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阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第2部

2013年12月31日 | 思索
本記事は創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部の続きです。

(この小説はフィクションで登場する人物・団体等の名称は全て実在と関係ありません。)



- 都内住宅 -

「ただいま」

「あ、あなた…お帰りなさい。ちょっと…B子が話があるって…」

「ん?そうか。何だ?おねだりか?ハハッ」

「…。茶の間にいるから…」



「お父さん、お帰りなさい。お疲れさま」

「おぉ、ただいま。で、話って何だ?何か欲しいのか?」

「いや…今日C子に会ってきたんだ」

「そうか。楽しくやってるか?」

「C子…もう1週間も学校来てなくて…おうちにお見舞いに行ってきたの」

「ふーん…体調悪いのか…で?」

「何だか原因がわからないって…体が痺れてけいれんするとか…」

「それまたひどいな。病院とか行ってるのか?」

「うん。行ってるみたいだけど、やっぱりまだ原因がわからないみたいでおうちで安静なんだって」

「そうか…それは大変だな。たまに顔出してやりなさい」

「うん…」

「で、それがどうかしたのか?」

「それが…もしかしたらこの間、C子が受けたX-ワクチンの副作用のせいじゃないかって…」

「…!」

「まだわからないのだけど…いろいろ調べたらしいんだけど、症状がとてもよく似てるって…」

「…そうか…でもまだわからないんだろう?」

「うん…」

「…まぁ、とりあえず安静にってお医者さんも言っているんだろう?もうしばらく様子を見てみるしかないだろうな」

「…」

「…どうした?言いたいことあるならしっかり言いなさい」

「お父さん…確かお仕事はワクチンに関することだったよね?」

「…あぁ、そうだ」

「どうしてC子がこんな目に遭わなきゃいけないの?」

「…まだワクチンの副作用と決まったわけではないだろう?何でも決め付けて物事を考えるのはいけないぞ」

「でも…じゃあ、もしそうだったら、C子はどうしたらいいの?お父さんなら知ってるでしょう?」

「…うーん。まぁ、国がワクチン被害を認定するまでは、補償は難しいだろうな。担当の医師の判断を待つしかないだろう」

「どれだけ待てばいいの?卒業旅行は絶対C子と行くって、とても楽しみにしてたの…それまでには治る?」

「…そんなことお父さんに聞いたってわからないよ。お医者さんの意見が一番だ」

「…そう」

「なーに、仮に副作用だったとしても現代医学は進歩しているからな。きっと良くなる」

「…うん…。それで…話は変るんだけど…」

「うん」

「私、お母さんの言ったようにX-ワクチン受けなかった。お母さんは、理由はお父さんに聞きなさい、って言ってたから…どうして?」

「…!」

「ねぇ、どうしてなの?ワクチンって病気を予防するのにはとても大切なものなんでしょう?お父さんはその仕事してるからよく分かってるはずなのに、なんで私に接種させてくれないの?」

「…あぁ、ワクチンはとても大事だよ」

「だったらどうして?」

「…お前は注射に弱い体をしてるんだ。お母さんもそう言ってたろう?注射針の刺激に弱い体の人も結構多いんだ。たまたまお前がそうだった、というだけだ」

「じゃあ、何で献血とか血液検査も止めないの?この間献血したけど何ともなかったわ?」

「ん!あー、えー…」

「…私、知ってるんだから…ワクチンってほんとは体に良くないものなんでしょう?お父さん、それを知ってたから私に打たせなかったんだわ…」

「!」

「ネットでいろいろ調べたの。賛成の意見も反対の意見もいっぱいあったけど、私なりにまとめて判断したら、ワクチンはあんまり効かないことと副作用がとても重い、ということはわかった。これだけ知ってたら、私だって自主的に打たないもの…」

「…うーん、そうか…」

「私、もっと事前に知っていれば、C子に打たないように言ったのに…」

「…!」

「でも…もうこうなってしまったのだから仕方ない。お父さんだって、いくらそのお仕事に携わっていてもどうにも出来ないことだってあるよね…」

「…」

「とにかく、C子をサポートしていくね。お父さんも協力してくれるとうれしい」

「…」

「うん、お話はこれだけ。聞いてくれてありがとう。それと…私を想ってワクチンを打たないようにしてくれたこと、ありがとう」

「…」



「…あなた…」

「…」

「…私…何と言ったらいいか…」

「…仕方のないことだ」

「…」

「…」



- 某病院 -

「やや、遅くなりまして」

「いえいえ、こちらこそお忙しい中お時間を割いていただきまして…フリージャーナリストのEと申します」

「はいどうも。今日はどういったご用向きで?」

「はい、先生は現在接種されている各種のワクチンについて、非常に造詣が深いと伺っておりまして、そのあたりについて、二三お伺いしたいと考えております」

「はいそうですか」

「ではさっそく…。先生はワクチンに関しての予防医療についてどのようなお考えをお持ちでしょうか?」

「はい。昨今目覚しく発展している予防医療ですが、その中の最たるものがワクチンであると認識しております。人類が抱える様々な病気に対して、予防効果の可能性があるワクチンは非常に画期的な発見であったと思いますし、これからも更なる発展が期待される分野と言っても良いでしょう」

「はい、なるほど…」

「とは言え、まだまだ途上の分野ですから、それぞれの病気に対する新しいワクチンの開発は世界各国で取り組まれております。私どもはこれらの情報をいち早く取り入れ、国や各自治体に提案していき、国民の病気の予防を進めていくことが私たちの使命であります」

「それは心強いお言葉ですね」

「いえいえ。ありがとうございます」

「ではもうひとつお願いしたいのですが、今回X-ワクチンについて全国的な接種が行われておりますが、重度の副作用報告が多数ありまして厚労省は積極的接種を中止したとのことですが、このことに関してはいかがお考えでしょうか?」

「確かに、ワクチンの副作用の可能性は製薬会社からもリスクとして報告されておりますね。しかし、私どもとしましては、これらのリスクとワクチン接種のメリットを一概に比較することは出来ないという立場でございまして、また副作用の発現と発病を抑える効果において、絶対数としては圧倒的に副作用のほうが少ないと聞いております」

「なるほど…では、これらの副作用が発生した場合の治療についてはいかがでしょうか?」

「実際に症状を診てみませんとわかりませんが、その前にその症例がワクチンの接種と因果関係があるのかどうか?がわかりませんから、治療にあたるそれぞれの医師の判断によるところとなると思います」

「はい…私もあちこち聞き取りましたが、どうやらそのようですね。現場の医師の判断は医師それぞれによってマチマチのようです。このことに関してはどうでしょうか?」

「うーん、そこまでは私どもでは判断しかねますね。国や自治体、企業などを含めて総合的に判断していくことになると思います」

「そうですか…なるほど。今日はお忙しいところありがとうございました。最後に一点だけ…私個人的にワクチンについて調べたのですが、ワクチンは天然痘ワクチンが最初と言われておりまして、ある統計によりますと、19世紀後半の欧州での天然痘の大流行の際、天然痘で死亡した人々は12万人にも上ると言われておりますが、その死亡者のうち実に96%はこの天然痘ワクチンを接種していたとのことです。このことはご存知でしたでしょうか?」

「…いえ、聞いたことないですね。で、それが?」

「そうですか…私もまだ勉強不足なのですが、どうもワクチンという方法は歴史的にみてもあまり効果がないのではないか?と最近考えておりまして…そして重い副作用があるならリスクが大き過ぎるのではないか?とも思っているのです」

「その考えには同意しかねますね。というより、何で私にそんな質問するんですか。にわかの知識でジャーナリストなんて務まらんよまったく!」

「あ、いや失礼いたしました。では貴重なお時間をありがとうございましたー!」

「…不愉快だ!もう来なくていい!!!」



「(あちゃー…失敗したな…。フリーになってからは確かに自由に行動できるけど、核心に迫るインタビューって難しいんだな…。新聞社時代のように通り一遍の取材なら楽なんだが
。しかし、医師の方々はほとんど完全にワクチンの効果を認めている、あるいは信じている?のかもしれないな…特に専門職だからなかなか異なる意見は取り入れないのかも?医者は覚えることがたくさんあるから医学の歴史も近代の西洋医学、しかも改ざんされた歴史しか信じていないのだろうか…特に今の資本主義社会での医療というものは、『患者が治る』ということがすなわち『病院の経営不振』という、重い矛盾を抱えているし…医療の基本から逸れれば、儲けるためには病気を増やし患者を増やさなければいけない、という観点に突入するだろう…そういう視点から観れば現在の医療の問題はとても分かりやすくなる…しかし現在の医療が最善であると信じきっている人々にとっては、医療者も患者もそこから抜け出すのは並大抵のことではないだろう…。本当はこのあたりのことまで突っ込んで本音を聞きたかったのだけれど、まだまだ力量不足だな。精進、精進、と…)」



- 都内高校 -

「おーい!B子!」

「あ!G君!」

「今日はきっと部活がないからこのあたりにB子いるかなー?なんて思ってたらやっぱりいた、ってわけだ!」

「いきなり何なのその予測。まぁ、当たってたけどね」

「すげーだろオレ?ってそれより、C子、どうだった?」

「あ、うん…元気なそぶりを見せていたけど、時々しんどそうだったなぁ…」

「そうか…そうだよな。じゃなきゃあ、学校来てるもんな」

「まだ体調が安定してなくて、もうしばらくかかりそうだって…」

「うん…ここはしっかり安静にして治してもらわないとなぁ。C子がいないとパッとしないぜまったく」

「そうよねぇ…」

「オレもC子の件があってからいろいろと調べたんだ。そしたら、何かみるみるうちにいろんなところに拡がってなぁ…現代医学の歴史から日本史・世界史、政治経済、その他もろもろ、すごいことになってしまったんだ」

「すごいって、何が?」

「何と言ったらいいか…オレたちが今教科書で習っていることとはぜんぜん違う歴史像みたいなものにぶち当たってしまった、というか…オレもちょっと混乱しているんだ。でも、改めて俯瞰してみると、そのほうがずっと分かりやすかったりするんだよなぁ」

「例えば?」

「どこから話していいか分からないけど、一番分かりやすいのは明治維新かな?教科書では『日本の夜明け』とか書いてるけど、本当はどうだったのか?とかいうところだね」

「そうなの?もっと詳しく話してよ」

「オレもうまく説明できるかどうかわからないけど。坂本龍馬っているだろ?今でも日本の幕末の英雄として取り上げられているけど、実際彼がしたことを考えてみると、これが面白いんだ」

「ふーん。でも日本のために頑張った人でしょう?」

「オレもずっとそう思っていたんだけど、結果的にはそうでもないかもしれないことに気づいたんだ。というのは、教科書では彼は薩摩藩と長州藩を繋いで倒幕という夜明けに向けて活躍した功労者となっているんだけど、これがどうもおかしいんだ」

「何よ、それはそれですごいことでしょう?何をもったいつけているの!」

「まぁまぁ聞いてくれよ。長州藩が外国の船に攻撃したのが1863年と1864年の下関戦争と言われているんだけど、実はその同年の1863年に伊藤博文をはじめとした長州五傑と言われる5人の長州藩の若手が、イギリスのマセソン商会という会社の支援で留学しているんだ」

「日本だってその頃から国際化し始めたってことでしょう?」

「長州藩という自分の国が攘夷のために外国と戦争している間に、その国の若者が戦争相手国に留学しているのって何か変じゃないか?今でも仮にそういうことがあったらおかしいな?と思うんだけど」

「うーん。。。それで?」

「このマセソン商会の日本の長崎の代理店は誰がやっていたかというと、トーマス・グラバーという人がやっていたんだ」

「この人は有名ね。長崎で日本の近代化に大きく貢献した人だわ」

「そうそう。で、坂本龍馬が亀山社中という商社を作って薩摩藩から長州藩に武器などを調達した相手が、このグラバーという人なんだ」

「ふーん。だから?」

「まとめると、長州藩は下関戦争で攘夷に失敗して多額の賠償金を払うことになり、結局攘夷をやめて倒幕の方向に流れることになったんだ。しかし、外国との取引が制限されていて、武器が輸入できない。そこで、坂本龍馬の亀山社中が仲介役となって、長州藩は薩摩藩名義でグラバーから武器を手に入れて倒幕の準備をすることができた、ってわけだ。薩長同盟もその流れで理解できる」

