小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・萩、吉田松陰編 お正月スペシャル

2015年12月26日 | 旅行記

クリスマスが終わって、ホームセンターとかではお正月の松の飾りなどが並ぶようになりました。
「松」と言えば、大河ドラマ「花燃ゆ」群馬編の中では、県庁内に置かれた松の盆栽、臨江閣の壁に描かれている松の絵といったように、セットにさりげなく松が配置されてました。これは群馬県の木は黒松だということで、松がさりげなく群馬をイメージする美術の方のアイデアだそうです。


臨江閣本館前庭の松。
ところで、今回の当ブログの「花燃ゆ」の旅は、「萩、吉田松陰編」と題しましてちょっと群馬から離れてみたかったところですが・・・なんせ旅費も暇もない分際なので、35年ほど前だったでしょうか、高校生の時に山口県を旅行した時のことを思い出しての記事になります。(汗)
高校2年の夏休みを利用した山口県への旅行は、松下村塾、海辺の美しい萩城址をはじめとした萩の町、高杉晋作挙兵の攻山寺のある下関、他に防府、山口等、主に幕末~明治にかけての史跡を巡って来たように思います。復活したSL「貴婦人号」に乗車したのも楽しい思い出になりました。
一緒に行ったのは旅行仲間のH君でしたが、いつも自分勝手な行動をとる小生を見捨てないで同行してもらえて感謝でした。
彼は旅費を稼ぐバイト中から、吉田松陰と高杉晋作を主人公とした司馬遼太郎の「世に棲(す)む日々」をすでに読んでいました。

H君は現在、防衛庁の高級官僚と言えばいいのでしょうか、あるサイトの「日本の防衛産業は鎖国から開国へ」なんていう特集記事で、H君が我が国の防衛装備行政のキーマンとして軍事ジャーナリストのインタビューに答えてました。防衛大臣とともにあるH君(いや、こうなるとH君なんて呼べません!H氏ですね。)の写真も掲載してありました。
一緒に旅行してから35年を経て、まさに彼は勝ち組、小生は負け組の代表選手となったわけです。
しかし、偉くなる人は高校生の当時からどこか違ってました。小生が当時、吉田松陰をヒーローとして思っても、それはウルトラマンや仮面ライダーに夢中になる程度の次元でしたが・・・今を思えば彼は、黒船来航の脅威の中に強烈な危機感を覚えた松陰の憂いを、国防を、攘夷をすでに意識しながらの旅だったのではないかと思います。

小生は今になっても「吉田松陰」とは何だったか?と、思いを巡らしています。
現在は個人的に吉田松陰を信奉しているわけではありませんが、このブログで一度は松陰について書いてみたいと思ってました。
もちろん松陰についてすべて解ったわけでもなく、解るような脳味噌もない者ですが、小生なりに解ったことから書いてみたいと思います。
実際は多くのサイトやブログ記事からのフレーズを引用させて頂いて、自分なりの吉田松陰論をまとめたノートだと思ってください。

吉田松陰と言えば、何と言っても萩の「松下村塾」で若者たちに教え、多くの志士たちを育てたことがあげられます。
その中身は、山鹿流(やまがりゅう)兵学の軍事技術、地理学、孟子の教え、異国事情、世界史、そして日本のビジョン・・・等々、様々を語り、それは
2年余りの短い期間でしたが、「志をもて、良き友とそのために行動せよ、本を読め」と熱心に教え、自分の信念を熟生たちにぶつけ、彼等の心は強く揺すぶられ惹きつけられてゆくのでした。脱藩、密航と「志」を実行してきた有言実行の人= 松陰ですから、自分の生きざまで人を感化させる師の言葉は説得力も強かったことでしょう。「松下村塾」でのこうした彼らの体験が、「明治維新」の原動力となっていったことが素晴らしいと思います。
すなわち松陰は「明治維新」の精神的な指導者・理論者になったわけです。

松下村塾の建物の中には久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった、そうそうたる幕末維新の志士たちの写真が飾られてました。
蝋人形で松陰の生涯を再現した「吉田松陰歴史館」では、官軍のトコトンヤレ節♪のBGM流れる中に、等身大の彼等と遭遇して胸躍る気持ちになったのをよく覚えています。彼等と一緒に撮った記念写真もありましたが、高校時代のネガや写真はすべて処分してしまったのが残念です。

