小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

吟子の後半生・・・そして薔薇の花埋み

2019年07月21日 | 旅行記

荻野吟子記念館の見学後は昔のこの辺りの水運を偲ぶ渡船「赤岩の渡し」で利根川の向こう岸(群馬県千代田町赤岩)に渡りました。河川敷にある小屋の隣りに設置されている黄色い旗をあげると、向こう岸の小屋に常駐している船頭さんが渡船で迎えにきて下さいました。今日の利根川はあたかも湖のように静かで、船上では川風が涼しく動力船の音とともに旅情をそそります。吟子女史もよくこの渡しを利用したことでしょう。

 

荻野吟子生家長屋門。「赤岩の渡し」で群馬県側の千代田町赤岩に渡り、5分ほど散歩すると雑木林に覆われた名刹光恩寺の境内に、対岸の俵瀬村から移築された本物の荻野家長屋門が有形文化財として保存されています。江戸時代末期の建築で当時は藁葺きの屋根でした。明治十八年、吟子女史が東京湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業した年、荻野家はこの長屋門を売りに出し檀家の斡旋で移築されたようです。

 

吟子女史を偲ぶ「ロマンあふれる真実の道」を辿った旅の終わりは、道の駅めぬまにある「めぬまアグリパークバラ園」で飾りました。約400種2000株の素晴らしいバラ園の中に、凛として花々を見守るように吟子女史の石像が佇んでいます。渡辺淳一の小説「花埋み」のタイトルの意味は、亡き者を花々で囲み埋葬するという意味だったようです。

 

吟子女史のお膝元「めぬまアグリパークバラ園」で咲いていたバラをいくつか紹介したいと思います。まずはイングリッシュローズの「レッチフィールド・エンジェル」。花弁色がクリーミーアプリコットからやわらかいクリーミーホワイト色に微妙に変化してゆき、離れて眺めれば花々がまるで宙を舞う天使たちのようにも見えるというエレガントな薔薇。「レッチフィールド・エンジェル」とは、イギリスのリッチフィールド大聖堂で近年発見された8世紀ごろ石版画に描かれた天使のことです。

旧約聖書の詩篇九一篇に「主が あなたのために御使い(みつかい)たちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。」というみことばがあります。吟子女史の波乱に富んだ生涯もすべて神様の御手(みて)の中にあり導かれ、その険しい道を常に天使たちが守っていたに違いありません。


ハイブリッド・ティーローズ「バレンシア」。半剣弁高芯咲きの大輪に、その名の通りバレンシアオレンジのような鮮やかなオレンジ色を帯びた花色が特徴的です。1989年ドイツ、Kordes社作出。


ハイブリッド・ティーローズ「エリナ」。気品あるふくよかな大輪にさっぱりしたレモンイエロー色が、今日のような蒸す日にひときわ涼し気でした。「Elina」とは女性名に由来するそうで、世界バラ会議で殿堂入りを果たした薔薇のひとつでもあります。1983年イギリス、Dixon社作出。


「荻野吟子、日本初の公許女医」と聞いただけでは格好よく華々しい歴史上の人物にしか思えませんが、その生涯を一度紐解くとそれは決して幸福な生涯ではなく、どんなにか苦労して己の生涯を一生懸命に生きてきた切なくか弱い女性であったことがわかりました。

吟子女史が女性を救うための産婦人科荻野医院を晴れて開業してからも、世の矛盾や医術の限界に苦悩する吟子女史の姿がありました。以下「恵みのひとしずく」さんのブログからの引用です。https://www.shimizugaoka.com/blog1/2013/01/16/日本で最初の女医―荻野吟子/

「こうして夢をかなえた吟子でしたが、また同時に深い悩みを抱くようになりました。一生懸命に治療してやっと回復しかけたのに日本における女性の地位が低いために十分な療養ができず、再び病気がぶり返してしまう女性が多かったからです。吟子は医術の限界、人間の弱さ愚かさを深く知りどうしていいか分からなくなってしまします。

そんな吟子をある親しい友がキリスト教の演説会に誘いました。初めて聞いたキリスト教の話に、吟子は強い感銘と共感を覚えました。今の悩みを解決してくれる鍵がキリスト教の中にあるような気がしたのです。吟子は熱心に聖書を読み、次第に神に近づいていきました。そして明治19年6月に本郷教会において海老名弾正牧師によって洗礼を受けました。」


まるで吟子女史の情熱をそのまま現わしたような美しい真っ赤なつる薔薇「ダブリンベイ」。1969年ニュージーランド、 McGredy作出。「Dublin Bay」とは、作出者の故郷アイルランドにある綺麗なビーチリゾートのようです。

明治二七年(1894年)吟子女史は北海道に渡り再婚した夫、志方之善(しかたゆきよし)たちが開拓を始めたキリスト教の理想郷「インマヌエル」に迎えられます。インマヌエルとは、聖書で「神われらと共にいます。」といった意味です。しかし彼らの開拓事業は未開の原野を一から開墾するという、北海道の厳しい自然と闘いながらの過酷で困難を極めました。吟子女史はインマヌエルを離れて瀬棚(せたな)という漁村で医院を開業します。また瀬棚日曜学校を創設してこの地にキリスト教が浸透してゆきました。一方、牧師となり瀬棚村に入った夫はこれからという時に病いに倒れ、夢破れて42歳の若さで天に召されてしまいました。それから3年後の明治四一年(1908年)、吟子女史は一人東京に戻り、本所に小さな家を借り荻野医院を再開。その後は近所の人たちのための親切な医者として、聖書を手に神と共に静かな最後の数年を送りました。

大正二年(1913年)六月、吟子は63歳で天に帰りました。この世では苦難多き波乱万丈の人生でしたが、吟子女史の果たした人々のための献身と奉仕の生涯は、神のもと天国で報われ輝く栄光の冠が与えられたことでしょう! 彼女は今はきっと天国のめくるめく光の中で花々に囲まれ、夫と共に、神様と共に平安で幸せな毎日を過ごしています。

今回、私はほんのわずかだけ吟子女史の足跡を辿っただけでありますが、吟子女史のお働きに感謝とともに僭越ながらこの聖書の言葉を捧げます。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」テモテへの手紙第二 四章六~八節

 


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