「でも倒幕は時代の流れからいって自然なんじゃないの?」

「確かに教科書では日本国内から倒幕の風潮が現れて自然と倒幕に向かったように見えるけど、先の話の1863年の長州五傑の留学がどうも引っかかるんだよな。何か、準備されていたというか。倒幕に使った武器はやはりグラバーを通して使われたわけだし」

「うーん。じゃあ、江戸幕府は外国に仕組まれて倒幕されたわけ?」

「とも言えるかもしれないんだよなぁ。まだまだ詳しく調べてみないといけないけど、そういう歴史の流れがあるのかもしれない」

「外国はそんなに幕府を倒したかったのかしら…でも海外より遅れている政治をしているんだったら当然よね?」

「…それが、そうでもないんだ」



(続く)

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部を終えて その2

2013年11月20日 | 思索
前回の記事創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部を終えてからちょっと間があいてしまいましたが続きです。

前回の記事ではちょっと風呂敷を拡げ過ぎてしまって論点がぼやけてしまい、次回の小説の第2部の内容との兼ね合いもあり、今回軽くまとめておいて第2部へいきたいと思います。

(※私自身、書きながら自己を振り返っている部分もありますので、気長にお付き合いください)



第1部のテーマは「無知と欺瞞」でしたが、昨今の食品表示偽装問題やJR北海道の報告書偽装問題などのニュースを見てもつながってくるところがあると思っている方々も多いと思います。

これらの問題は、ある業種だから特別、というわけではなく、あらゆるところで見られますので、根っこは同じと見ることができるでしょう。

薄々感づいている方も多いと思いますが、その根っことは資本主義社会の性質にある、と私は考えています。

あらゆる会社は基本的には儲けを追及しているわけで、表向きは法律で規制されてはいるものの、手段を選ばずに儲けを追及すれば、自ずと法律を破ることも辞さなくなるのは自然?の流れかもしれません。

さらに言えば、法律そのものをコントロールできる立場にあれば、自分に有利なように法律を作ることが出来たり、ライバルを法律で規制して蹴落とす、という考え方も生まれてきて、実際にそのようにしている例もあるようです。

さらにグローバルになると、お金そのものを刷る権利があれば、何かをして稼ぐ必要もなく、自分の好きなだけお金を刷れば良いわけで、1700年代あたりから、ある特定のグループが暗躍してお金の発行権を独占し、現在まで世界中のお金をコントロールしているようです。

お金をコントロールできれば、資本主義的考えにあるどんな業種でも国家でも従わせることができるようで(それが例えば軍事でも宇宙開発でも)、実際にあらゆる分野に巨大資本として参入して、自分たちの思い通りに動かそうとしているようです。

会社や国家がそうなる一方、個人はどうかと言えば、やはり資本主義的考え方が主流となっており、先の小説の厚労省職員の例では、収入や地位としての自分の立場を守るために、自分の良心を欺く結果となるのは、まさに資本主義的欺瞞の例なのかもしれません。

これは私が思うに、「現代版踏み絵」のようなもので、自身の良心に従うか?儲けや地位・名誉を優先するのか?という踏み絵を前に私たちは日々過ごしていると言え、その精神的ストレスは非常に高く、それゆえ日本は先進国の中でも自殺率が非常に高い流れも理解できると思います。

そして、この踏み絵には自然や地球といったものは含まれておらず、私たちが創り上げたエゴ的社会の中での勝手な精神的葛藤とも言えるかもしれません。それゆえに、現在の社会活動が葛藤しながら進行するにつれ、自然や地球環境が破壊され悪化していき、昨今の異常気象などの自然災害、原発事故や環境汚染などの人災が別な角度で私たちの社会を脅かしてくる、という致命的な悪循環に陥っているとも言えるでしょう。

そういった中で私たちは、精神的にも物質的にもそのような葛藤から何とか自分を保ちながらがんばっています。



私たちの内にある良心というものは、親からや学校で特別学ぶものでもなく、もともと持っている根源的なものだと私は考えています。

「これこれこういうときには良心を感じなさい」と教わらなくても、目の前で川で溺れている子供がいたら瞬間的に助けようとする、というものは誰しも持っていると思います。

それぞれの世界観の中で、その世界観に見合った良心を発現させたり、あるいはその自然発生的な良心を欺いたりしながら私たちは生きていると言えます。

ということは、その世界観が広がるにつれて(無知な領域が無くなっていくにつれて)、良心もまた変化し広がりを見せる、とも言えるかもしれません。

逆に、世界観が広がるということは、現状の自分がその世界観における良心とは相容れなくなることになり、自分の状況を世界観に合わせるという変化を起こさなければ、自ずとその世界観からくる良心に欺く結果になってしまうかもしれません。

それゆえ、自分に見合わない世界観の拡大というものは、無知から離れるものの、その世界観からくる良心に対する欺瞞を深めることになってしまい、そこから変化して抜け出さない限りは、エネルギーが欺瞞に費やされ、かえって元より減退することになってしまうのかもしれません。

日々変化することを厭わない人であれば、世界観の広がりと共に自己を変化させ環境をも変化させ留まるところを知らない成長を成し遂げるかもしれませんが、私たちはなかなか自己の変革や環境を変えるということは難しいものです。

世の中のことを知るということは、その世界観の広がりと共に、自己自身が何たるか?を観ていくことであり、自己の発見という面もありますが、それは時に恐ろしいことでもあります。

というのは、世の中の未知な事柄に対して、それを知ったときに、自分自身がどのような存在なのか?を知ることでもあるからです。

現代社会が自然や地球環境に優しくなく破壊活動をしている人間社会である、ということは、こちらのブログをご覧の方々も異論がないかもしれません。

がしかし、その私たちもまた、それらの破壊的活動を行っている社会の構成員である、あるいは、その破壊活動に直接的・間接的に関わっている、ということを正面から理解し受け止めるということは、私たち人間存在に対する根本的な問いかけでもあり、かなり大変なことだと思います。

自身の存在を肯定的に捉える、ということは非常に大事なことなのですが、これらの事実を踏まえて改めて自身の存在を問う、という場合、必ずしも肯定的に捉えられるかどうか?はかなりの難題です。かと言って、社会自体を否定的に捉えれば、完全にその社会の影響を逃れた新しい社会に自身が所属していない限り、自分が所属している社会を否定していることになるので、やがて自己矛盾が生じて苦しくなるかもしれません。

この難題を乗り越えていくには?…これは現代社会の人類に問いかけられ続けている問題であり、誰しもいつか様々な形で向き合うことになることである、と私は感じています。



…長々と書いてもやはり論点がぼやけてしまってますが(苦笑)。

ワクチンを譬えとして世界の問題に迫っておりますが、結局、社会的にも個人的にも、根本的な問題をどのように解決するか?というのは様々な分野で生じていることでもあり、まずはどのような問題があるのか?をそれぞれ知っていき、それらの問題が持つ共通的な、または象徴的(シンボリック)な部分を洞察していくことが大事、だと私は感じています。

というのも、最近メディアでも話題の特定秘密保護法案のような法が通されれば、今まで以上にマスコミや公的発表などの情報の質は劣化し、いよいよ何が本当なのか分からない世界がやってくることが想定されるからです。

私のような記事を書いていることも、もしかしたら摘発の対象になるかもしれませんし、表のメディアのみならずネット上でも情報統制が敷かれることになれば、息苦しさ満点の管理社会の出来上がり、ということになるかもしれません。

そういった中で、落ち着いて情報を判断するには、やはり根本問題から理解し、それぞれの記事や断片的な情報から象徴的に大きな流れを読む、ということが精神衛生上も良いと考えています(かと言って深読みし過ぎて疑心暗鬼に陥るのは逆に良くないですが(私などがそうかもしれません(苦笑))。

物事を象徴的(シンボリック)に判断する、というのは、実生活でも非常に役立つようで、意識や感覚の鋭い方々は、このようなものの見方をすることに優れているようです。右脳的なものの見方?でしょうか。例えば、何かトラブルなど嫌なことが起こったときにも、「これは私が成長する(力を試す)チャンスなのかもしれない」と、余計な心配や不安に陥らずに瞬時に冷静な判断に移行できる、といったものです。

根本問題をよく知って、このような思考法や洞察力・判断力があれば、何事にも左右されずに行動力を持続することが出来るかもしれません。



なんだかまとまりませんが(笑)

以上で第1部については終わりです。

次回から第2部を書いていきます。

※更新頻度は期待しないでください。

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部を終えて

2013年11月05日 | 思索
子宮頸がんワクチン問題について

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部

稚拙な文章で申し訳ありませんでしたが、以上の創作小説読んでいただけましたでしょうか?

内容的にはちょっと重たい感じのものとなりましたが、読んでいただいた方々も、もし自分がそれぞれの登場人物と同じ立場だったらどうしただろう?と考えながら読んでいただけたと思います。これが小説の良いところですね。

「自分も同じ立場だったら、きっと同じように振舞ってしまうだろうな…」とか「いや!自分だったら勇気を出して違う行動するぜ!」などなど、様々に感じ取っていただければ作者としては嬉しいです。

最後に怪しげな世界の支配者?みたいな人物が登場しましたが、さらに突っ込んで、彼らと同じ立場だったら…とまで考えてみた人は少ないかもしれませんね。



さて、このようなワクチン問題などの社会の暗部のような情報に触れると、嫌な感じや聞きたくないな…と感じる人が多いと思います(私も基本的にはそうです)。

一方、ワクチンの危険性について知ることは、自分の知識や見識が広がり実生活に応用できるかもしれないことなので、最初は驚くことではありますが、本来は自分のためになる!と喜ぶことでもある?という見方も出来ます。

例として、自分の気持ちに正直で、人生を主体的に前向きに生きている超ポジティブな人がこの情報を知った場合、最初は非常に驚くかもしれませんが、やはり自分や家族、知人にも関わることなので、「そうか…ワクチンは危険かもしれない…でも自分でまずは調べてみて十分に理解してそういうことならば、自分や家族や友達の危険を未然に防げるかもしれない!それなら嬉しい!貴重な情報ありがとう!」というポジティブな解釈をするでしょう。

しかし、ほとんどの方々は、やはり暗い気持ちになったり、そういう情報は知りたくない、という心理が働いたりしていると私は考えています。

これは何故なんでしょうか?



お気づきの方も多いかもしれませんが、第1部のテーマは、怪しげな世界の支配者?も口にしていた「無知と欺瞞」です。

そして、今回のワクチン問題に限らず、日本や世界が抱えるその他の問題も、似たような構図を感じた方も多いと思います。

例えば、原子力発電所事故後の日本の状態は、様々なところでまさに「無知と欺瞞」を感じている人も多いのではないでしょうか。

実はこの「無知と欺瞞」が、先の私たちの問題の一部になっているのかもしれない、と私は考えているので、このような小説を書いたのです。



「無知」は皆さんも分かるように、知らない、ということです。

「欺瞞」はあまり馴染みがないと思いますので引用すると、

goo辞書より

ぎ‐まん【欺×瞞】
[名](スル)あざむくこと。だますこと。「―に満ちた言動」「国民を―する」


とあり、いわゆるだますことです。

さて、このワクチンの問題について、私たちは何に対して「欺瞞」なのでしょうか?