吉田松陰の思想は、尊王思想を集大成し幕末志士の精神的支柱となった「大日本史」で名高い水戸学を基盤として、松陰独自の思想を構築していったそうです。
一言で言うなら「尊王攘夷」の思想が、松陰の思想の中心でありました。

ここでちょっと、「尊王」と「勤皇」という用語が紛らわしいので整理しておきます。
「尊王」(そんのう)とは、精神的に天皇を尊ぶことで、幕府も持っていた思想でもあります。それに対して「勤皇」(きんのう)とは、天皇のために具体的に行動すること。天皇親政を目ざして政治行動することのようです。
「攘夷」(じょうい)とは、夷適(いてき)を攘(はら)う。つまり、野蛮な外国を追っ払うという意味でした。

松陰の思想の特徴について、ブログ「いり豆 歴史談義」さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200605130000/
から抜粋して引用させて頂きます。

1)一君万民思想
水戸学は「幕府への忠誠は即ち天皇への忠誠」とする幕藩体制を前提とした尊王論です。松蔭も最初これを受け入れていましたが、やがてここから脱却します。外圧をはじめとする危機的状況の中で松蔭がたどり着いたのは「この国難に立ち向かい国事に尽くすにあたっては、貴賎の隔てはない。天皇の下では皆が等しく王民である。」
とする思想・・・一君万民思想でした。
これは、身分の差を破った"国民"意識を打ち出したもので、松蔭の思想が持つ普遍性はここにあるといえるでしょう。封建制を打破する平等思想・・・しかしそれは天皇への信仰的な崇拝をテコにして成立したという側面もありました。
後世の歴史を考えた時にその可否は如何という問題は残ります。しかし、この時代において次のステップへ進むための革命思想であったといえるのです。

2)条件つき討幕~草莽崛起論(そうもうくっきろん)
松蔭は藩を通じて幕府に改革を働きかけ幕府を諌め、これが受け入れられない時討幕に踏み切るという立場をとりました。
しかし井伊直弼の違勅による条約締結に対して反発、松蔭は行動を始めます。”討幕に決起すべし”という建策を長州藩に相次いで提出。
公卿を長州に招致し、藩主と討幕挙兵の打ち合わせをさせる計画。老中間部詮勝を暗殺する計画、これを長州藩の家老にも話をして支援を求めます。ここでついに、藩は松蔭を再度投獄します。
久坂玄端や高杉晋作等弟子たちは、現況から松蔭に自重を求めました。しかし松蔭は”徳川を滅ぼさないと外夷に滅ぼされてしまう。尊攘の機を逸してしまう”といい、藩や幕府に依拠したことは誤りであった、野にあって志を同じくする人々の決起=草莽崛起により新しい権力形態を作り出すしかないと獄中から訴えます。
松蔭の死後、弟子たちはこの草莽崛起を実践し討幕勢力を結集していくことになるのです。

3)開国攘夷論
松蔭の本質は開国論者でした。佐久間象山(さくま しょうざん)のもとで洋学や西洋事情を学んだ彼は、西洋諸国の進んだ文明・その強力な武力についてしっかりと認識していました。
”開国して西洋と対等の力を付けつつ、しかし西洋人が不法な脅しや欺瞞に出た時は果敢にこれを打ち払う独立の気概を持たなければいけない。”というのが松蔭の考え方です。

これら松蔭の考え方は明治維新を成し遂げた中核的な考え方でありました。松蔭の弟子たちは、こうした思想を受け継ぎ実践していきました。



安政5年(1858年)、幕府の井伊直弼(いい なおすけ)大老が勅許(ちょくきょ、天皇の許可)を得ずに日米修好通商条約に調印し開国を断行してからの松陰の言動は、ラディカルに(急進的に)、行動は過激さを増していったようです。老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画はじめとした過激な政治工作を次々にはかり、松陰は野山獄という萩の監獄に置かれながらも、久坂や高杉ら塾生たちにテロの実行を要請してゆくのはカルト宗教の教祖のようです。尋常ではない無茶なこれらの計画に塾生たちは戸惑い、小田村伊之助(おだむら いのすけ、後の楫取素彦)とともに師に思いとどまるように促しますが、松陰は彼らに絶交状を送りつけてしまいます。

