小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・太田、高山彦九郎編

2015年12月13日 | 旅行記

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、今夜がついに最終回となってしまいました。
幕末、萩の松下村塾から始まり、吉田松陰~久坂玄瑞~高杉晋作をヒーローとして動乱の中を辿り、明治維新後、舞台は群馬となって楫取素彦にバトンが渡されてきたストーリーだったように思います。
心に残った松陰先生の言葉は「至誠(しせい)にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」
楫取素彦がヒロインの文(美和子)、寿姉妹とともに精一杯の誠意、真心を尽くして新しい時代を切り開き、新しい日本人を作ろうとしてゆく・・・その志にはいつも感動してきたドラマでした!

当ブログとしても今回は、「花燃ゆ」で語られてきたその「志」のルーツとなった吉田松陰、そのまたルーツとなった大先生がなんと群馬の人だったことを知り、吉田松陰のヒーロー=勤皇思想家・高山彦九郎を取り上げてみたいと思います。


高山彦九郎(たかやま ひこくろう 1744年~1793年)は江戸時代中期に上州新田郡細谷村(にったごおり ほそやむら)の名主の家に生まれた勤王思想家で、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与え、やがて明治維新を導く先駆者となった人物です。
写真は国道354号線、冠稲荷神社近くの「細谷町」の交差点を北上した、「彦九郎記念館前」の交差点付近にある「高山彦九郎宅跡」です。
高山家の祖先は鎌倉幕府御家人で、新田義貞に仕えていたそうです。奇しくも彦九郎は義貞公挙兵の5月8日に生まれたこと、少年時代は祖母から「太平記」を読み聞かされて育ったことも、その後の彦九郎の思想形成に大きな影響があったと考えられてます。
「太平記」の中で
南朝が後醍醐天皇を中心とした天皇親政を打ち立てることができなかったことには悲慷慨し、13歳で「太平記」を読破したのをきっかけに勤皇の志を持つようになり彦九郎の尊王思想は強まってゆきました。
また伊勢崎藩校学習堂の村士玉水(すぐり ぎょくすい)に儒学を学び尊王思想の影響を強く受け、村士玉水は彦九郎の師と言われてます。

18歳の時、彦九郎は家族に遺書としての置手紙を遺し天皇を慕って京都に旅立ち、その後は生涯を諸国を歴遊し勤皇の大義を唱えて歩く旅に過ごしたそうです。旅の中で公家、大名、儒学者、蘭学者、商人、農民と様々な階層の人々と交流をもち、天皇を中心とした政治体制復興のためのネットワークを築いていったそうです。
また
各地域のありとあらゆる情報を日記に詳細に渡り記録し、天明の飢饉に苦しむ人々の救済のためには独自の方法を思案してま
高山彦九郎とは尊王思想家というカテゴリーにとどまらず、よりスケールの大きい偉大な思想家、社会改革家であったというのが新しい視点のようです。彦九郎を研究されているある先生がおっしゃるには、「彦九郎の生き方を学ぶことです。四十七年の人生の大部分を、ただひたすら「経世済民(けいせいさいみん)」を目標において、国のため人々の幸せな暮らしのために、ひた向きに行動したことを知ることは大切であるということです。」ということでした。

写真は高山彦九郎記念館に展示されている彦九郎像です。これは等身大のブロンズ像でしょうか? 彦九郎は「寛政の三奇人」の一人ともいわれ、身長180cmはあったという当時としては大男で、諸国を闊歩する速度も速かったようです。
はじめて京都、三条大橋までやってきた時には感極まり、御所の方に向かって平伏したそうです。現在、三条大橋東詰にはその時の彦九郎の姿を現した
通称「土下座」と呼ばれる巨大な像があります。名物ブログ「ほぼにちパート2」さんのふるちゃんが次回、京都の「三条土下座前」でガールフレンドと待ち合わせする際には、ついでにこちらの彦九郎像の調査もよろしくお願い致します。


高山彦九郎の遺髪塚。並びに一族の墓所

寛政3年、彦九郎がひとたび拝謁を実現できた光格天皇が、父君への尊号の贈呈を巡って幕府との対立が深まっていた中、公家との接触を持っていた彦九郎にも幕府の警戒が及びました。翌年、尊王派の大藩であった薩摩藩を頼ろうと九州で活動していた彦九郎は一時、捕縛されます。
その後も幕府の監視を受け、寛政5年、彦九郎は筑後・久留米の儒学者宅を訪れ、そこで謎の自刃(じじん)を遂げています。

彦九郎亡き後、その遺志を継いだ同士も自刃し、また島原から来た儒医も久留米の彦九郎墓前で割腹します。その後も彦九郎を慕い傾倒する人々が次々現れ、彦九郎は勤皇の志士たちに取ってのヒーローとなってゆきます。 
嘉永4年に江戸遊学中だった吉田松陰は水戸藩士・会沢正志斎(あいざわ せいしさい)の著わした「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、今まで高山の事跡を知らなかったことを恥かしいことであったと言っています。
松陰は安政6年、「安政の大獄」で斬首刑に処される前に小田村伊之助(後の楫取素彦))に手紙を送り、その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記してます。
吉田松陰の号「松陰」とは、高山彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」から取っているとも言われてます。
そして松陰も亡くなり、この新田郡細谷村の彦九郎の墓所に
高杉晋作が訪れ、また久坂玄瑞も中岡慎太郎とともに訪れています。

時代は明治になって群馬県令となった楫取素彦は、呑龍様で知られる太田大光院近く小高い山・天神山に高山彦九郎を祀った「高山神社」の創建のために尽力します。
昭和7年、高山神社はリニューアルされ
優美な神明造の新社殿が造営されましたが、惜しくも昨年12月に火災により焼失しており写真を取れなかったのが残念です。


太田市立 高山彦九郎記念館入口
戦前は小学校の教科書にも掲載されていた高山彦九郎でしたが、現在は時代の中に埋もれほとんど忘れ去られた人物となってます。
彦九郎の故郷、太田市では高山彦九郎没後200年記念事業として、その人物像を現代的に再評価する機運が高まり、平成8年(1996)5月に太田市の施設として高山彦九郎宅跡と遺髪塚に隣接して高山彦九郎記念館が開館したそうです。


高山彦九郎記念館の中庭では夕陽も沈む頃、ししおどしの音が晩秋の庭に響き渡ってました。



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