それは、「自分の良心(あるいは気持ち)」であると私は考えています。

この世にいる人々は全て、少なからず良心を持っていると私は考えます(全くない人もいる?かもしれませんが)。

現に、私たちは今回のワクチン被害者の状況をブログなどで読むと、自分の良心から、可哀想だ、何とかしてあげたい、という気持ちが沸いてくる人がほとんどでしょう。

しかし、私たちは日々のことに忙しく、そういう気持ちが沸いてきたとしても、何とかしてあげたいが何もしてやれない…と無力感を感じてやや暗い気持ちになってしまうか、仕方ないことだと問題そのものに対して関心を持たないようにするかもしれません。

一見普通のことのようですが、実はここに若干ではありますが、例の「欺瞞」が潜んでいる、と私は考えます。

というのは、自分の良心が沸いてきたにも関わらず、それを捨て去っているからです。

これを、別な言い方にすると、「自己欺瞞」というものです。

再び引用しますと、

goo辞書より

じこ‐ぎまん【自己欺×瞞】
自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)。


ということで、よく理解できると思います。

この状態になると、どうしてもそのような自分を正当化することにエネルギーを費やさなければならないので、気も落ちて元気がなくなります。

人は元気がなくなるのは困るので、なるべくこのような状態にならないようにするでしょう。

それゆえ、最初に書いたように、ワクチン問題など社会の暗部の問題には入り込まないようにする、というのも自分の元気を守るひとつの方法となってしまうのでしょう。

知ることより、無知であることを選択する、ということでもあると思います。



この自己欺瞞を別な例で簡単にしますと、都会の地下鉄での光景が良い例となります。

誰しも経験があると思いますが、混雑する地下鉄で自分は座っていて音楽でも聴いていたとして、目の前に立っているのが大変そうなお年寄りがいたときを考えてみましょう。

ふと席を譲ってあげたいな、と思ってしなかった場合、自己欺瞞が始まります。

「自分もけっこう疲れている」「音楽に集中していて自分は見てはいなかった」「この人はもうすぐ降りるかもしれない」「他の人も譲ってないし自分だけじゃない」などなど…。

さらにエスカレートする人になると、そのお年寄りやその他の人を責めるようになります。

「何で自分の前に来たんだ!」「あの若いやつのほうが元気そうなのに」「何だ誰も席譲るやつはいないのか」などなど…。

こういうときは、気分も下がって最悪はイライラ怒りも出てくるでしょう。

もちろん、席を譲ってあげたいな、と思うが早いか席を譲っている人はとても素晴らしいですね。そのような自分の良心や気持ちに正直な人は、いつでもどこでも自分も周囲もやわらかい波動で包むでしょう。



さて、小説に話を戻しますと、最初の厚労省の方とその奥さんが自己欺瞞の例となります。

知っていながら、自分の良心がありながら、自分の立場を優先してしまう…大なり小なり、この社会ではあちこちであり得ることなのかもしれません。

何がそうさせるのでしょうか?



今日はここで。また次回に続けます。

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部

2013年11月01日 | 思索
(この小説はフィクションで登場する人物・団体等の名称は全て実在と関係ありません。)



- 厚労省共用第8会議室 -

「えー、皆さんお集まりいただいたようですので、始めさせていただきます。お手元の資料は、来年から全国的に展開いたしますX-ワクチンについて、そのロードマップとキャンペーン展開について、私どものほうで大まかに作成させていただいたものですが…」

「(……うーん、またワクチン展開があるのか…。しかも今回は対象の世代の幅も広いし、半ば強制的に接種させるキャンペーンを張るようだな…。国で全額負担となれば税金での負担だから担保も十分…下世話な話だが製薬会社はぼろもうけ間違いない代物だな…。とは言え、病気を防げるならこれぐらいの負担も致し方ない、と言いたいところだが、ワクチン全般に渡ってあんまりいい噂を聞かないもんだ…。ずっと前から副作用に関する相談センターへの問い合わせはひっきりなしのようだし、こちらとしても良く分かってないものだから対応のしようもない…とりあえず製薬会社からの回答を待つばかりだが、リスクだの何だのでうまくはぐらかされているような感じだ…。かと言ってはじめから多国籍大製薬会社の依頼を断れるか?と問われれば、今の日本のシステムだと無理だろうな…断れば何か別な問題として日本に跳ね返ってくるだろうしな…。まぁ、一介の公務員のオレがひとり反対したところで、受け入れられ中止になるわけもない。そんなことしたら、オレの来年の昇進に響く、というよりも、クビにさせらるかもな…。せっかく係長までこぎつけたのだし、オレには家族を守る責任がある。こんなところでヘマできるわけがない。今は黙って、来年の昇進に向けてコネを確実なものとしておくことだ…。)」

「…さん?Aさん!」

「あ?はい、すいません」

「以上のような流れなんですが、何かご意見などございますか?」

「え?あ、いや、特にございません」

「わかりました。では次に、マスメディアなどの広告戦略について進めてまいりますが…」



- 都内住宅 -

「ただいま」

「あなた、お帰りなさい」

「あぁ、今日も疲れたな」

「本当にお疲れ様です。ごはんになさいます?それともお風呂?」

「あー、風呂にするかな」

「ではさっそく」

「おう、今日の会議で新しいワクチン接種のキャンペーンが始まることが決まった。前のようにB子には受けさせないよう、やってくれ」

「またワクチンですか?しかも今回もB子に受けさせないなんて…」

「いいんだ、オレの言うとおりにやってくれ」

「…前は聞きづらかったんですけど…。ワクチンって病気を予防するためには必要なんでしょう?私はB子にも受けてほしいと思うのですが…」

「…お前には言ってなかったか。オレもよくわからないんだが、同僚の間でもワクチンに関してはどうも良い話を聞かんでな…副作用があるのはお前も知ってるだろうが、どうやらそれがかなりひどいらしい。それにワクチン自体の効果も疑問が多いそうだ。同僚も同じように家族には打たせていないようだし、オレの独断だがうちもそのようにしてるんだ」

「!…そうなんですか…。ではB子には受けさせないようにしておきますわね。じゃあ、B子の親友のC子さんのおうちにもお知らせしたほうが良いわね。ねぇ、良いでしょう?」

「…それはやめてくれ」

「え!」

「…いいか?お前があんまりいろんな人に言い触らしてみろ。それがまわり回ってオレの上司とかの耳に触れたらどうなる?オレは良くて地方に左遷か、最悪職を失うことになる。そうなればお前らはどうなる?そんな余計な面倒はオレだってごめんだ。来年は大事な昇進もあるし、お前もよく考えてものを言えよ」

「…そうね。失礼いたしました」

「おう、風呂だ風呂だ」



- 2年後 -




- 某芸能事務所 -

「ちょっとぉーーー!!!マネージャー!!!」

「はいはいはい、どうしましたぁ?Dさん!」

「どうしましたぁ?じゃないわよ!!!あんた、新聞読んだ?!」

「そりゃーひと通りは読んでますけど…どうしましたぁ?」

「何よ!ほんとに読んでるの???これ、見てみなさいよ!!!」

「うーん、なになに…『X-ワクチンで健康被害、積極的接種を中止』?ですかね?」

「そうそうそう、それよ!!!」

「これがどうかしたんですかね?」

「もーバカー!!!私が広告に出たやつじゃないの!!!」

「…あー、そうでしたそうでした!」

「こんなことになったら、私の評判にも影響あるんじゃないの??!!」

「うーん…まぁ、どうでしょうねぇ…」

「せっかく気持ちを込めた渾身の演技で、なかなか出来の良いCMだったのに…」

「…うーん…まぁ、あんまり気にすることないんじゃないですか?」

「何よ」

「そこまで一般の人は見てないですって!それに、このCMのおかげで今度のドラマの出演もゲット出来たじゃないですか!」

「まぁ、それもそうだけど…」

「今不景気ですからそんなに仕事もないですよ?この際選んでなんかいられないのはどこも一緒ですからね」

「ほんとに影響ないのぉ???」

「大丈夫、だーいじょーぶですって!!!とにかく次の仕事に全力投球!!!で、いーんじゃないですか???」

「…ふーん。ま、それしかないわね。でもなるべく仕事選んでよね、ほんと…」

「わーかりましたって!次のドラマでドカン!といったら仕事も入れ食いですよ!!!」

「…そうよね。ドラマではばっちりかますわよ」

「そーこなくっちゃ!!!じゃ、スケジュールの確認お願いしまっす!!!」



- 某所一般家庭 -

「えーなになに…『X-ワクチンで健康被害、積極的接種を中止』?あらやだ!これってあんたも受けたやつじゃないの???」

「ん?うん」

「副作用で体の震えとか記憶障害?もあるみたいよ!あんたは何ともないの???」

「別に」

「あらそう。良かったわね。それよりあんた、勉強やってるの???そんな雑誌なんか読んでないでしっかりやりなさいよ!!!」

「はーい」

「何ぼ言っても生返事なんだから…。それっと…新しいドラマ始まるみたいね…あら、Dが久しぶりに出るんじゃない?これは見ないとね!あ、こんな時間!ご飯支度ご飯支度…」



- 某新聞社社会部 -

「はい…はい…あー…そうなんですか…はい。えぇ、えぇ、かしこまりました。取材協力ありがとうございます。ぜひお大事に…はい、ありがとうございました」

(ガチャリ)

「(…何件か取材してみたが、実情を知ればかなりの被害のようだな…何件も病院にかかる医療費も現時点では自己負担だが、国もまだ補償云々の段階でもなく可能だとしても最低でも1年以上先か…病院の医師の対応もまちまちだが、どこもまともに取り合ってくれないようだ…。行政も国の判断待ちの状況だし…これはもう少し突っ込んだ取材をしてみなくては…!)」

「デスク!」

「おー、E、どうした?」

「ちょっとご相談がありまして…」

「おー、言ってみろ」

「今何件かX-ワクチンの副作用被害者の方に電話取材をしてみたんですが、国の発表から比べるとずっと厳しい現状があるようで…もうちょっと突っ込んで取材をしてみたいと思うのですが…」

「…。それより、お前は来月の過疎化地域の連載特集記事を任されているんだろ?かなり足を使ったハードな現場だし、それだけでも体はいっぱいなんじゃないか?」

「えぇ、それはそれでがんばります。その他に空き時間を作ってでも、行政や医師など回ってみたいと思っています」

「…。そうか。…ここじゃ何だから第二会議室で話を聞こうか」

「あ、はい」



「まぁ、座りたまえ」

「はい」

「…お前はわが社が何でメシを食っているか知っているか」

「はい…新聞販売の売上と広告主様からの広告料が主です」

「あぁ、そうだ。どちらも我々にとっては大切なお客様だ」

「はい、承知いたしております」

「特に、製薬会社様からもまた、多くの広告をいただいているのもわかるな?」

「あ、はい」

「まぁ、そういうことだ」

「…?」

「何、わからんのか」

「申し訳ありません」

「若いなお前は…。基本的に我々が独自で記事を書くのは地方の問題についてだ。国や全国的な話題や社会問題については上位の機関からの情報や公式の発表を待つことになる。大きな問題になれば、広告主様の絡んだものになるかもしれんから、我々だけが先走って記事を書くなんぞ出来ないのだ」

「…それは、そうなんでしょうか…」

「そうだ。我々もいい加減な記事は書けん。他の報道機関と足並みを揃えるためにも、上位からの情報や公式の発表を待つのが一番いいのだ」

「…それでは真実に肉薄することは出来ないのでは?」

「だからお前は若いと言っているのだ。上位からの情報や公式の発表であれば、それが真実かどうかなんて我々にはどうでも良いのだ。正しく伝えたことになるからな」

「はぁ…」

「オレも若いころはお前のように血の気が多かったがな…ある先輩に言われて目が覚めたよ。『賢く生きろ』ってね。だから今オレはこのポストにいるんだ。お前にもこの言葉を送るよ」

「賢く…ですか?」

「あぁ、そうだ。あとは自分で考えろ」

「では取材の件については…」

「ダメだ、ということだ。はい、終わり。戻って仕事しろ」

「…」



- 都内高校 -

「はい…はい…はぁ、しばらく…はい、わかりました。いえいえそんな!はい…はい…どうぞお大事になさってください。はい、では」

(ガチャリ)

