夢の中へ
作詞/作曲 井上陽水
探し物は何ですか
見つけ難(ニク)い物ですか
カバンの中も 机の中も
探したけれど 見つからないのに
まだまだ探す気ですか
それより僕と 踊りませんか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
休むことも許されず
笑うことは止められて
這(ハ)いつくばって 這いつくばって
いったい何を 探しているのか
探すのを止めたとき
見つかることも よくある話で
踊りましょう 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
探し物は何ですか
まだまだ探す気ですか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
あー Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo-- さあ
また、ふと思ったことを書きます。
何かを探している人は、端から見るととてもかっこよく、見る人を魅了すると思います。
それは、物質的なものの場合だけでなく、知識的なもの、技術的なものなどの無形のものを探している姿は客観的に見ても集中しているように見えますし、「探す」という行為は、主観としても建設的な思考や行動をもたらすものであるように感じています。
物質的なものの場合は、単純になくしたものを探すことは想像しやすいですが、探検・調査で歴史書を頼りに隠された秘宝を探すなど、それは「インディー・ジョーンズ」のように映画となれば人々を魅了する物語となります。
また知識的なものでは、ある分野でさまざまな文献から共通しているものを探し出し、物事の本質に迫る、ということが言えるでしょう。推理小説や探偵小説などが時代を問わず人気なのも、主人公が理路整然と事件の真相を解明していく物語の流れが、読む者を魅了するからでしょう。
技術的なものでは、例えば音楽なら作曲で気持ちの良いメロディを探したり、絵画などの芸術では理想的な構図や配色を探したり、工芸などでは師匠から技を盗み実践する行為も「探している」と言えます。
しかし、何かを「探す」ためには、目的とするものがあらかじめ決まっていなければなりません。
例えば、履きたい靴下が片一方ないから、そのもう一方の靴下を探すためにあちこちひっくり返したりするのです。
何も目的とするものが無ければ、「探す」という行為も発生することはありません。
それゆえ、「探す」という行為はそのまま「目的」とするものがある、ということが言えると思います。
「探していない」ということは「目的」がない、ということになりますし、「目的」が無ければ「探さない」ということになります。
また、探す対象が壮大なものになれば、目的も無限大に広がるでしょう。
例えば、「宇宙とは何か?」「生命とは何か?」「人間とは何か?」という対象を探し求めるのであれば、今の地球人類にとっては最も探しがいのあるもので、その探求の世界はどこまでも広がっていき、また永遠に探し続けることができる思います。
さて、本文の先頭にあります曲「夢の中へ」ですが、1973年に井上陽水さんのシングルとして発売されヒットした曲です。
また、斉藤由貴さんにもカバーされ、こちらも大ヒットしたことを記憶している方も多いと思います。
この曲の中では、何かを探している人に対して、それをやめて踊りませんか?と誘う、というのが大雑把な要約です。
ふと、私はこの部分がひっかかったのです。
「探す」という行為は先にも述べましたように、真剣に何か集中している、人間としてはとても建設的な状態だと考えます。
その状態の人に対して「それをやめて踊りませんか?」ということは、一見気楽で楽しそうな感じがしますが、その人の大事な状態を損なう誘いである、というように感じました。
2番の歌詞で、「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」という部分もわからないではないですが、やはり多くの場合は探し続けなければ見つからない、ということが言えると思います。
それゆえに、「夢の中へ」誘うこの曲の登場人物は、真剣に探している人にとっては「邪念」として感じてしまうのではないだろうか?と私は思ったのです。
踊ることが邪念ということではありませんが、この「探す人」と「踊る人」の構図に興味をひかれたのです。
更に論理を発展させて、現代の資本主義社会に当てはめてみます。
人はやはり「目的」を持って行動しているのですが、現代社会ではその目的が「必要」から「便利さ」に置き換わり、「必要を探す人」はほとんどいなくなり、「便利さを探す人」が数多くいる、という風に考えます。
この「便利さ」というのが、ここで言う「踊り」となり、「踊りに誘う」ということは「いかに便利か」を「探す人」にアピールすることになると思います。
それゆえに、テレビやラジオ・新聞で広告を出すということはまさに、「踊りに誘って」いるのであり、それを「探して見つけた」(といっても強制的に見つけさせられた)人が数多くいることで、その商品の売り上げが増えていき儲かる、という構図が出来上がってきます。
