阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部を終えて その2

2013年11月20日 | 思索
前回の記事創作小説 「ワクチンを巡る人々」第1部を終えてからちょっと間があいてしまいましたが続きです。

前回の記事ではちょっと風呂敷を拡げ過ぎてしまって論点がぼやけてしまい、次回の小説の第2部の内容との兼ね合いもあり、今回軽くまとめておいて第2部へいきたいと思います。

(※私自身、書きながら自己を振り返っている部分もありますので、気長にお付き合いください)



第1部のテーマは「無知と欺瞞」でしたが、昨今の食品表示偽装問題やJR北海道の報告書偽装問題などのニュースを見てもつながってくるところがあると思っている方々も多いと思います。

これらの問題は、ある業種だから特別、というわけではなく、あらゆるところで見られますので、根っこは同じと見ることができるでしょう。

薄々感づいている方も多いと思いますが、その根っことは資本主義社会の性質にある、と私は考えています。

あらゆる会社は基本的には儲けを追及しているわけで、表向きは法律で規制されてはいるものの、手段を選ばずに儲けを追及すれば、自ずと法律を破ることも辞さなくなるのは自然?の流れかもしれません。

さらに言えば、法律そのものをコントロールできる立場にあれば、自分に有利なように法律を作ることが出来たり、ライバルを法律で規制して蹴落とす、という考え方も生まれてきて、実際にそのようにしている例もあるようです。

さらにグローバルになると、お金そのものを刷る権利があれば、何かをして稼ぐ必要もなく、自分の好きなだけお金を刷れば良いわけで、1700年代あたりから、ある特定のグループが暗躍してお金の発行権を独占し、現在まで世界中のお金をコントロールしているようです。

お金をコントロールできれば、資本主義的考えにあるどんな業種でも国家でも従わせることができるようで(それが例えば軍事でも宇宙開発でも)、実際にあらゆる分野に巨大資本として参入して、自分たちの思い通りに動かそうとしているようです。

会社や国家がそうなる一方、個人はどうかと言えば、やはり資本主義的考え方が主流となっており、先の小説の厚労省職員の例では、収入や地位としての自分の立場を守るために、自分の良心を欺く結果となるのは、まさに資本主義的欺瞞の例なのかもしれません。

これは私が思うに、「現代版踏み絵」のようなもので、自身の良心に従うか?儲けや地位・名誉を優先するのか?という踏み絵を前に私たちは日々過ごしていると言え、その精神的ストレスは非常に高く、それゆえ日本は先進国の中でも自殺率が非常に高い流れも理解できると思います。

そして、この踏み絵には自然や地球といったものは含まれておらず、私たちが創り上げたエゴ的社会の中での勝手な精神的葛藤とも言えるかもしれません。それゆえに、現在の社会活動が葛藤しながら進行するにつれ、自然や地球環境が破壊され悪化していき、昨今の異常気象などの自然災害、原発事故や環境汚染などの人災が別な角度で私たちの社会を脅かしてくる、という致命的な悪循環に陥っているとも言えるでしょう。

そういった中で私たちは、精神的にも物質的にもそのような葛藤から何とか自分を保ちながらがんばっています。



私たちの内にある良心というものは、親からや学校で特別学ぶものでもなく、もともと持っている根源的なものだと私は考えています。

「これこれこういうときには良心を感じなさい」と教わらなくても、目の前で川で溺れている子供がいたら瞬間的に助けようとする、というものは誰しも持っていると思います。

それぞれの世界観の中で、その世界観に見合った良心を発現させたり、あるいはその自然発生的な良心を欺いたりしながら私たちは生きていると言えます。

ということは、その世界観が広がるにつれて(無知な領域が無くなっていくにつれて)、良心もまた変化し広がりを見せる、とも言えるかもしれません。

逆に、世界観が広がるということは、現状の自分がその世界観における良心とは相容れなくなることになり、自分の状況を世界観に合わせるという変化を起こさなければ、自ずとその世界観からくる良心に欺く結果になってしまうかもしれません。

