平時のときでも、緊急のときでも、奥の、奥へ。
時間は止まらず、止まるのは思考と行動。
改めて、こういったことに気づかされています。
というのも、こちらをご覧の皆さんも、仕事でも趣味でも何でも良いですが、何かをするとき、過去の経験や知識、または性格などから、あるところから思考や行動がストップする、ということがあると思います。
そのストップした段階が、ある人は「満足」、ある人は「不満」、ある人は「成功」、またある人は「失敗」、など名づけたりするでしょう。
また、感情についても同じように考えられます。
「怒り」や「喜び」、「恐怖」や「楽しみ」、など、感じているときは思考や行動がストップしているでしょう。
もちろん、「喜び」や「楽しみ」などのプラスの感情は、味わい深くていつまでも感じていたいものですが、「怒り」や「恐怖」というものは、感じたくないのにそれに支配されてしまう。
逆に言えば、感情に支配されているとき、人は思考からも行動からも離れてしまっている、と言えます。
例えば、今回の災害において如実に感じるのは、テレビの報道です。
津波の映像は何回見ても、恐怖や不安を覚えます。
実際に災害に遭われた方々がその映像を何度も見たら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を刺激されることは誰もがわかると思います。
それを知ってか知らずか、テレビ局各社は再三に渡って報道し、アナウンサーやコメンテーターはしかめっ面をするだけ。
普段からテレビを見ている人たちは、これが当たり前だと思ってしまってはいないでしょうか?
「テレビはそういうものだ」ということにしてしまえば、テレビから流されるものに、思考から感情から支配されてしまいます。
もちろん、良心的な内容の番組も数多くありますが、今回の報道(今回だけではないですが)に関しては、ひどすぎます。
タイトルを「奥の、奥へ。」としたのは、この部分です。
というのも、ここでさらに踏み込んで、「なぜこんな報道をするのか?」ということを考えてみてほしいからです。
そう思った人の考え方次第で、いろいろな答えになると思いますが、最初はそれでもいい。
自分で考えてみる、という最も大事な行為を、長い間放棄してきたことに気づくでしょう(自分も偉そうなことは言えないですが)。
自分がそのように考えた場合。
・なぜこんな報道をするのか?
→刺激的な映像が多いほうが、視聴者を多く得られるから。
<パターンA : 科学的サイド>
・なぜ刺激的な映像が視聴者を引きつけるのか?
→人々の脳は基本的に、良し悪し関係なく、強い刺激を求めるから。
・なぜ脳は強い刺激を求めるのか?
→そのほうが神経細胞の組織化が速やかに行われるから?→他者や書物へ。
<パターンB : 社会的サイド>
・なぜ刺激的な映像ばかり報道して視聴者を多く引きつけようとするのか?
→民放テレビ局は基本広告収入で成り立っているため、どんな手段を用いても視聴者を多く引きつけなければいけないから。
・なぜ手段を選ばないのか?
→優先順位の1位が広告収入(お金)で、国民を正しく導く、という大儀はないから。
・なぜ人の道や心ではなく、お金を優先させるのか?
→みんなお金が大好きで、お金で何でもできると思っているから。
・お金とは何か?
→…最大の疑問です。→他者や書物へ。
というように、奥へ、奥へと思考を巡らすと、ものごとはその人なりに核心に迫っていきます。
<パターンA>では科学的なサイドから、<パターンB>では社会的サイドからの検証となっています。
道は違えど、それぞれ追求していけば、みんな同じところに辿り着くと思います。
自分の知識の範囲を超えたところで、他者や書物に聞いてみる、というのが、至極自然な流れであり、健全な思考や行動を守る指針となると思います。
今までの自分もそうなんですが、最初のところで他者や書物で聞いたり読んだりしたりしてきたため、その最初に聞いた人や書物の影響を強く受け(いい加減に選んだ知識は、その後必ず矛盾に突き当たる)、そういうものってしっかりと頭に残らないんです。
頭に残らないと、次に思考するための道具とならないので、必ずいつか思考が止まります。
思考が止まったときに「わからない」「難しい」となってしまって、そうなると一枚上手の人々に簡単にコントロールされていまいます。
人からコントロールされるということは、潜在的に誰でも嫌なことなので、嫌な気分になることも多くなる。
そうならないために、このように「奥の、奥へ」思考、行動、ということが大事だと、改めて感じております。
このようなことは、例えば自分の仕事や興味のあることに対しては、皆さん自然と行っているはずです。
そうではない部分への関心に対しても、同じように考えてみてほしいです。
この記事をご覧になってから、この世界というものを試しに自分なりに考えてみる機会を持っていただければ嬉しいです。