「ふー…そうか…」

「…どうしました?F先生」

「あ!校長…実はうちのクラスの子が体調不良だそうで、もうしばらく休むということで…これでもう1週間になるんです」

「…そうですか…」

「いつも活発で明るい子で…クラスではムードメーカーのような子だったんで、どうしたのかと…」

「それは心配ですねぇ…」

「何件か病院へも行ったそうですが、まだ原因不明なようで…」

「うーん…」

「…私、ふと思ったのですが、しばらく前にX-ワクチンを接種させたことによる影響なのかと…ネットでいろいろ調べてみたのですが、そのような事例も多いそうで…」

「…」

「校長はいかがお思いですか?」

「…私はよく分からないから何とも言えないですが…まぁ、このようなことは問題があれば国や自治体で対応することですし、そのうち結果も出てくるでしょうから、私たちはそれを待つしかないでしょうねぇ」

「うーん…まぁ、そうでしょうねぇ…」

「他の生徒のこともありますから、先生もあまり考え過ぎず、授業のほうに専念されてくださいね」

「…はい、わかりました」



- 都内病院 -

「で、先生…C子はどうなんでしょうか…?」

「…まだはっきりとしたことはわからないですねぇ…とりあえず痛み止めと抗生物質を処方しておきますので、それでしばらく様子をみてみましょう」

「…先生…私、個人的に調べてみたんですが、先日娘が打ったワクチンの副作用、なんてことも考えられますでしょうか…?」

「…。そうですねぇ…これだけの状況でまだ何とも言えませんが…」

「かなり症状が似ていると思うのですが…」

「…。いいですかお父さん。ひと口にワクチンと言っても、製薬会社のほうで何年も厳しい臨床試験を行っており、認可までは相当なハードルを経て、十分に安全に配慮したものが初めて一般の方々に接種されるものです。副作用の影響もないことはないでしょうが、かなりの低確率です。それを疑うよりは、日常生活においての何らかのウィルス性のものの影響であると私は睨んでいます。今回の検査結果が出ましたら大体のことがわかりますので、それまでおうちで安静にされているのが一番です」

「…はい…わかりました…」

「ご心配のこととは思いますが、どうぞお大事になさってください」

「…はい」

「はい!じゃ次の方ー…」



- 都内某所 -

「どうだ…首尾よく進んでいるか…?」

「はい、対象の世代の9割以上にX-ワクチンの接種が完了しております。基本的には強制ではなく任意接種としておりますので、一部、個人的に接種を避ける人もいるようですが、ごくわずかです」

「そうか…それは良いことだ。次の手も打っているのか?」

「はい、ただ今次回のワクチンを国やマスコミを通じて大々的に宣伝させておりますので、多くの国民の不安意識を煽ることが出来ていると思われます」

「仕事が早いな。無知な一般の大衆は不安を煽られれば素直に従順に従うものだ。国や自治体、マスコミから医師、保健師にいたるまで、皆で不安意識を煽るから話が早い。特に日本人は不安に弱く周りに合わせる特性があるから、周囲と一緒でなければ不安になることも良い方向に働いているものだ。推進する中には、単に無知なものがほとんどだが、中には我々の計画を知った上で協力する者や、立場上協力せざるを得ない連中もいるだろう。無知と欺瞞…良い響きだ」

「なるほど…。そして、今回もかなりの収益がありましたね」

「あぁ、もちろんだ。我々は売るだけだ。あとは日本人自らが税金でワクチンを買い、税金で宣伝し、税金で接種させ、健康被害が出れば税金で補償させる。我々は司法にも影響力があるから、補償のタイミングなど自由自在だ。あとは日本人同士で賛成だの反対だの勝手に騒いでいればよい」

「同情するつもりもありませんが、日本人は愚かなものですね…」

「これは我々の計画により愚かとなったのだ。我々は日本支配のために綿密に計画を練り、明治維新から本格的に着手した。脱亜入欧の思想により日本国民に江戸時代を完全に否定させ、さらに日本を戦争に駆り立て敗戦させ、GHQにより事実上の植民地としたのだ。表向きは独立国のように装ってはおるがな。あとは日本人の勤勉さを利用して、教育は将来従順な労働者となるように徹底させ、新聞やテレビは国民を無知のままでいるように仕向け、日本人が稼いだ分は米国債やその他の方法で搾取を続ける。太らせては刈り取る、まさに家畜だ」

「そうだったんですね…しかしなぜに日本に対してそこまで?」

「そうか…教えてやるか。明治維新までの日本、すなわち江戸時代は、本来人間が進むべき真の平和へ向けた、非常に安定的な社会を作り上げていたのだ。有史以来、200年以上単独政権の下で戦争のない平和な時代があったのは、世界でも江戸時代だけだ。我々やアジア諸国が日本に干渉しなければ、おそらくは1000年以上続いたかもしれない。それに伴い科学や芸術は宇宙レベルまで発展していただろう。というのも、江戸の大衆の芸術であった浮世絵は現在でも世界的に評価され欧米人をさえ魅了してやまない。200年でそれだけに到達しうる民族がそれ以上の年月を経過させたのなら…と考えると、我々としては末恐ろしいものを感じるのだ」

「日本はそれほど平和な社会だったのですか!今の日本人はそれを知っているのですか?」

「そこは我々の計画だ。先にも言ったように、明治維新以降はその江戸時代を日本国民に徹底的に否定させ、教育では非常に劣悪な封建主義社会であったと洗脳させた。その甲斐あって、今の日本人は自国民の意識はほぼ消滅して、資本主義的考えに支配されている。我々が何より恐れるのは、日本人がそれらの事実に気づき、自国民の意識を復活させることだ。そうさせないためにも、我々は決して手を緩めることはしない」

「なるほど…確かにそれが起こることは我々にとっては恐ろしいですね…」

「我々は自然と人間が調和して共生するような真の平和など、興味も関心もない。いや、嫌悪すべきものだ。我々が目標とするのは、我々の支配に基づく仮の平和だ。金と欲望、無知と欺瞞、暴力と退廃による、不調和をコントロールした我々のための平和だ。未だ計画は完全に達成されてはいない。最近ではロシアが最大の障壁となっているしな…とにかく、粛々と計画を遂行するのみだ。もちろん、ワクチンもその計画の一部なのだ」

「…そうですね、かしこまりました」



- 創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部 終わり -



続きは創作小説 「ワクチンを巡る人々」第2部をどうぞ。

たくさんの反響、ありがとうございます

2013年10月21日 | 思索
前回の記事、子宮頸がんワクチン問題についてにおいて、SNSなどでたくさんのリアクションをいただき、私自身驚くと共にこの問題に対して様々な疑問を持ち真剣に取り組んでいる方々がたいへん多いことがわかりました。

実際に被害に遭われた方のブログを読ませていただきますと、私も何ともやりきれない気持ちになりました。

被害に遭われた方々が無事回復されるようお祈りいたしております。



ワクチンについての問題は、その効果の信憑性や歴史的背景など、方々で明らかになっている事実や統計などを順序を正して示せば、興味のある方々には理解していただけると思いますが、そうするといかんせん説明文的になり難しさが先行して読めない人も多くなると私は考えています。

そこで次回は、私なりに小説仕立てにしてこれらの問題の背景に潜むものに迫ってみたいと思いますので、どうぞお楽しみに。

子宮頸がんワクチン問題について

2013年10月20日 | 思索
またしばらく更新間隔があいてしまいましたが(^^;)

前回の記事日本人の諦念に引き続き書いていきます。

当ブログでもちょっとだけ、子宮頸がんワクチンの危険性を訴えましたが、やはりその後問題を残す結果となってしまいました。

以下は先月の北海道新聞の記事の全文です。普段は軽く読み飛ばしてしまいがちな新聞記事ですが、私の独断で重要と思われる箇所を強調して転載いたします。






2013年9月15日(日) 北海道新聞 29面

見出し:子宮頸がんワクチン接種「必ず」の言葉に惑わされ… 続く不調 母娘の苦悩




子宮頸がんワクチンの接種後、副作用とみられる症例が相次いだことを受け、厚生労働省が6月、接種の勧奨を一時停止するよう、全国の自治体に勧告してから3ヶ月がたった。この間も、接種後の健康被害を訴える声は後を絶たない。厚労省は副作用の実態調査を進め、勧奨を再開すべきかどうか検討しているが、深刻な被害に悩む人や家族からは、勧奨を中止しながら接種は続ける同省の曖昧な姿勢への批判や、原因の徹底解明を求める声が強まっている。



道央の市の高校1年の女子生徒(16)は5月下旬、市保健センターで子宮頸がんのワクチンを接種し、直後に強い頭痛を感じた。翌日以降も痛みは治まらず、脱力感や吐き気、手足のしびれに悩まされ、日を追うごとに自分の名前や自宅の住所などの記憶が薄れた。

学校生活が一変

学校生活は一変した。同級生に話しかられても時々、誰だか分からなくなる。登下校は道に迷いがちになり、母親(40)が車で送迎するようになった。「校内で倒れた時に友人が動揺しないように」と、親しい同級生に接種後の自身の境遇を伝えたが、それでも不安は消えない。


「自分が自分でなくなるような気がして、つらい。早く元気になりたい」。これまで七つの医療機関を転々とした。接種との因果関係はまだ特定されていないが、7月下旬、予防接種法に基づく補償を国に求める手続きを申請した。だが、厚労省によると、被害の認定までには1年以上かかるとされる。

子宮頸がんワクチンは今年4月に定期接種となり、自治体が保護者らに接種を勧めるようになった。生徒の自宅にも今春、市からワクチン接種の案内文が届き、「必ず接種をしてください」と書かれていた。母親は「『必ず』の言葉に引きずられ、娘に接種させてしまった」と今も悔やむ。

文書について市は「『必ず』としたのは、厚労省の勧奨方針を受けたもの。副作用の可能性も別の文書で伝えた」として、当時の対応に問題はないとの認識を示している。

道内の症例46件

道が副作用の実態を把握するために行った道内全市町村への聞き取り調査によると、2010年11月以降、この女子生徒を含め、現在までに46件の症例が確認されている。

厚労省によると、全国では今年3月末までに約2千件の症例が報告された。ただ、定期接種となる前は、症例を診断した医療機関が副作用とみられる情報を厚労省や市町村に報告する義務はなく、被害の全体像は不明だ。

厚労省は、海外の副作用の奨励など情報を集め、副作用と接種との関連を調べた上で、接種の勧奨を再開するかどうかを決めるとしているが、希望者には従来通り原則無料の接種を続けている。

子宮頸がん予防にワクチンは有効という立場の日本産科婦人科学会も、厚労省がワクチンの推奨を中止するという判断は「妥当」としつつ、「今後、専門家によって接種の安全性が科学的かつ速やかに確認されることを期待する」として、ワクチンの普及を目指す姿勢は変えていない

これに対して全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会(東京)の池田利恵事務局長は「被害の実態は氷山の一角」と指摘、「国は勧奨中止という曖昧な判断ではなく、定期接種の対象から外すべきだ。健康被害の原因を究明し、治療法を確立してほしい」と訴える。






この記事を普通の感覚で読むと、「とても可哀想な母娘だ…ワクチンを打たなければこんなことにならなかっただろうに…」と、記事中の母親のコメントと同様な気持ちで同情することと思います。

一方では、「ワクチンは副作用があって当たり前。これでがんが防げるのだから致し方ない」という意見をお持ちの方も多いと思います。

さて、この子宮頸がんワクチンは本当にがんの予防になっているのでしょうか?

接種されたサーバリックスというワクチンの仕様書を見てみましょう↓

http://japanvaccine.co.jp/medical/product/pdf/attach/pi_cervarix_2010306_ver7.pdf

この中で、「効能・効果に関連する接種上の注意」として以下の記述があります。




効能・効果に関連する接種上の注意
(1) HPV(ヒトパピローマウイルス)-16型及び18型以外の癌原性HPV感染に起因する子宮頸癌及びその前駆病変の予防効果は確認されていない。
(2) 接種時に感染が成立しているHPVの排除及び既に生じているHPV関連の病変の進行予防効果は期待できない。
(3) 本剤の接種は定期的な子宮頸癌検診の代わりとなるものではない。本剤接種に加え、子宮頸癌検診の受診やHPVへの曝露、性感染症に対し注意することが重要である。
(4) 本剤の予防効果の持続期間は確立していない。




がんという病気は様々な部位に発生が認められているのは多くの方々が知るところですが、その発生原因はひとつの理由によるものではないことは想像にかたくないと私は考えます。

例えば、風邪があるひとつの原因によって起こるとは誰も思わないのと同じだと思います。

しかし、子宮に限ってHPV(ヒトパピローマウィルス)のみが100%の原因であるというのは、素人目にみても無理があるような気がするのは私だけでしょうか?