日本史で学んだように黒船来航以来、「砲艦外交」とも言われるように幕末の日本には「開国」という欧米諸国の要求が突き付けられ、待ったなしの厳しい事態でありました。すでにインドや中国は、列強帝国主義の侵略に侵され半植民地化され、日本にしてもうかうかしていれば列強の餌食にされてしまうという危機感を、世界情勢を知る松陰たちのような見識者は解っていたわけです。
すでに幕府には、この危機的事態を乗り切る力を失っていました。
「外国から日本を守りたい!今こそ、ここで誰かが立ち上がらねば!」という強い危機感と使命感は、手段を選ばないテロ計画となり、松陰を極めてラディカリズムの方向に走らせていったのだと思われます。
もはや多くの人の血が流れても、革命的に世の中を変えなくてはならない!という方法しかなく、松陰は必死だったのでしょう。
最終的には、約250年に渡る鎖国政策の中で腐敗、弱体化した幕藩体制を一掃しなくては、「近代」という新しい時代を迎えることはできませんでした。
「花燃ゆ」のドラマの中でも、黒船を自分の目で見てきた兄・松陰が妹・文に語るこんなセリフがありました。
「自分の人生を、自分の命を何のために使うか?兄はいつもそのことを考えておる。俺は日本国の危機を知ってしもうた。皆、その危機に気付かぬ。気付いても動かん!じゃから俺が動く。」

吉田松陰の功罪。今回はそれも小生なりに暗中模索する毎日となりました。
現代の日本人にとって、吉田松陰のやったことは本当に良かったのだろうか?という懐疑を持ったり、冷静になって考えたりです。
松陰と塾生たちの過激な政治行動、暗殺計画、破壊行為、恐喝。それら事態はいいはずありませんが・・・。
まず一つ言えるのは歴史の中で、もし松陰が、高杉が龍馬がいなかったら、すなわち明治維新は起こらずに日本が欧米列強の植民地とされていたらと考えると、当たり前ですが日本近代史はまったく違ったものになるはずです。
(或いは、その方が後の時代に起こってゆく韓国併合、満州事変といった日本の侵略行為もないわけで良かったのかもしれませんが・・・。松陰も欧米列強に対抗するには、日本も同じように帝国主義になるしかないという考えだったようです。)
もし吉田松陰がいなかったら?と思うと、明治、大正、そして昭和という時代もない西暦1964年に、小生はどのような世の中に環境に生まれたのだろうか? 独立国家であっても恐らく発展途上のその社会に、「平和憲法」「信教の自由」はあるのだろうか?・・・。といろいろ想像してしまいます。
しかし、過去の歴史を誰一人、変えることはできません。

松陰の行動が原動力となった明治維新により誕生した近代国家=大日本帝国。
後の「大東亜共栄圏」はじめとするその対外戦略は、松陰の「幽囚録」(ゆうしゅうろく)の中に記述されている侵略構想をもとにして忠実に実行しているようです。そしてそれは、悲劇の歴史となったことは言うに及びません。
しかし、松陰が近代日本帝国主義のイデオローグ(創始者)として魔のレッテルが貼られようと、昭和のファシズム化した軍の暴走がどんな過ちを犯そうと・・・少なくとも安政5年に生きていた吉田松陰は、純粋に日本の国を民を守るために自ら犠牲となって立ち上がったのだと思います。
本当の悲劇の歴史の創作者は、明治維新以来、天皇制の背後に潜んで日本の国を動かしていたサタンの仕業でありました。
日清、日露、第一次世界大戦と、初めは儲けさせ客(日本軍部)に賭博の甘い味を覚えさせ、それからは逆転して客の金を取り始めてゆく、サタンはまるでプロの賭博師のように・・・。賭博の味を覚えてしまった客は、負けても負けても再度挑戦して迷走し、そして戦後の焼け野原のように最後に全財産を失ってしまったわけです。


安政6年、松陰は萩の野山獄より江戸へ護送用の籠に入れられ送還されることになりました。街道上で萩の城下が見えるのが最後になる「涙松」という場所で、松並木の間に見え隠れする故郷(ふるさと)・萩を見返したそうです。その時、松陰がもう二度と故郷に帰ることができないと覚悟して詠んだのが・・・

「かえらじと思いさだめし旅なれば 一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」という悲しみの歌でした。
江戸に着いた松陰は、大老・井伊直弼による反対派(尊王攘夷派)に対する過酷な弾圧、「安政の大獄」の中で刑死してます。
享年、30歳の若さでした。