このようにして、他のどのような人よりも「上手に踊りに誘える人」が、資本主義社会の頂点に立ち世界を動かしていると考えられます。
しかし、いくら踊りに誘うのが上手くても、誘われて一緒に踊る人がいなければ意味がありません。
そこで、最上部に位置する「踊る人」は、「探す人」の興味を「必要」ではなく「便利」に向けさせるために、「探す人」が子供のころから「便利」に向くように、教育を実施するでしょう。
そうすれば、大きくなっていく「探す人」は絶えず「便利」を追求し、また働くということは、自ら「踊る人」の側となって、今度は別な「探す人」を踊りに誘うようになるでしょう。
そうこうして、今の社会は、「便利を探す人」を増やして、かつ上手に「踊りに誘える人」を目指して働く人で溢れ返っている、という風になってしまっていると感じました。
そこに、「便利」ではなく「必要」を中心として「探す人」はほとんどいなくなってしまっているように感じます。
「便利さ」の陰には「大量の無駄」と「自然の破壊」があるため、そのような資本主義社会は未来永劫続くものにはならないと感じている人も多いのではないでしょうか。
…かなり論が散らかってしまいましたが(苦笑)
結論として、自戒を込めて、「自分は、何を探す人なのか?」「自分は、他者に対して、『便利』という踊りに誘っていないか?」という視点から身の回りの物事を再考してみるのも効果的ではないか?ということです。
「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」ならまだ良いのですが、普通探すのをやめたときは、もうそれ以上見つからないか、強制的に見つけさせられる、ということになってしまうと思います。
とりとめもない文となりましたが、何かのご参考になれば(^^)
ちなみに、井上陽水さんはこの「夢の中へ」という曲の歌詞をどのような意味で創ったのか?については、以下のサイトに詳しいです↓
井上陽水、夢の中への歌詞の秘密
http://www.les2.net/978.html
…私の解釈はかなりの曲解かもですね(^^;)
作詞/作曲 井上陽水
探し物は何ですか
見つけ難(ニク)い物ですか
カバンの中も 机の中も
探したけれど 見つからないのに
まだまだ探す気ですか
それより僕と 踊りませんか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
休むことも許されず
笑うことは止められて
這(ハ)いつくばって 這いつくばって
いったい何を 探しているのか
探すのを止めたとき
見つかることも よくある話で
踊りましょう 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
探し物は何ですか
まだまだ探す気ですか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと 思いませんか
Woo woo woo-- Woo woo woo--
Woo woo woo-- さあ
あー Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo 夢の中へ
Woo woo woo-- さあ
また、ふと思ったことを書きます。
何かを探している人は、端から見るととてもかっこよく、見る人を魅了すると思います。
それは、物質的なものの場合だけでなく、知識的なもの、技術的なものなどの無形のものを探している姿は客観的に見ても集中しているように見えますし、「探す」という行為は、主観としても建設的な思考や行動をもたらすものであるように感じています。
物質的なものの場合は、単純になくしたものを探すことは想像しやすいですが、探検・調査で歴史書を頼りに隠された秘宝を探すなど、それは「インディー・ジョーンズ」のように映画となれば人々を魅了する物語となります。
また知識的なものでは、ある分野でさまざまな文献から共通しているものを探し出し、物事の本質に迫る、ということが言えるでしょう。推理小説や探偵小説などが時代を問わず人気なのも、主人公が理路整然と事件の真相を解明していく物語の流れが、読む者を魅了するからでしょう。
技術的なものでは、例えば音楽なら作曲で気持ちの良いメロディを探したり、絵画などの芸術では理想的な構図や配色を探したり、工芸などでは師匠から技を盗み実践する行為も「探している」と言えます。
しかし、何かを「探す」ためには、目的とするものがあらかじめ決まっていなければなりません。
例えば、履きたい靴下が片一方ないから、そのもう一方の靴下を探すためにあちこちひっくり返したりするのです。
何も目的とするものが無ければ、「探す」という行為も発生することはありません。
それゆえ、「探す」という行為はそのまま「目的」とするものがある、ということが言えると思います。
「探していない」ということは「目的」がない、ということになりますし、「目的」が無ければ「探さない」ということになります。
また、探す対象が壮大なものになれば、目的も無限大に広がるでしょう。