そして、強調された部分にもありますように、仕様書に「効果がいつまで続くかわからない」と明記されています。

それでいて、良く分からない副作用は短期的にも長期的にも、ほぼ間違いなく影響があるようです。

新聞記事の症例は、「針を刺したことによる反応」だけとは考えにくく、ワクチンの成分による影響と考えるのが自然でしょう。

そのワクチンの成分はどのようにして作られるかというと、実験動物の死骸の内臓から取り出した成分や、腐った卵から取り出したものなど、と言われております。

私の個人的意見ですが、このように調べてみると「ちょっと打ちたくないな」と思ってしまいますね。



少し話題を変えて、突然あなたのお宅に見知らぬおじさんがやってきて、

「がんの予防に効く新しいワクチンが開発されました!ちょっと副作用がありますが、効果は抜群です!今なら、私どもで費用を負担しますので無料で接種できますよ!!!」

と言われたら、あなたはおじさんの言われるがままに家族に接種させるでしょうか?

おそらく、100人中100人が断ることでしょう(なかには、打ってみるかな?という人もいるかもしれませんが)。

ではなぜ、今回多くの人々が接種することになったのか?というと、やはり国が、自治体が、お医者さんが…という理由で接種された方も多いのではないでしょうか?

しかし、新聞の記事にもありますように、結果としてこのような悲劇的な事態も起こってしまっていることを考えると、何か変だな…と思わずにはおれません。



この問題に関しては、家族や親族に対象者がいない人も多いと思いますが、知人や同僚の家族まで拡大して考えると、必ず接種の対象となっている方がいて、もしかしたら記事のような事態に陥っていた可能性があるということで、全く人事ではないことだと私は思います。

特に、接種された方やご家族、また接種させた医療機関や国や自治体は当事者でありますので、今回いろいろと考え感じた人も多かったと思います。

しかし、それでもなお、記事中にありますように、日本産科婦人科学会などはワクチンの普及の姿勢を変えない、というのはどういうことなのでしょうか?



ここまで、いろいろと疑問に感じた方々は、とりあえずこちらのブログの内容を鵜呑みにせず、まずは自分自身でいろいろと調べてみることをお勧めします。

※誤解のないように、私はワクチンを打つな!とは断言する立場にはございません。すべては人それぞれの自由意志により決定されるべきことだと思っています。そのためにも、多くの方々がこれらの問題に対して多角的にアプローチすることが望ましいと考えております。


日本人の諦念

2013年09月16日 | 思索
台風18号の影響が日本列島の広範囲に及び、こちら北海道でもめったに無いほどの豪雨に見舞われました。

少し水害のお手伝いをしたのですが、うっかりマンホールに落ちて全身ベシャベシャになってしまいました(--;)

それでも、京都などの被害よりはまだましだったようです。自然の猛威にはとにかく呆然とするのみで、あとは淡々と片付けることぐらいですね。

被災された方々にお見舞い申し上げます。



さて、ちょっと間が開いてしまいましたが、前回の記事「日本人の特性をたどる」に続けて書きたいと思います。

「逝きし世の面影」からの引用文中に、江戸時代の民衆の人々には独特な諦念がある、とありました。

今回はこの諦念について、私の個人的な見解を中心に考察してみたいと思います。



日本は島国であり、歴史の教科書で示されるように、弥生時代より基本的には定住型農耕民族として発展してきました。

定住するということは、そこにある自然とともに生きることであり、自然は人類に大きな恵みをもたらしますが、それと同時に地震や大雨などの天災ももたらすため、自然の状態とともにそこに生きる苦楽を味わうことでもあります。

そのような自然観の中で、万物に神が宿るという神道や、中国より伝来された仏教が受け入れられて神仏習合という形となり、日本の独特な宗教観が醸成されていくことになります。

そのような本来持つ宗教観を背景にしながら、江戸時代は、激しい戦国時代が終わり、下は一般市民から上は将軍徳川家康まで、「もう戦はコリゴリだ」ということで、すべての人々が平和な世を創り上げるという意思を持ってスタートした時代です。

徳川家康が後代の人々に残した言葉に、「戦だけは絶対にするな」ということがあったそうです。後代の将軍たちは最後の将軍徳川慶喜までこの言葉を重く受け止めて、国内外問わず争いを避けることにとても慎重に対応し、実際に大きな戦争を起こすことは一度もありませんでした。

「鎖国」という言葉は非常に閉鎖的な感じを受けますが、江戸時代初期には徳川幕府は様々な外国の国々と貿易を行ってきたそうで、しかし一部の国(特にスペイン)は貿易に際しても非常に好戦的で、安全な貿易ができないと判断した徳川幕府は、比較的安全な国々(オランダなど)に絞って長崎の出島で貿易を行うようにすることで、無用な争いを避ける政策を選び、それがいわゆる「鎖国」となったことは、現在の日本人の間ではあまり知られていないのではないでしょうか。

このようにして出来上がった江戸時代は260年にもおよび、現在の世界の歴史の中では単独の政権として最も長い平和な時代を築き上げたことは、あまり現在の日本人には知られていません。



では話を戻して、日本人の諦念について考えてみます。

前回の記事では、江戸時代の日本人は不運や不幸に対する独特の諦念や心構えがあった、と引用しました。

定住型農耕民族は、大雨や旱魃、地震、津波などの天災はどうしても避けられないものでした。

そのような自然災害に対する諦念というものは、江戸や現代の日本人に問わず、世界的にもそれぞれの諦念のあり方があると思います。

しかし、前回の記事で引用したとおり、江戸時代の人々には、人災の一つである火災についても、独特の諦念を示していたということです。

前回の「逝きし世の面影」より引用した部分でも、日本人の大火に際しても動じない様子は、当時日本を訪れた外国人にとっては奇妙であり、また救われるような気持ちを持ったという記録を残した人までいたようです。

天災だけでなく、火災などの人災に対して見せた江戸の人々の、ある種異様とも思える気楽さとは何だったのか?



そのひとつは、「焼け跡の立ち直りの早さは、火事慣れした江戸っ子の伝統だった」とあるように、江戸の人々にとっては火災は当たり前であったことが挙げられると思います。

それゆえ、住人も家が焼けたそばから新しい家屋が建てられていくことを知っていたがゆえの気楽さというものがあったのだと思います。

当時の外国人たちも、その光景は奇妙に感じられたと記述されておりますが、このような話を聞けば、現代の私たち日本人にも、当時の光景は奇妙にさえ感じることと思います。

なぜなら、現代の私たちは、もし近所で火事のようなことがあれば、野次馬になることはあれ、あの家は火災保険に入っているのだろうかとか、自分の家が燃えたらどうだったろうかとか、下世話な心配をするだけで、気楽な感じを受けることもないからです。

その感覚は、おそらく当時日本を訪れた外国人が感じた感覚と同じで、それゆえ江戸の人々の気楽な態度に驚かざるを得ない、ということかもしれません。



さて、「天災」は過去・現在・未来問わず存在するものとしておいておいて、「人災」というところから、江戸と現代を比較してみます。

江戸時代における人災とは…私が考える範囲では、やはり火災程度のものしか想像できませんでした。

馬から落馬する、などの交通事故?もあることはありますが、当時馬に乗っていたのは偉い役人ばかりで、民衆はもっぱら徒歩であったことを考えると、一般的ではないかもしれません(人通りの多い江戸の大通りでも荷押し車などの事故が起こりづらかったそうで、実はそこにも重要な理由がありますが、そのあたりはまたいつか引用します)。

たしかに天然痘などの疫病は頻繁に発生していたとのことですが、それは人災というよりは天災の部類に入ると考えれば、江戸時代における人災とは火災ぐらいだったと思われます。

では、現代における人災とは?

ちょっと考えてみてください…無数に思いつきすぎて数え上げるのも大変なくらいになりませんでしたか?

最近汚染水問題でも話題の福島第一原発事故や、工場排水や排気による海水汚染・大気汚染などによる公害、炭鉱やアスベストなど化学物質による労災や病害、車や列車・飛行機などの交通事故、肝炎ウィルスやエイズ、ワクチンなどの薬害問題、戦争はもちろん、エジプトのデモ弾圧などの政治的争い、火災ももちろんあるなど…これらは全部人災です。

これらの解決といえば、根本的な解決はほとんどなく、訴訟などによる金銭的な解決に留まり、それらでさえも数十年がかかるものなど大変な労力を伴うものばかりであるといえます。しかも、物理的・金銭的な解決はみても、被害者の精神や人生に深い傷を残すものも少なくはありません。

それでも私たちは何とか日々を過ごしており、自分が当事者とならない限りは、日々それぞれの多忙な中でそれらの問題に対して関心を持てない、あるいは持たない、という形で、「しかたない」というある種の諦念を抱いているようにもみえます。



私が思うに、現代の日本人は、江戸時代のご先祖様より、災害による不幸や不運に対する諦念という、素晴らしい道徳観を引き継いではおりますが、ここまでの記述をまとめると、どうやら人災までも天災と同じような諦念感を持ってしまっているような感じを受けます。

江戸の人々が火事という人災を前に暢気で気楽にいられたのは、建て替えれば済むということを江戸の住人すべてが共通認識として了解していたからで、それに基づいて大工たちが速やかに建て替えを行っていたのです。

私たちが現代の様々な人災に対して暢気で気楽にいられるためには、それらが解決される見通しを国民が共通して認識している必要がありますが、現代の私たちが感じているように、現代のそれぞれの人災に対してそのような解決されるという共通の認識は何もありませんし、政府から学者から経済人から私たち一般人まで、それらの根本的解決方法が何もわからない状態にあるとも言えると思います。

いたずらに不安を感じ過ぎてもいけませんが、これらの人災に対しても「しかたない」と諦めてしまっては、いづれ自分が当事者となるような人災に巻き込まれてしまうかもしれません。

というよりも、もはや巻き込まれている?かもしれません?

そのような例を、次回ワクチン問題について記述したいと思います。

黙って座ったまま 作家・星野智幸 (北海道新聞8月16日朝刊 各自核論より)

2013年08月16日 | 思索
今朝の北海道新聞朝刊でふと目に留まった記事がすこぶる秀逸でしたので、引用として全文転載させていただきます。

ライターは作家・星野智幸さん。私は名前も知らず著作を読んだこともないのですが、この本文に関しての深い洞察は素晴らしいものを感じました。
しかし、作家の方々は得てして問題提起に留まるまでで、その先の問題解決の道筋まで述べられる方はあまりいないのではないかと思っております。
それでもこの本文には、日本人と外国人の違いについてなど、今後の日本を読み解く上での重要な部分に触れていると感じましたので、こちらのブログをご覧の皆さまもぜひご一読ください。



黙って座ったまま 作家・星野智幸 (北海道新聞8月16日朝刊 各自核論より)



東日本大震災が起きたとき、首都圏に住む私の友人のアルゼンチン人は病院の診察室にいた。あまりの激しい揺れに、「先生、逃げていいですか?」と断り、待合室を抜けて建物の外に出た。驚いたのは、待合室にいた人たちが誰一人逃げるでもなく隠れるでもなく、じっと座って揺れに耐えていたことだったという。

大きな揺れの時に外へ飛び出すのがいいかどうかはともかく、友人は、身の危険に対しすぐに対応しようと動いた。「誰も何もしないことにびっくりした」と彼女は語っていた。

震災とはまた別の話だが、日本に留学していた韓国人の友人は、ある晩、帰宅を急いでバス停に向かったものの、終バスの時刻を過ぎてしまった。ところがバス停には何人かが座って待っている。バスが遅れているのだろうか、と彼も少し待ってみたが、来る気配はない。まわりの人に尋ねたが、わからないと言う。結局、彼がバス会社に連絡して、もうバスは終わっていることを確認した。

