今回のワクチン被害者の状況をブログなどで読むと、自分の良心から、可哀想だ、何とかしてあげたい、という気持ちが沸いてくる人がほとんどでしょう。
しかし、私たちは日々のことに忙しく、そういう気持ちが沸いてきたとしても、何とかしてあげたいが何もしてやれない…と無力感を感じてやや暗い気持ちになってしまうか、仕方ないことだと問題そのものに対して関心を持たないようにするかもしれません。
一見普通のことのようですが、実はここに若干ではありますが、例の「欺瞞」が潜んでいる、と私は考えます。
というのは、自分の良心が沸いてきたにも関わらず、それを捨て去っているからです。
これを、別な言い方にすると、「自己欺瞞」というものです。
再び引用しますと、
goo辞書より
じこ‐ぎまん【自己欺×瞞】
自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)。
ということで、よく理解できると思います。
この状態になると、どうしてもそのような自分を正当化することにエネルギーを費やさなければならないので、気も落ちて元気がなくなります。
人は元気がなくなるのは困るので、なるべくこのような状態にならないようにするでしょう。
それゆえ、最初に書いたように、ワクチン問題など社会の暗部の問題には入り込まないようにする、というのも自分の元気を守るひとつの方法となってしまうのでしょう。
知ることより、無知であることを選択する、ということでもあると思います。
この自己欺瞞を別な例で簡単にしますと、都会の地下鉄での光景が良い例となります。
誰しも経験があると思いますが、混雑する地下鉄で自分は座っていて音楽でも聴いていたとして、目の前に立っているのが大変そうなお年寄りがいたときを考えてみましょう。
ふと席を譲ってあげたいな、と思ってしなかった場合、自己欺瞞が始まります。
「自分もけっこう疲れている」「音楽に集中していて自分は見てはいなかった」「この人はもうすぐ降りるかもしれない」「他の人も譲ってないし自分だけじゃない」などなど…。
さらにエスカレートする人になると、そのお年寄りやその他の人を責めるようになります。
「何で自分の前に来たんだ!」「あの若いやつのほうが元気そうなのに」「何だ誰も席譲るやつはいないのか」などなど…。
こういうときは、気分も下がって最悪はイライラ怒りも出てくるでしょう。
もちろん、席を譲ってあげたいな、と思うが早いか席を譲っている人はとても素晴らしいですね。そのような自分の良心や気持ちに正直な人は、いつでもどこでも自分も周囲もやわらかい波動で包むでしょう。
さて、小説に話を戻しますと、最初の厚労省の方とその奥さんが自己欺瞞の例となります。
知っていながら、自分の良心がありながら、自分の立場を優先してしまう…大なり小なり、この社会ではあちこちであり得ることなのかもしれません。
何がそうさせるのでしょうか?
今日はここで。また次回に続けます。