「涙松」の歌はH君とともにひときわ感銘を受け、その時の松陰の痛切な心情を思いつつ、萩旅行中はそれをたびたび口ずさんでいました。

旅行から帰ってよく思っていたことは、吉田松陰と、主イエス・キリストの生涯がどこか似ているということでした。
先日見た、あるブログでも二人の共通点として、二人とも30歳前後でこの世を去っている。裁判の後、キリストは十字架で、松陰は斬首というように二人とも処刑されている。何れもその死が弟子たち(キリスト教の使徒たち、維新の志士たち)を目覚めさせ、自らの「志」を実現してゆく・・・といった具合です。
そして忘れてならないのは、二人とも、世の人々が新しい時代、世界の中を歩んでゆけるように、自らが犠牲となっているという点です。
「花燃ゆ」のテーマにもなっていた松陰の座右の銘、「至誠(しせい)にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」というのも本当にいい言葉だと思いました。真心を尽くすということ、絶対あきらめないで誠心誠意、人に尽くしてゆけばどんな人の心も動かされるということを生涯のモットーとして生きた吉田松陰、そして楫取素彦。
ドラマの中で、誠実な二人が「誠」の中に生き生きと生きている姿にとても感動を覚えました。

H君とはこの山口旅行の後、春休みに北海道一周旅行をしました。山口から脱線しますが、この旅行についても一緒に書きとめておこうと思います。
北海道の大地は、今まで旅した地方とはやはり違って大きなスケールでした。国鉄・江差線(えさしせん)の駅から歩き出して一直線の並木道の奥、遠い丘の上に見えたトラピスト修道院。二人で、ベートーベンの田園交響楽、最終楽章をハミングしながら広い大地を歩きました。
日本最北端の宗谷岬では、遠くにソビエト連邦が実行支配していた樺太が見え「北の脅威」を感じました。
夜行列車での車中泊がほとんどの旅で、ある朝、列車はオホーツク海沿いの駅に停車しました。(この鉄道は現在は廃線になっているようです。)駅の周りは何もなくどこを見ても雪に覆われた風景でしたが、時間があったので丘の上まで行って海を見てみようということになりました。ホームから降りて線路を横断し、雪を踏みしめ海を目ざして歩きます。
丘の上にたどり着くと、目の前は青い空と、朝日に輝く白い流氷が果てしなく広がるえも言われぬ風景でした!! 
これが小生の今までの生涯で見た風景の中で、最も雄大で美しい風景だったんじゃないかと思います。きっとH君にしても、若き日に見たこの流氷の風景は生涯忘れられないことでしょう。
もう一つ、函館山からの夜景も綺麗でした。ライトアップされた函館ハリストス正教会の「主の復活聖堂」も下に見えました。
その後、函館の街のレストランで食事をしたのですが、スープの最後の飲み方を教えてくれたH君の姿が今でも思い浮かびます。
函館では五稜郭も二人で訪れています。官軍と旧幕府軍の戊辰戦争(ぼしんせんそう)最後の戦いの地までやって来たわけですが、前年訪れた遥か遠くの萩の町や吉田松陰、高杉晋作もとても小さく感じました。

北海道旅行を終えてからは、今までよりも精神的に大らかな気持ちをもてるようになれました。
その年の夏休みの終わりに、小生はイエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れ、クリスチャンになりました。
主イエス・キリスト様は罪なきお方、神様であられるのに、小生を罪から救うために小羊の如く十字架にかけられ死なれました。そして主は、3日目に死からよみがえり復活をとげています。それを信じたクリスチャンは罪から解放され、イエス様が復活されたように死後によみがえり、天国で暮らせる永遠のいのちが与えられます。
イエス様を信じる確信となった聖句は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(新約聖書、コリント人への手紙 第二 5章17節)でした。
古いものは過ぎ去って、すべてが新しく・・・それは春のオホーツク海沿岸で見た、神様により創造された流氷の目くるめく風景のような、天上の世界を見るかのようでした。