「普段は韓国の激しさが肌に合わず、日本の穏やかさやおとなしさのほうが物静かな自分には合っていると思っていたけれど、あのときは自分が韓国人だなぁって実感した。わからないのにただ座っているっていうことはありえない」と彼は語っていた。

先月の参院選、さらに昨年末の衆院選で、私が想起していたのはその光景だ。今も日一日と、私たちの生活に直結する重要な政策が決められていく。生活保護は基準が引き下げられ、消費税増税とセットになっていたはずの社会保障改革は骨抜きにされる。沖縄で米軍ヘリが墜落し、墜落現場に地元の自治体が入れもしないといった事態を目の前にしても、当事者以外は屈辱を感じることもない。

この社会は、自分たちが自分たちの意思で生きることを、諦めてしまったのだろうか。私にはそのように見えてしまう。雇用環境の激しい悪化や、震災、原発事故によるダメージを前に、その苦境を乗り越えよう闘おうという意思を放棄してしまったかのように映る。来ないバスを待って、ただ座っているかのように。まわりが座っているから自分もただ何となく座っているかのように。でもバスは来ないのだ。

私が絶望を感じるとしたら、この意思のなさについてである。例えば、各種の世論調査を見ると、憲法を改正するべきだと答えた人のうち、九条を変えるべきだとする人はまだ多くはない。では、憲法のどこを改正するべきだと考えているのだろうか。それとも具体的な意見はなく、何となく変えたほうがよさそうな雰囲気だからそう答えるのか。

正規軍化して徴兵制を敷いて近隣諸国の脅威を芽のうちに摘み取るべきだ、と考える人は、まだ少数派だろう。だから、その点だけについて多数決を採れば、今のところ現状が維持されると思う。けれど政府が、軍は国内外で戦えるように決めました、これはもう決定事項です、と一方的に宣言すれば、はっきりと異を唱える人は少数になり、マジョリティは黙るだけでうなずきも首を振りもしない。私にはそんな光景が浮かんでしまう。

国防関係だけではない。自由な言論の保証、基本的人権の保証、自己決定権など、より根本的な個人のあり方についてまで、黙ったままの人たちがマジョリティを占めている。現状の社会が続くようであれば、TPP(環太平洋連携協定)であれ何であれ、マジョリティの沈黙を利用して、権限を持つ者の思い描いたとおりに社会は作り替えられていくだろう。

私たちは今、黙って座ったまま、主権という強大な権力を放棄しつつある。本当にそれでよいのだろうか。

夢の中へ

2012年09月23日 | 思索
夢の中へ

作詞/作曲 井上陽水

探し物は何ですか
見つけ難(ニク)い物ですか
カバンの中も 机の中も
探したけれど 見つからないのに

まだまだ探す気ですか
それより僕と 踊りませんか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか

Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ

休むことも許されず
笑うことは止められて
這(ハ)いつくばって 這いつくばって
いったい何を 探しているのか

探すのを止めたとき
見つかることも よくある話で
踊りましょう 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか

Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ

探し物は何ですか
まだまだ探す気ですか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ

あー Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo-- さあ






また、ふと思ったことを書きます。

何かを探している人は、端から見るととてもかっこよく、見る人を魅了すると思います。

それは、物質的なものの場合だけでなく、知識的なもの、技術的なものなどの無形のものを探している姿は客観的に見ても集中しているように見えますし、「探す」という行為は、主観としても建設的な思考や行動をもたらすものであるように感じています。

物質的なものの場合は、単純になくしたものを探すことは想像しやすいですが、探検・調査で歴史書を頼りに隠された秘宝を探すなど、それは「インディー・ジョーンズ」のように映画となれば人々を魅了する物語となります。

また知識的なものでは、ある分野でさまざまな文献から共通しているものを探し出し、物事の本質に迫る、ということが言えるでしょう。推理小説や探偵小説などが時代を問わず人気なのも、主人公が理路整然と事件の真相を解明していく物語の流れが、読む者を魅了するからでしょう。

技術的なものでは、例えば音楽なら作曲で気持ちの良いメロディを探したり、絵画などの芸術では理想的な構図や配色を探したり、工芸などでは師匠から技を盗み実践する行為も「探している」と言えます。



しかし、何かを「探す」ためには、目的とするものがあらかじめ決まっていなければなりません。

例えば、履きたい靴下が片一方ないから、そのもう一方の靴下を探すためにあちこちひっくり返したりするのです。

何も目的とするものが無ければ、「探す」という行為も発生することはありません。

それゆえ、「探す」という行為はそのまま「目的」とするものがある、ということが言えると思います。

「探していない」ということは「目的」がない、ということになりますし、「目的」が無ければ「探さない」ということになります。

また、探す対象が壮大なものになれば、目的も無限大に広がるでしょう。

例えば、「宇宙とは何か?」「生命とは何か?」「人間とは何か?」という対象を探し求めるのであれば、今の地球人類にとっては最も探しがいのあるもので、その探求の世界はどこまでも広がっていき、また永遠に探し続けることができる思います。



さて、本文の先頭にあります曲「夢の中へ」ですが、1973年に井上陽水さんのシングルとして発売されヒットした曲です。

また、斉藤由貴さんにもカバーされ、こちらも大ヒットしたことを記憶している方も多いと思います。

この曲の中では、何かを探している人に対して、それをやめて踊りませんか?と誘う、というのが大雑把な要約です。

ふと、私はこの部分がひっかかったのです。



「探す」という行為は先にも述べましたように、真剣に何か集中している、人間としてはとても建設的な状態だと考えます。

その状態の人に対して「それをやめて踊りませんか?」ということは、一見気楽で楽しそうな感じがしますが、その人の大事な状態を損なう誘いである、というように感じました。

2番の歌詞で、「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」という部分もわからないではないですが、やはり多くの場合は探し続けなければ見つからない、ということが言えると思います。

それゆえに、「夢の中へ」誘うこの曲の登場人物は、真剣に探している人にとっては「邪念」として感じてしまうのではないだろうか?と私は思ったのです。

踊ることが邪念ということではありませんが、この「探す人」と「踊る人」の構図に興味をひかれたのです。



更に論理を発展させて、現代の資本主義社会に当てはめてみます。

人はやはり「目的」を持って行動しているのですが、現代社会ではその目的が「必要」から「便利さ」に置き換わり、「必要を探す人」はほとんどいなくなり、「便利さを探す人」が数多くいる、という風に考えます。

この「便利さ」というのが、ここで言う「踊り」となり、「踊りに誘う」ということは「いかに便利か」を「探す人」にアピールすることになると思います。

それゆえに、テレビやラジオ・新聞で広告を出すということはまさに、「踊りに誘って」いるのであり、それを「探して見つけた」(といっても強制的に見つけさせられた)人が数多くいることで、その商品の売り上げが増えていき儲かる、という構図が出来上がってきます。

このようにして、他のどのような人よりも「上手に踊りに誘える人」が、資本主義社会の頂点に立ち世界を動かしていると考えられます。

しかし、いくら踊りに誘うのが上手くても、誘われて一緒に踊る人がいなければ意味がありません。

そこで、最上部に位置する「踊る人」は、「探す人」の興味を「必要」ではなく「便利」に向けさせるために、「探す人」が子供のころから「便利」に向くように、教育を実施するでしょう。

そうすれば、大きくなっていく「探す人」は絶えず「便利」を追求し、また働くということは、自ら「踊る人」の側となって、今度は別な「探す人」を踊りに誘うようになるでしょう。

そうこうして、今の社会は、「便利を探す人」を増やして、かつ上手に「踊りに誘える人」を目指して働く人で溢れ返っている、という風になってしまっていると感じました。

そこに、「便利」ではなく「必要」を中心として「探す人」はほとんどいなくなってしまっているように感じます。

「便利さ」の陰には「大量の無駄」と「自然の破壊」があるため、そのような資本主義社会は未来永劫続くものにはならないと感じている人も多いのではないでしょうか。



…かなり論が散らかってしまいましたが(苦笑)

結論として、自戒を込めて、「自分は、何を探す人なのか?」「自分は、他者に対して、『便利』という踊りに誘っていないか?」という視点から身の回りの物事を再考してみるのも効果的ではないか?ということです。

「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」ならまだ良いのですが、普通探すのをやめたときは、もうそれ以上見つからないか、強制的に見つけさせられる、ということになってしまうと思います。

とりとめもない文となりましたが、何かのご参考になれば(^^)



ちなみに、井上陽水さんはこの「夢の中へ」という曲の歌詞をどのような意味で創ったのか?については、以下のサイトに詳しいです↓

井上陽水、夢の中への歌詞の秘密
http://www.les2.net/978.html


…私の解釈はかなりの曲解かもですね(^^;)

夏休みの宿題

2012年09月19日 | 思索
夏休み終了まで、あと二日。

外は照りつける太陽と騒々しいセミの鳴き声。

本来なら楽しいはずの夏休みは、終わりごろにはいつも憂鬱な時間になる。

机に向かって腕組みをすることしばらく。

その机の上には、夏休み初日に2ページだけやった宿題。

頭に工作の課題もよぎれば、いよいよいたたまれない気持ちになってくる。

それでもやらなければ…右手に持つ重い鉛筆がゆっくりと動き始めたかと思うと、

持て余した左手は、いつの間にか漫画をつかまえていた。。。



こんな夏休みの終わりを経験した方も多いのではないでしょうか?

ご多分にもれず、私もそのような人間の一人でした(笑)

これから記述するお話は、このような経験から私がふと思いついた、とある夏休みの物語でございます。

何か感じるものがあれば幸いです(^^)






夏休みも半ば。海に山に川にプールに、毎日腹いっぱい友達と遊ぶ日々が続いた。

遊び疲れた体は、晩ご飯を食べた後にはすぐに眠気を誘い、誘われるがままに夢の世界へと旅立つのが日課となっていた。

そんな日々の中でも、ふと頭をよぎることがある。

「おいお前、夏休みの宿題やったか?」

いつもの遊び友達がそう言うと、決まって私はこう答えた。

「2日もあれば出来るだろ?大丈夫だって。なんなら終わりごろにみんなで集まって、一緒に片づけてしまおうぜ!」

「それもそうだな!じゃあ今度はいつもの川まで競走だ!」

そんな風にして自転車を走らせた後には、私も友達も夏休みの宿題のことなどすっかり忘れて遊びに没頭するのであった。



友達とたっぷり遊んで、一人家に帰るある日のこと。

私は偶然、担任の先生に出会った。

「おー阿部、元気だったか?すっかり日焼けして…その分だと思いっきり遊んでいるな!」

「はい!毎日あちこち行って遊んでいます!」

「そうかそうか。それはそうとお前、夏休みの宿題はやってるのか?」

「(ギクッ!)あ、ええ、ちょっとずつですがやってますよ!(うわーやってないし…)

