そうは言っても、自分だっていろいろ事情があります。
しかしてそんな事情だって、10センチ離れて見てもわからないけど、1m、10m、100m離れて見ると、「なんだ、たいしたことないな」って思うことばっかりなんだけどね。でも、みんなそれぞれ、めいめいの距離で見る事情があるんだな。
今一度、この記事を再掲します。
過去のブログ「ひとりごと」から、「
拡大」より。
誰も喜ばないことを考える
自分だけが喜ぶことを考える
自分と家族が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚と友達が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚と友達と職場の人が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚と友達と職場の人と地域の人が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚と友達と職場の人と地域の人と自分の国の人が喜ぶことを考える
自分と家族と親戚と友達と職場の人と地域の人と自分の国の人とその他の国の人が喜ぶことを考える
人間とその他の動物が喜ぶことを考える
人間とその他の動物と植物が喜ぶことを考える
人間とその他の動物と植物と無生物が喜ぶことを考える
全宇宙が喜ぶことを考える
今僕が考えていることは、どこに属すだろう。
--- 再掲おわり ---
「やらない善より、やる偽善」という言葉があるのかどうかわからないけど、社会が複雑化しているというより、個人が複雑化している、という感じがする。
これまでは、個性というものは社会環境の影響で構築されるものだと思っていたけれど、その影響はかなり小さい気がする。言うなれば、持って生まれた気質というか。その影響があまりにも大きいのかもしれない。
社会の混迷は突き詰めていくと個人に還元される。その個人として、個性として、具体的でかつ人間本来的な社会的行動・活動というものを主張・提唱でき、それを万人に説得し得る人間は、世界60億人の中でどれだけいるんだろうか?
人々が好き勝手やることが自由として主張されるならば、必ず争いが起こる。なぜなら、自分の「好き勝手」が他人の「好き勝手」に必ず干渉することになるからだ。「好き勝手」という中には、必ずしも他人の「好き勝手」を尊重する必要がない。ある人が「自分は好き勝手するが、他人の好き勝手は許さない」という「好き勝手」をすると、そこには必ず争いと隷属があるだろう。
かといって、画一的に人間の生きる道を統一すべきものであるのだろうか?この問いに対して、世界中のおおよその人が抵抗、もしくは沈黙するであろう。なぜなら、人々が求めるのは「自由」であり、あらゆる束縛から解放されることを望んでいるからである。
それぞれの宗教はそれぞれのやり方で信者に対して生き方を提示しているであろう。しかし、万人が教養のいかんに問わず心底納得する宗教(という生き方)が、数千年経っても万人に浸透しないというのはどういうことだろうか?「自由」とか「多様性」で片付けられるなら、人間としての精神性の進歩というものを、完全に否定しているのではないだろうか?
世界中にはたくさんの人々がいて、中には偉人・超人・天才と言われる人がいる。先天性のものもあるのかもしれないが、それらの人々が歩んできた人生というものは、本当に「自由」と「多様性」の中で育まれたものなのであろうか?
否、である。例えば、現在もメジャーリーグで活躍するイチロー選手にとってみても、我々一般人はメディアのごく一部の情報から練習風景など垣間見ることが出来るが、それ以外では何もしていないか、というとそうではない。日本でのオリックス時代からメジャーに至るまで、試合前、試合中、試合後に行うストレッチや所作などのメニューは、ほとんど変わっていないという。その結果、大記録が生まれ続けているという事実がある。果たして、これらのことは客観的に見て「自由」と言えるだろうか?
人間として、ある目的を達成するためには、自由であってはならない。極論をいうとそこには多様性というものもないかもしれない。あるのは「目的」と「実践」。世界中で、非常に多くの人々がこのことを行って成功を収めており、それらの一部は「自己啓発本」として一般市民の目の触れるところにもたくさんある、というのが現在のところです。
ある目的を達成するためには自由ではならない、ということは誰でも直感的に理解できるところではあるが、ここに重大な落とし穴があることにお気づきだろうか。「ある目的」ということが「自由」であって良いのだろうか?ということである。
「目的」というものを「善」・「悪」と大括りに定義することは出来ないが、そこに「自由」が存在していいのだろうか?生活に困窮する家族で、父親が決断して、家族に内緒で悪事に手を染めて稼いだお金が家族を潤す…それは家族からしてみれば「善」であるかもしれないが、家族の「善」という目的のために「悪」を実践する、という複雑なケースである。
これらのケースは、スケールの大小により、当人は「善」の目的とまい進していても、実際には悪影響であった、ということもあり得る。仁侠映画では「悪」に身を染める人が「善」を行うことが美徳に見られたりもする。こういったことは、個に限ったことではなく、集団としても問題化することになる。
…とりとめもなく書いていたので散らかってしまったけども(苦笑)、ようするに、「意識」というものがどこにあるのか?という問題なのだと思う。個であるか、家族であるか、知人であるか、地域であるか、国であるか、地球であるか、銀河系であるか、それ以上であるか?こういったことは、直感的に誰でも拡大できるものであると信じている。例えば、自分が銀河系外からやってきた宇宙人である、と思って世界を見渡せば良い。何万光年という時を超えてやってきて、未開の原住民を調査するような気持ちでやってきた地球であったのだが…などという設定で考えてみると、また違った見え方がするだろう。
グダグダで読みづらい文章かも知れませんが、まとめると、「意識」が拡大することにより、「目的」(因)が自ずと決まってくる、そしてそういった意識での「縁」が生じて、さらに実践がついてくると、結果が出て(果)、それによる報い(報)があらわれる。これらの「因縁果報」はどの次元でも成立するので、意識を拡大することで因が高い次元に変化し、縁果報の部分が変わってくる、ということだと思います。
…かく言う自分は低次元の凡人であり、あらゆる悪因を内に秘めておりますゆえ、これからの精進が非常に重要になってくるわけです。くはっ。
以上、民主党代表選を受けてのコラムでした(そんな記述は無かったのでは?!)。