例えば、「宇宙とは何か?」「生命とは何か?」「人間とは何か?」という対象を探し求めるのであれば、今の地球人類にとっては最も探しがいのあるもので、その探求の世界はどこまでも広がっていき、また永遠に探し続けることができる思います。
さて、本文の先頭にあります曲「夢の中へ」ですが、1973年に井上陽水さんのシングルとして発売されヒットした曲です。
また、斉藤由貴さんにもカバーされ、こちらも大ヒットしたことを記憶している方も多いと思います。
この曲の中では、何かを探している人に対して、それをやめて踊りませんか?と誘う、というのが大雑把な要約です。
ふと、私はこの部分がひっかかったのです。
「探す」という行為は先にも述べましたように、真剣に何か集中している、人間としてはとても建設的な状態だと考えます。
その状態の人に対して「それをやめて踊りませんか?」ということは、一見気楽で楽しそうな感じがしますが、その人の大事な状態を損なう誘いである、というように感じました。
2番の歌詞で、「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」という部分もわからないではないですが、やはり多くの場合は探し続けなければ見つからない、ということが言えると思います。
それゆえに、「夢の中へ」誘うこの曲の登場人物は、真剣に探している人にとっては「邪念」として感じてしまうのではないだろうか?と私は思ったのです。
踊ることが邪念ということではありませんが、この「探す人」と「踊る人」の構図に興味をひかれたのです。
更に論理を発展させて、現代の資本主義社会に当てはめてみます。
人はやはり「目的」を持って行動しているのですが、現代社会ではその目的が「必要」から「便利さ」に置き換わり、「必要を探す人」はほとんどいなくなり、「便利さを探す人」が数多くいる、という風に考えます。
この「便利さ」というのが、ここで言う「踊り」となり、「踊りに誘う」ということは「いかに便利か」を「探す人」にアピールすることになると思います。
それゆえに、テレビやラジオ・新聞で広告を出すということはまさに、「踊りに誘って」いるのであり、それを「探して見つけた」(といっても強制的に見つけさせられた)人が数多くいることで、その商品の売り上げが増えていき儲かる、という構図が出来上がってきます。
このようにして、他のどのような人よりも「上手に踊りに誘える人」が、資本主義社会の頂点に立ち世界を動かしていると考えられます。
しかし、いくら踊りに誘うのが上手くても、誘われて一緒に踊る人がいなければ意味がありません。
そこで、最上部に位置する「踊る人」は、「探す人」の興味を「必要」ではなく「便利」に向けさせるために、「探す人」が子供のころから「便利」に向くように、教育を実施するでしょう。
そうすれば、大きくなっていく「探す人」は絶えず「便利」を追求し、また働くということは、自ら「踊る人」の側となって、今度は別な「探す人」を踊りに誘うようになるでしょう。
そうこうして、今の社会は、「便利を探す人」を増やして、かつ上手に「踊りに誘える人」を目指して働く人で溢れ返っている、という風になってしまっていると感じました。
そこに、「便利」ではなく「必要」を中心として「探す人」はほとんどいなくなってしまっているように感じます。
「便利さ」の陰には「大量の無駄」と「自然の破壊」があるため、そのような資本主義社会は未来永劫続くものにはならないと感じている人も多いのではないでしょうか。
…かなり論が散らかってしまいましたが(苦笑)
結論として、自戒を込めて、「自分は、何を探す人なのか?」「自分は、他者に対して、『便利』という踊りに誘っていないか?」という視点から身の回りの物事を再考してみるのも効果的ではないか?ということです。
「探すのを止めたとき 見つかることも よくある話で」ならまだ良いのですが、普通探すのをやめたときは、もうそれ以上見つからないか、強制的に見つけさせられる、ということになってしまうと思います。
とりとめもない文となりましたが、何かのご参考になれば(^^)
ちなみに、井上陽水さんはこの「夢の中へ」という曲の歌詞をどのような意味で創ったのか?については、以下のサイトに詳しいです↓
井上陽水、夢の中への歌詞の秘密
http://www.les2.net/978.html
…私の解釈はかなりの曲解かもですね(^^;)
こんにちわ。私は昔からの五井野博士のファンでして最近ブログを始めて、私なりの博士情報を少しづつですが発信させていただいております。阿部さんの博士についてのお話は見させていただいています。とても素晴らしいと思います。私も色々と勉強していきたいと思っていますのでどうか宜しくお願い致します。(勝手ですいません)もしよかったら私のブログ「五井野正博士ファンクラブ」覗いて頂ければ嬉しいです。
夢の中へは私も好きな歌です。でも阿部さんのように深く考えたことはなかったのですが、私はこの歌は「現代人が人として何が大事なことなのかを見失っているため、本当に求めているものにではなく、見当はずれのことに、一生懸命、エネルギーを使い苦しんでいるので、そんな世界(苦の)から楽しい世界(楽の)へ行きませんか?来てみませんか!そこだったら見つかるかも知れませんよ。と博士がみんなに手を差し伸べている風に博士を知ってからはそんなイメージで感じてしまいます。作者自身がそのように意識してるかは別として、インスピレーションとして陽水に入ってきたものなのかもしれませんね。