確か○○と××ですよね!」

「お前何言ってるんだ、○○と××はもちろんだが、△△と□□、それと◇◇も言っておいたはずだぞ」

「えっ!!!△△と□□、◇◇もあるんですか??!!」

「ちゃんと休み前に伝えたじゃないか、友達とか言ってなかったか?」

「うーん…その話は初めて聞きました…」

「とにかく、しっかりやるんだぞ。その宿題をやらないで新学期を迎えるととんでもないことになるぞ」

「…そうですね、がんばります」

「そうそう、他の友達も忘れているようだったら伝えておいてくれないか」

「わかりました」



次の日。

いつもの遊び友達と遊びながら、ふと切り出してみた。

「昨日、先生に会ってさ…夏休みの宿題、○○と××だけじゃなくて、△△と□□、それと◇◇もあるんだって!」

「お前、ほんとか?!だって、休み前、先生そんなこと言ってなかったぜ?!」

「でも先生が昨日直接僕に言ったんだから、たぶんほんとだよ。なんなら先生に直接聞いてみろよ」

確かに先生からそう聞いた私は、友達のその言葉に弱気になりながらもそう答えた。

一部は、

「マジか?!とりあえず詳しく聞かせろよ!」

と言ってくれる友達もいたが、ほとんどの友達は、

「お前、勘違いしてるんじゃないか?他の奴らもそんな宿題、聞いてないって言ってるし、オレ自身も聞いてないし。

それに、そういうことなら夏休み前にちゃんと言わない先生も悪いだろ。とりあえず○○と××やるだけにしようぜ。

△△と□□、◇◇は知らなかったんだから。どうせちょっと怒られるだけだろ?だったら我慢して切り抜けようぜ」

と言って、取り合ってもくれなかった。

「それより新しいゲーム手に入れたからオレんちでみんなでやろうぜ!」

「やろう!やろう!」

そう言ってみんな走っていってしまった。

残された私もまた、その新しいゲームで一緒に遊びたい気持ちもあったが、先生の言葉が私の頭の中をグルグル回っていた。

『その宿題をやらないで新学期を迎えるととんでもないことになるぞ』



そうこうしている内に、夏休みも残りわずか。

私の話を聞いてくれた友達と、先生の言っていた宿題について向き合ってみるが、予想外に膨大な宿題に尻込みしてしまう。

『その宿題をやらないで新学期を迎えるととんでもないことになるぞ』

再び先生の言葉が頭の中をグルグル回る。

そのとんでもないこととは何なのか?考えてみてもわからない。

でも、とにかくやらなくては。少しずつでも。



いつもと違う夏休みは、うだるような暑さの中、ただ時を重ねるだけであった。



ただ今勉強中です。

2011年05月11日 | 思索
しばらく更新が空きました。

北海道はここ最近天気が変わりやすい感じですねぇ…なかなかスカッと晴れません(--;)

五井野正博士の記事を書いてから、様々な方々にご覧いただけているようで嬉しいです(^^)

しかしだからこそ、誤解の生じないよう慎重に記事を書いていきたいと考えております。



ここ最近の記事をご覧いただいている方々は、「なぜこのような記事ばかり書いているのか?」と疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれません。

これに関して、まとめ記事というものを書こうとしていたのですが、未だその方向性が定まらず、無用な誤解を与えかねない部分が多くなりそうだったので、詳細はまた改めて記述したいと考えております。

まず、自分はなぜこのような記事を書いているのか?についてざっくりご説明いたします。



理由1:現世的な精神的苦しみからの、ひとつの解決の道

何度か書きましたように、私は長いこと精神的な憂鬱と共に生きてきました。

今完全にそれらの憂鬱が解消されている、というわけではありませんが、だいぶ軽くなり、たびたび感じるその憂鬱の種類も変わってきているように思います。

一般的に精神的な病気というものは、家庭環境や所属する社会環境、個人的なレベルでの問題として考えられているかもしれませんが、それだけが全てではないような気がしております。

そのあたりも含めて、今後まとめていきたいと思います。



理由2:ブログをご覧の方々に対して、五井野正博士の素晴らしさを極力誤解のないように伝えるため

五井野正博士に関する一連の記事をお読みいただいた方々は、それぞれに何かを感じていただけたと思います。

私は心より五井野博士を尊敬する者として、読んでいただいた方々にその素晴らしさを、極力誤解のないように伝えられるよう、慎重に記事を書いております。

というのは、五井野博士の精神世界やこれまでの偉業というものは、あまりにも幅広くまた深遠なものばかりで、博士の名前を初めて耳にした場合に当然のごとく、「ひとりでそれだけのことをするなど信じられない」とか「胡散臭い」という気持ちを抱いてしまう人が実際に多く、それが誤解につながってしまう、ということなのです。

インターネット上で五井野博士を検索すると、その情報量の少なさや、批判的記事が検索されたりするため、それらに影響されるとやはり博士に対する誤解が深まってしまう、ということが実際に起こっています。

これからの時代、精神的にも物理的にも、本当の道を示してくださる方はこの方のみ、と私は考えているため、ぜひとも多くの人に、その世界について知っていただきたい、という気持ちです。

多くの方々に知っていただければ、五井野博士の日本での表舞台への登場(海外では十分に認知されております)への機運が高まってきて、それが本当の意味での日本救済につながる、と考えております。

そのために、その他の記事を複線として記述して、それらと合わせて五井野博士の記事を読んでいただけると、ひとつの「世界観を変える」助けになると考えています。



ではまず、一連の記事のリンクです。

初めての方、読み落としなどある方はこちらからご覧ください。

奥の、奥へ。

一枚上手の人々。

最も賢い悪人とは。

最も賢い善人とは。

五井野正博士~出逢い~

五井野正博士~最も賢い善人であると感じる理由その1 最高の仏教解釈~

五井野正博士~最も賢い善人であると感じる理由その2 知られざる偉業~

五井野正博士~最も賢い善人であると感じる理由その3 示される未来~

五井野正博士~まとめ~

(注:五井野博士も著作で述べられておりますように、善悪で物事を判断することは結局二元論的見方で、最終的に視野狭窄の原因となってしまいます。私がこれらの記事を善悪を基準として書いてきたのは、ものの考え方のひとつ、としてご理解ください。)



基本的にこれらの記事で主張したいことは、ご覧の方の個人的世界観を変える材料になれば、ということです。

これらの記事の流れをうまくまとめようと考えていたのですが、注にもありますように、善悪など二元論的見方の末路は結局、正しい見方を損ねる可能性がありますゆえに、そのあたりについても自分の考えがまとまり次第、随時更新していきたいと考えております。

またここで断っておきますが、五井野博士を「最も賢い善人」という形にしたのも、実は形式上のことでありまして、五井野博士自体は善も悪も超えられたところにいらっしゃいますので、この言い方も適当ではない、と現時点で考えております。

これまで五井野博士の著作を中心にたいへん多くのことを学ばせていただいておりますが、その著作の裏付けとなる事物に関して、自分でろくに調べもしないで語る、というのは片手落ちになる、ということも考え合わせて、様々なことに対して多角的・立体的に物事を判断すべく、独自に他者による著作から勉強をしております。

ただ今読んでいる著作は、池田整治さんの著作、江戸時代にまつわる文献、スティーブン・グリアの著作、などです。

これらの文献の内容を総合しまして、さらに五井野博士の著作と照らし合わせて、更なる理解を深めようと考えております。

その道すがら、気づいたことなどをこちらのブログでフィードバックできれば幸いです。

最も賢い善人とは。

2011年04月11日 | 思索
ライブもひと段落したので、続きを書いていきます(^^)

先日の記事「一枚上手の人々。」を読んでいただいた人は、それぞれ最も賢い悪人や、最も賢い善人について思いを巡らせていただいたことと思います。

今回は「最も賢い善人」について、考察します。



まず、「善」とは何か?

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goo国語辞典より

ぜん【善】
よいこと。道義にかなっていること。また、そのような行為。「―を積み、功を重ねる」「一日一―」


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「よいこと」や「道義」とは何か?

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goo国語辞典より

どう‐ぎ【道義】
人のふみ行うべき正しい道。道理。「―にもとる行為」「―的責任」


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「正しい道」とは何か?

…これがなかなか、わかりません。

だからこそ、現代人はいろいろな宗教や学問、書物に求めたりしながら、それぞれの価値観を形成して、自分の「正しい道」を模索しながら生きている、というのが正直なところでしょう。

ここまでの定義で、「最も賢い善人」を考えた場合、人の歩むべき正しい道を歩む、ということを目的として、それを成し遂げるための道筋を注意深く考え構築し、実際に成し遂げる能力を持った人、ということが言えます。

この記事をご覧の方々は、そのような人を身近に、または書物やメディアなどから見出せるでしょうか?

まずは自分の周りから、または尊敬する人々から探してみてください。

そして、その人が本当に「正しい道」を示しているかどうか、自分なりに考えてみてください。



私は様々な精神遍歴の中で、昨年ある方に巡り会うことができました。

先日の記事でもご紹介しましたが、五井野正博士という方です。

私はこの博士が、現在地球上で最も賢き善人であることを確信しております。

これまで博士は、全人類に対して正しき道を示してきましたが、ほとんどの人々はそれを無視、もしくは弾圧してきました。

現在の日本の一大事も、博士は30年以上前から警告を発してきております。

そして今現在も、この状況からの進むべき道を日本の人々に示し続けております。

その心たるや、常人の次元を超えております。



次回、自分なりに五井野正博士について、記事を書きます。

最も賢い悪人とは。

2011年03月21日 | 思索
※今回の記事は、かなり特殊な内容で、読むとユウウツになる可能性があります。

感情的な傾向が強い方や、精神的な治療中の方、または今ご自分の夢を追っていてそれを実現しようとしている方などは、今読むのを控えて、落ち着いているときにお読みください。

ですが、今後の世界を見ていくうえで、知っておいたほうがあとあと精神的な被害は少ないと考えております。

これまでもこのブログでは、心の問題について思索する記事を多く書いてきましたが、時代が急に大きく変わろうとしているために、それほど時間をかけていられない、と思いこの記事を書いています。

このようにお伝えするのはおこがましいのですが、この記事をお読みいただく方は自己責任ということでご了承ください。













先日の記事「一枚上手の人々。」を読んでいただいた人は、それぞれ最も賢い悪人や、最も賢い善人について思いを巡らせていただいたことと思います。

今回は「最も賢い悪人」について、考察します。



最も賢い、というのは、改めて申しますと、その人がある目標を抱いたときに、慎重に道筋を考え、確実に実行することです。

「最も賢い悪人」は、悪人であるがゆえに、目標達成の手段を選びません。

悪人が持つ目標達成への手段とは?

いったい悪人はどんな手段を用いるのでしょうか???

まずはご自分でお考えください。









どうでしょうか?

どんな手段を想像されたでしょうか?

では答えを…










それは、「恐怖」と「偽善」です。

ではそれぞれ検証していきます。

まず、「恐怖」とは何か?

皆さん様々なところで「恐怖」を感じることがあると思います。

例えば、幽霊やお化け屋敷、UFOや都市伝説などのオカルト、事故や今回の震災などの災害、脅迫・恐喝などの事件や戦争などの暴力…様々な恐怖があります。

人が恐怖するとどうなるか?

先日の記事にもありましたように、感情的な恐怖の状態になると、思考や行動は停止して、自己の判断が出来ない状態となります。

その状態では人間は為すすべもなく、自己のすべてのコントロールをその恐怖の対象に委ねてしまうでしょう。

賢き悪人は、他者のこの状態を利用して、自分の目的を遂行していきます。

簡単な例としては、銃を向けて「手を上げろ!」と脅してコントロールすることです。



では、「偽善」とは何か?

これは、あたかも「善」を装いながら、相手をコントロールすることです。

偽善は、身近なところでは、「お前に○○してやったから、自分に××しろ」というニュアンスのコントロールです。

「せっかく○○してやったのに…」とか「お前たちを食わせるためにがんばっているんだ」とかいう発言も偽善の一種です。

これらは身近な小さな例ですが、これが社会的に大きくなると、偽善が見えにくくなります。

例えば会社では(全てではないですが)、「当社はエコ活動に積極的に参加しています」や「当社は○○活動に賛助しています」などの宣伝。

事業内容を詳しく見てみない限りは、その善悪は判断できませんが、中には事業内容の中で社会的問題を抱えている会社もあったりしますので、宣伝の表面的な部分だけで判断すべきではありません。

また、国家では(全てではないですが)、「○○国で成果が上がっている事業を我が国でも!」や「国際標準に対応するため」なども偽善の可能性があります。

やはりこの場合も、その内容を自分で精査しない限りは、そのプロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為)に、善悪に寄らずにコントロールされてしまうからです。

賢き悪人は、あたかも善人のように装って他者を欺き、自分の目的を遂行していきます。

最近の例で言うと、子宮頸がんワクチン接種はまさにこの典型です(検索して調べてみてください)。



では、「恐怖」や「偽善」を見抜くためには?