それゆえ、自分に見合わない世界観の拡大というものは、無知から離れるものの、その世界観からくる良心に対する欺瞞を深めることになってしまい、そこから変化して抜け出さない限りは、エネルギーが欺瞞に費やされ、かえって元より減退することになってしまうのかもしれません。

日々変化することを厭わない人であれば、世界観の広がりと共に自己を変化させ環境をも変化させ留まるところを知らない成長を成し遂げるかもしれませんが、私たちはなかなか自己の変革や環境を変えるということは難しいものです。

世の中のことを知るということは、その世界観の広がりと共に、自己自身が何たるか?を観ていくことであり、自己の発見という面もありますが、それは時に恐ろしいことでもあります。

というのは、世の中の未知な事柄に対して、それを知ったときに、自分自身がどのような存在なのか?を知ることでもあるからです。

現代社会が自然や地球環境に優しくなく破壊活動をしている人間社会である、ということは、こちらのブログをご覧の方々も異論がないかもしれません。

がしかし、その私たちもまた、それらの破壊的活動を行っている社会の構成員である、あるいは、その破壊活動に直接的・間接的に関わっている、ということを正面から理解し受け止めるということは、私たち人間存在に対する根本的な問いかけでもあり、かなり大変なことだと思います。

自身の存在を肯定的に捉える、ということは非常に大事なことなのですが、これらの事実を踏まえて改めて自身の存在を問う、という場合、必ずしも肯定的に捉えられるかどうか?はかなりの難題です。かと言って、社会自体を否定的に捉えれば、完全にその社会の影響を逃れた新しい社会に自身が所属していない限り、自分が所属している社会を否定していることになるので、やがて自己矛盾が生じて苦しくなるかもしれません。

この難題を乗り越えていくには?…これは現代社会の人類に問いかけられ続けている問題であり、誰しもいつか様々な形で向き合うことになることである、と私は感じています。



…長々と書いてもやはり論点がぼやけてしまってますが(苦笑)。

ワクチンを譬えとして世界の問題に迫っておりますが、結局、社会的にも個人的にも、根本的な問題をどのように解決するか?というのは様々な分野で生じていることでもあり、まずはどのような問題があるのか?をそれぞれ知っていき、それらの問題が持つ共通的な、または象徴的(シンボリック)な部分を洞察していくことが大事、だと私は感じています。

というのも、最近メディアでも話題の特定秘密保護法案のような法が通されれば、今まで以上にマスコミや公的発表などの情報の質は劣化し、いよいよ何が本当なのか分からない世界がやってくることが想定されるからです。

私のような記事を書いていることも、もしかしたら摘発の対象になるかもしれませんし、表のメディアのみならずネット上でも情報統制が敷かれることになれば、息苦しさ満点の管理社会の出来上がり、ということになるかもしれません。

そういった中で、落ち着いて情報を判断するには、やはり根本問題から理解し、それぞれの記事や断片的な情報から象徴的に大きな流れを読む、ということが精神衛生上も良いと考えています(かと言って深読みし過ぎて疑心暗鬼に陥るのは逆に良くないですが(私などがそうかもしれません(苦笑))。

物事を象徴的(シンボリック)に判断する、というのは、実生活でも非常に役立つようで、意識や感覚の鋭い方々は、このようなものの見方をすることに優れているようです。右脳的なものの見方?でしょうか。例えば、何かトラブルなど嫌なことが起こったときにも、「これは私が成長する(力を試す)チャンスなのかもしれない」と、余計な心配や不安に陥らずに瞬時に冷静な判断に移行できる、といったものです。

根本問題をよく知って、このような思考法や洞察力・判断力があれば、何事にも左右されずに行動力を持続することが出来るかもしれません。



なんだかまとまりませんが(笑)

以上で第1部については終わりです。

次回から第2部を書いていきます。

※更新頻度は期待しないでください。

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