時間は止まらず、止まるのは思考と行動。
改めて、こういったことに気づかされています。
というのも、こちらをご覧の皆さんも、仕事でも趣味でも何でも良いですが、何かをするとき、過去の経験や知識、または性格などから、あるところから思考や行動がストップする、ということがあると思います。
そのストップした段階が、ある人は「満足」、ある人は「不満」、ある人は「成功」、またある人は「失敗」、など名づけたりするでしょう。
また、感情についても同じように考えられます。
「怒り」や「喜び」、「恐怖」や「楽しみ」、など、感じているときは思考や行動がストップしているでしょう。
もちろん、「喜び」や「楽しみ」などのプラスの感情は、味わい深くていつまでも感じていたいものですが、「怒り」や「恐怖」というものは、感じたくないのにそれに支配されてしまう。
逆に言えば、感情に支配されているとき、人は思考からも行動からも離れてしまっている、と言えます。
例えば、今回の災害において如実に感じるのは、テレビの報道です。
津波の映像は何回見ても、恐怖や不安を覚えます。
実際に災害に遭われた方々がその映像を何度も見たら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を刺激されることは誰もがわかると思います。
それを知ってか知らずか、テレビ局各社は再三に渡って報道し、アナウンサーやコメンテーターはしかめっ面をするだけ。
普段からテレビを見ている人たちは、これが当たり前だと思ってしまってはいないでしょうか?
「テレビはそういうものだ」ということにしてしまえば、テレビから流されるものに、思考から感情から支配されてしまいます。
もちろん、良心的な内容の番組も数多くありますが、今回の報道(今回だけではないですが)に関しては、ひどすぎます。
タイトルを「奥の、奥へ。」としたのは、この部分です。
というのも、ここでさらに踏み込んで、「なぜこんな報道をするのか?」ということを考えてみてほしいからです。
そう思った人の考え方次第で、いろいろな答えになると思いますが、最初はそれでもいい。
自分で考えてみる、という最も大事な行為を、長い間放棄してきたことに気づくでしょう(自分も偉そうなことは言えないですが)。
自分がそのように考えた場合。
・なぜこんな報道をするのか?
→刺激的な映像が多いほうが、視聴者を多く得られるから。
<パターンA : 科学的サイド>
・なぜ刺激的な映像が視聴者を引きつけるのか?
→人々の脳は基本的に、良し悪し関係なく、強い刺激を求めるから。
・なぜ脳は強い刺激を求めるのか?
→そのほうが神経細胞の組織化が速やかに行われるから?→他者や書物へ。
<パターンB : 社会的サイド>
・なぜ刺激的な映像ばかり報道して視聴者を多く引きつけようとするのか?
→民放テレビ局は基本広告収入で成り立っているため、どんな手段を用いても視聴者を多く引きつけなければいけないから。
・なぜ手段を選ばないのか?
→優先順位の1位が広告収入(お金)で、国民を正しく導く、という大儀はないから。
・なぜ人の道や心ではなく、お金を優先させるのか?
→みんなお金が大好きで、お金で何でもできると思っているから。
・お金とは何か?
→…最大の疑問です。→他者や書物へ。
というように、奥へ、奥へと思考を巡らすと、ものごとはその人なりに核心に迫っていきます。
<パターンA>では科学的なサイドから、<パターンB>では社会的サイドからの検証となっています。
道は違えど、それぞれ追求していけば、みんな同じところに辿り着くと思います。
自分の知識の範囲を超えたところで、他者や書物に聞いてみる、というのが、至極自然な流れであり、健全な思考や行動を守る指針となると思います。
今までの自分もそうなんですが、最初のところで他者や書物で聞いたり読んだりしたりしてきたため、その最初に聞いた人や書物の影響を強く受け(いい加減に選んだ知識は、その後必ず矛盾に突き当たる)、そういうものってしっかりと頭に残らないんです。
頭に残らないと、次に思考するための道具とならないので、必ずいつか思考が止まります。
思考が止まったときに「わからない」「難しい」となってしまって、そうなると一枚上手の人々に簡単にコントロールされていまいます。
人からコントロールされるということは、潜在的に誰でも嫌なことなので、嫌な気分になることも多くなる。
そうならないために、このように「奥の、奥へ」思考、行動、ということが大事だと、改めて感じております。
このようなことは、例えば自分の仕事や興味のあることに対しては、皆さん自然と行っているはずです。
そうではない部分への関心に対しても、同じように考えてみてほしいです。
この記事をご覧になってから、この世界というものを試しに自分なりに考えてみる機会を持っていただければ嬉しいです。