恐怖から考えていきます。

恐怖する、というのは、自分の考えていたことを超えていたことが起こった場合に表れます。

例えば、お化け屋敷を例にすると。

初めて入るお化け屋敷は、いつどこでお化けが出るのかわからないので恐怖するわけです。

何回も入ったお化け屋敷は、大体いつどこでお化けが出るかわかっていますので、それほど恐怖はしなくなるでしょう(それでも恐怖する人はいるかもしれませんが)。

要するに、いろいろな物事に対して、事前に何が起こるか知っていれば恐怖は少なくなるわけです。

現実的な例では、テレビや新聞の不安を煽るような報道を見て、「どうしよう」と不安に感じる(不安は恐怖とほぼ同じ意味です)ことが挙げられます。

しかし、その報道よりも先に正しい知識を知っていれば(またはもともと、より詳しい知識を持っていれば)、その報道がデタラメだったりする場合もあり、その場合はいたずらに不安になるようなことはないでしょう。



次に、偽善について考えていきます。

偽善を見抜くためにもまた、自分でその周辺の知識を良く知る必要があります。

どういうことに対しても、「これはこうなんです」と言われて、なるほど、とすぐ思ってしまってはいけません。

こういう風に言うと、「疑い深すぎるのはダメなのでは?」と思う人も多いかもしれません。

が、この世の中では、疑い深いほうが正しく判断できることがほとんどです。

なぜなら、現代社会はいろいろな部分で価値観が転倒しており、ほとんどの人が本当の人の生きる道がわからない状態になっているからです(これはまた改めて詳しく述べていきます)。

実際の自分の経験に勝るものはありません。

もし誰かに「これはこうなんです」と言われて、「本当かな?」と思ったら、自分で同じようにやってみたり、その他から改めて別の角度の知識を得るようにすればいいんです。

その結果「確かにそうだ」か「ありゃ、何か違うぞ」ということになると思いますが、それで改めて本当のことに近づいていく、というプロセスが得られます。

最終的に、偽善を見抜くには、本当の「善」というものを知ることが必要です(これもまた改めて述べていきます)。



最後に、賢き悪人の例を知りたい方へのサイト紹介です。

通常の思考をしている人には、非常に過激な内容なので、読んだらユウウツになると思います。

しかし、何も知らないままユウウツになるのとは、また違います。

このユウウツは、本当の知識を得ることと、本当の「善」を知ることで解消することが出来ます。

申し訳ありませんが、やはりこのサイトの閲覧は、自己責任でお願いいたします。

LEGACY OF ASHES 「天空の蛇 その2」
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/207.html

こちらのサイトに書かれていることは、すべてが真実とは言いませんが、このような賢き悪人がいる、ということだけでも覚えておいていただければ、と思います。

地球は、賢き善人と、賢き悪人の、壮絶な戦いの場になっている、と考えてください。

一枚上手の人々。

2011年03月19日 | 思索
一枚上手の人々。

この言葉を聞いて、どんな人々を想像するでしょうか?

考えるその人の職業や趣味・興味などによって、想像される人々は異なってくるでしょう。

例えば自分ならシンガーソングライターですので(そこのところ、どうぞ忘れないでくださいね(笑))、自分が良いと感じる歌の上手な人や素敵な歌詞を書ける人、グッとくるメロディを奏でる人、などが一枚上手に感じ、尊敬します。



多くの人々がこのような善的な想像を行うことでしょう。

しかし、この世の中は善の人ばかりではありません。

詐欺や暴力など、犯罪を行う人々は、手段の如何に寄らず目的を達成することから、それもまた「一枚上手」と言わざるを得ません。

振り込み詐欺で引っかかる人々は、彼ら犯罪者の狡猾な手口により引っかかってしまったわけで、悔しいですが相手が「一枚上手」であった、ということになります。

もちろん、引っかからない人もいるので、そのときは引っかからなかった人が犯罪者よりも「一枚上手」だった、ということになります。



また、人々はこの世に生まれて、その人それぞれに与えられた能力があります。

IQ(知能指数)のような定量的に計るものや、よく頭の切れる人・賢い人、など抽象的に表現される能力があります。

先に述べたように、世の中には善人と悪人がいる、ということと考え合わせて、思い切って単純化すると、人間の性質はその人の物事の対象により2次元のパラメータのように考えることが出来ると思います。



それぞれの変数を考えてみましょう。

■善(横軸)

自利利他の考え方で物事を考えることです。自分の利益が他人の利益になる、または他人に益することで自分に利益がある、と考えることです。

■悪(横軸)

自利のみを考え、そのためには他者を害することも手段に考えることです。他人の利益を奪うことで自分の利益にすることを考えることです。一部法的に犯罪とされる場合があります。

■賢い(縦軸)

ある目的を抱いたとき、それを成し遂げるための道筋を注意深く考え構築し、実際に成し遂げる能力です。

■愚か(縦軸)

ある目的を抱いたとき、それを成し遂げるための道筋をあまり注意深く考えることが出来ず、短絡的・場当たり的な考えで行動を起こしてしまうことです。



その人の物事の対象、としたのは、人それぞれ本分というものがあり、その人がある対象に持つ興味や関心次第で、能力を発揮する力が違うからです。

例えば、ある学生は勉強はまったくダメなのに、野球をやらせたらものすごく上手い、というように、勉強を対象にすると愚かで悪人であるが、野球を対象にすると賢い善人、ということが言えます。

人々はあらゆる対象に対して、それぞれモノの見方や能力がある、ということが言えるでしょう。



さて、本題の「一枚上手の人々」というところに戻ります。

この図から考えると、善にも悪にも、ある対象に対して「賢い」人々が一枚上手となることがわかると思います。

例えば、目的として「お金を稼ぐ」ということについて、それぞれの極端な例で考えてみます。



■最も愚かだが、最高の善人の場合

「自分にはとにかく働くしかないから」と、自分がすぐにでも出来る仕事を見つけて一生懸命働き、自分の生活を切り詰めてお金を稼ぐことでしょう。

■最も愚かで、最高の悪人の場合

手近なお金を持っていそうな人を見つけては、暴力なり脅迫なりでお金を脅し取るでしょう。もちろん、場当たり的な行動なので、警察にすぐ捕まってしまいそうです。

■最も賢く、最高の善人の場合

誰もが喜ぶ製品や情報・技術、芸術などを慎重に考え、それらを求める人々の負担にならない程度の価格で多くの人に提供して、少しずつ自分の稼ぎを増やしてゆくでしょう。

■最も賢く、最高の悪人の場合

あらゆる法律の網の目をかいくぐり手段を選ばず、問題があった場合は他者になすりつけ自分の手を汚さず、自分に不利益にならないようにお金を稼ぐでしょう。



極端な例でしたが、だいたいイメージは掴んでいただけたと思います。

この例ではお金としましたが、目的は「野球」でも「音楽」でも、もっと抽象的な「有名になりたい」「夢を実現したい」など、何でも当てはまると思います。

この世の中にはたくさんの人々がいて、それぞれの善悪賢愚で世の中を動かしています。

目的は同じでも、そのアプローチはさまざまで、それが例えば「成功術」のような啓発本や、著名人の「伝記」などに見られるものとなります。

突き詰めていくと、やはり最も賢い人や最も愚かな人、最高の悪人や最高の善人、という人が必ずいます。

あらゆる人々の中で、最高の賢い悪人や最高の賢い善人は、「一枚上手」というよりも、「何枚も上手」の人がいるのは直感的にわかるでしょう。

さて、その人たちは今、何をやっているのでしょうか?

どんな目的を持って、どんな道筋を構築して、どのように実行しているでしょうか?



そしてあなたは今、どんな目的を持って、どんな道筋を構築して、どのように実行しているでしょうか?

物事を考えるきっかけになれば幸いです。

もちろん、自戒もこめて。

奥の、奥へ。

2011年03月17日 | 思索
平時のときでも、緊急のときでも、奥の、奥へ。

時間は止まらず、止まるのは思考と行動。

改めて、こういったことに気づかされています。



というのも、こちらをご覧の皆さんも、仕事でも趣味でも何でも良いですが、何かをするとき、過去の経験や知識、または性格などから、あるところから思考や行動がストップする、ということがあると思います。

そのストップした段階が、ある人は「満足」、ある人は「不満」、ある人は「成功」、またある人は「失敗」、など名づけたりするでしょう。

また、感情についても同じように考えられます。

「怒り」や「喜び」、「恐怖」や「楽しみ」、など、感じているときは思考や行動がストップしているでしょう。

もちろん、「喜び」や「楽しみ」などのプラスの感情は、味わい深くていつまでも感じていたいものですが、「怒り」や「恐怖」というものは、感じたくないのにそれに支配されてしまう。

逆に言えば、感情に支配されているとき、人は思考からも行動からも離れてしまっている、と言えます。



例えば、今回の災害において如実に感じるのは、テレビの報道です。

津波の映像は何回見ても、恐怖や不安を覚えます。

実際に災害に遭われた方々がその映像を何度も見たら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を刺激されることは誰もがわかると思います。

それを知ってか知らずか、テレビ局各社は再三に渡って報道し、アナウンサーやコメンテーターはしかめっ面をするだけ。

普段からテレビを見ている人たちは、これが当たり前だと思ってしまってはいないでしょうか?



「テレビはそういうものだ」ということにしてしまえば、テレビから流されるものに、思考から感情から支配されてしまいます。

もちろん、良心的な内容の番組も数多くありますが、今回の報道(今回だけではないですが)に関しては、ひどすぎます。

タイトルを「奥の、奥へ。」としたのは、この部分です。

というのも、ここでさらに踏み込んで、「なぜこんな報道をするのか?」ということを考えてみてほしいからです。

そう思った人の考え方次第で、いろいろな答えになると思いますが、最初はそれでもいい。

自分で考えてみる、という最も大事な行為を、長い間放棄してきたことに気づくでしょう(自分も偉そうなことは言えないですが)。



自分がそのように考えた場合。

・なぜこんな報道をするのか?
→刺激的な映像が多いほうが、視聴者を多く得られるから。

<パターンA : 科学的サイド>

・なぜ刺激的な映像が視聴者を引きつけるのか?
→人々の脳は基本的に、良し悪し関係なく、強い刺激を求めるから。

・なぜ脳は強い刺激を求めるのか?
→そのほうが神経細胞の組織化が速やかに行われるから?→他者や書物へ。

<パターンB : 社会的サイド>

・なぜ刺激的な映像ばかり報道して視聴者を多く引きつけようとするのか?
→民放テレビ局は基本広告収入で成り立っているため、どんな手段を用いても視聴者を多く引きつけなければいけないから。

・なぜ手段を選ばないのか?
→優先順位の1位が広告収入(お金)で、国民を正しく導く、という大儀はないから。

・なぜ人の道や心ではなく、お金を優先させるのか?
→みんなお金が大好きで、お金で何でもできると思っているから。

・お金とは何か?
→…最大の疑問です。→他者や書物へ。



というように、奥へ、奥へと思考を巡らすと、ものごとはその人なりに核心に迫っていきます。

<パターンA>では科学的なサイドから、<パターンB>では社会的サイドからの検証となっています。

道は違えど、それぞれ追求していけば、みんな同じところに辿り着くと思います。

自分の知識の範囲を超えたところで、他者や書物に聞いてみる、というのが、至極自然な流れであり、健全な思考や行動を守る指針となると思います。

今までの自分もそうなんですが、最初のところで他者や書物で聞いたり読んだりしたりしてきたため、その最初に聞いた人や書物の影響を強く受け(いい加減に選んだ知識は、その後必ず矛盾に突き当たる)、そういうものってしっかりと頭に残らないんです。

頭に残らないと、次に思考するための道具とならないので、必ずいつか思考が止まります。

思考が止まったときに「わからない」「難しい」となってしまって、そうなると一枚上手の人々に簡単にコントロールされていまいます。

人からコントロールされるということは、潜在的に誰でも嫌なことなので、嫌な気分になることも多くなる。

そうならないために、このように「奥の、奥へ」思考、行動、ということが大事だと、改めて感じております。



このようなことは、例えば自分の仕事や興味のあることに対しては、皆さん自然と行っているはずです。

そうではない部分への関心に対しても、同じように考えてみてほしいです。

この記事をご覧になってから、この世界というものを試しに自分なりに考えてみる機会を持っていただければ嬉しいです。