最後に紹介しているサイトの記事は、正しくないと思います。
改めて調べてみましたら、逮捕されたのが1977年9月10日でした。
年代が逆ですね。
こういう単純なことも調べずに勝手に書く人がいるから、困ったものです。
“探す”という行為に没頭し過ぎて、本来の目的を忘れたり、見失ったり、それてしまっている時があるので、ちょっと立ち止まり、他のことに目を向けて、もう一度外からその目的に目を向けたら、案外、探していたものが目の前にあったりもするよ~♪
って、いうような感じで受け取っていました…。
そこに便利さの誘惑とかまで考えて深く掘り下げていくあたり、
アベタクの思索は、いつも私とは全然違う切り口から入っているので、本当に勉強になりますね~♪
私もアベタクみたいな良い頭が欲しかったです…。
陽水は、何を伝えようとしてこの詩を書いたのか?疑問でした。
今回阿部さんが書いてくれたのを機に、改めて考えてみました。
歌詞をこのように一覧になっているのを見て、はっと気づきました。
「休むことも許されず
笑うことは止められて
這(ハ)いつくばって 這いつくばって
いったい何を 探しているのか」
この歌が出たのが、70年安保運動の後でオイルショックの前であることも関連しています。
つまり、1969年に学生運動で盛り上がり、東大入試も中止になったというのに、
(閑話休題:五井野博士が東大に行くのを辞めたから東大入試が中止になったのが真実)
結局挫折してしまい日本が誤った方向に進んでいくけれども、経済的には高度成長が続いていたのです。
つまり、進むべき方向も目的もないまま、馬車馬のように働き或いは受験勉強に精を出す、その日本人に対してのメッセージなのかな、という気がしてきました。
ウィキペディアによると、「みんなで歌えるように作った」とのことですが、真相はどうなんでしょうか。
阿部さんの考察、特に資本主義のくだりは共感できますね。
『売れるものなら どんなものでも売る それを支える欲望』
(浜田省吾の歌詞より)
支配する側も悪いが、支配される側にも問題ありだということ。
ここに気づくことが大切だと思います。
> ハリーさん
ブログをご覧いただきありがとうございます(^^)
私も以前からハリーさんのブログを楽しく、また様々なことをじんわりと感じながら読ませていただいております。
文章からハリーさんの優しさ、さらには五井野先生の気持ちや優しさを感じることができ、自分まで優しい気持ちにさせていただいております。
いつもありがとうございます。
「夢の中へ」について、ハリーさんのコメントにハッ!とさせられるものがありました。
歌には様々な角度からの解釈があって当たり前で、私の解釈は結局のところ一面的なとらえ方しかできていなかったように感じ、またそのとらえ方も我ながら恣意的なものを感じさせる内容だったかもしれません。
ハリーさんの解釈など、もう少し多面的なとらえ方が出来れば、その楽しみ方も変わってくるなぁ、と感じた次第です。
これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。
> wayfarer1953さん
ご指摘いただきありがとうございます。
私も調べてみましたが確かにそうでした。
となると、リンク先の解釈は真相ではなさそうですね。
先のハリーさんへのコメントでも述べましたが、解釈の違いにより様々な誤解が生じてしまう可能性があることの良い例となってしまいました。。。
wayfarer1953さんの考察もまた、井上陽水さんの気持ちに迫るものだと感じました。
自分たちが「夢」と信じて、国民総出で突き進んでゆく社会に対して、今一度その「夢」というものを見つめ直してはどうか?という問いかけ、という風にもとれますね。
> 支配する側も悪いが、支配される側にも問題ありだということ。
このあたりは私も本当に痛感しているところです。
これに関してもまた改めて考察しますね。
浜田省吾さん、私も大好きです(^^)
「僕と彼女と週末に」ですね。
浜田さんに限らず、社会の闇に迫る曲は数限りなくありますね。
私も歌の力を信じて、これからもがんばります(^^)
ありがとうございました!
> ローグローさん
いつも読んでいただきありがとうございます(^^)
一度離れて見つめ直す…まさにそれも大事なことだと感じました。
離れてまた別な角度から見つめ直すことが出来れば、また違った発見があるかもしれませんね。
私のとらえ方も他の人から見れば全然違う角度になるから面白いですね(^^)
頭良い→いろいろと考えることが先行、とするならば、頭なんて良くない方が良いですよ(笑)
自分は左脳優先で生きてきたので、相当苦労してます(^^;)
内から出てくる感情を大事にすることが、左脳人間からの脱却になると感じています。
みなさん、コメントありがとうございました(^^)