一方、吉田松陰は萩と世田谷の松陰神社、九段の靖国神社に祭神として祀られています。明治維新のカリスマ、神格化された「松陰」・・・。
小生がクリスチャンになってからも、H君は小生の家にたまに遊びにきてくれました。一度だけクリスマスに教会に来てくれたこともありました。
ある日、小生が当時通っていた教会が所属している教団に、牧師たちを中心とした「信教の自由を守る会」という会があることと、首相、政治家の靖国神社参拝の問題や、政治が右傾化しやがて軍国主義になってゆくといったようなことをH君に話したことがありました。その時、彼は「そんなの大袈裟だよ!そんなの気にすることない!」と言って急に不機嫌になりました。そういった会には反発していることが伝わってきて、その日は、はじめてH君の政治的なスタンスを垣間見た思いでした。

その後、彼と最後に会ったのは今から28年前、御茶ノ水の街で交流をもった時でした。
それから二人の若者は、それぞれ別の道を歩んでいったのでした。


そして現在、H君はもう小生のことは忘れてしまったかも知れません。しかし小生は、今も彼の祝福を静かにお祈りしています。
 

 


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・前橋編 その二 ☆クリスマススペシャル☆

2015年12月22日 | 旅行記

大河ドラマ「花燃ゆ」の最終ステージとなった明治編は、ヒロイン美和と楫取夫妻の向かった新天地、「群馬」が舞台の中心となる物語でした。
明治編放送前までは、大河ドラマでどのように明治維新後の「群馬」が描かれるのか? 群馬県民としては興味津々ずっと気になってました・・・。
ここで、またまた「上毛かるた」ですが、「ま」の読み札と言えば「(群馬県は)繭と生糸は日本一。」です! ついでに今回も前橋編なので「県都、前橋糸の町。」というのもありました。
そのように幕末から明治、近代に至っての群馬県は「シルクカントリー」と言われるように、どこへ行っても蚕の餌となる桑の葉を作る桑畑と養蚕農家。蚕の作った繭から生糸を紡ぐ製糸場が造られ、そしてその生糸は欧米に輸出されたり、或いは綺麗な織物になってゆきました。

「花燃ゆ」明治編に中で描かれた明治の群馬も、まさに「シルクカントリー群馬」の世界だった言っていいほど、予想以上に養蚕業や製糸にかかわる内容になっていたのが素晴らしいです!!
2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が晴れて世界遺産に登録されたという経緯もあり、さすがNHK、群馬県の誇る世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」を、かなり意識したシナリオになっていたというのも嬉しかったですね~。

「富岡製糸場と絹産業遺産群」につきましては、当ブログでも2014年6月~7月にかけて記事に取り上げてますので、バックナンバーをぜひご覧ください。
富岡製糸場と言えば、明治14年前後に明治政府は財政軽減のため民営化を計画し、もし民営化がうまくいかない場合は廃場する方針を打ち出しました。それを受けた群馬県令・楫取素彦は反対意見書を政府に提出して、製糸場の存続が守られたというエピソードも「花燃ゆ」のドラマになってました。
また富岡製糸場の三代目、五代目の所長を務めた器械製糸の先駆者・速水堅曹も、楫取とともに富岡製糸場を廃場の危機から救っています。


藩営・前橋製糸所跡の碑
写真は明治5年開業の富岡製糸場にさきがけて、明治3年には開業していた日本で最初の機械製糸場、前橋藩営・前橋製糸所跡の碑です。
前橋製糸所は激増する生糸需要とそれに伴い発生した粗製乱造をただすため、前橋藩主の命を受けた速水堅曹と深沢雄象が創設しました。


晩年の速水堅曹(はやみ けんそう 1839年~1913年)


キリスト者でもあった 深沢雄象(ふかさわ ゆうぞう 1833年~1903年)
(速水堅曹と深沢雄象の写真は「上毛新聞社 シルクカントリー群馬」さん http://www.jomo-news.co.jp/silk/ より引用させて頂きました。) 

 
この二人の藩士は天保年間に川越藩士の家に生まれ、藩主の松平家が前橋藩に移封とともに前橋に移り前橋藩士となっています。
速水堅曹はスイス人技師C・ミューラーから器械製糸技術を学び、日本最高の製糸技術者の地位を築いています。全国への器械製糸の普及にも貢献し、製糸業の技術スペシャリストとして大活躍だったそうです。
前橋製糸所跡の碑は前橋市街地内の国道17号線を北に向かい、広瀬川の橋を渡ってすぐの住吉町一丁目の交差点にあります。

「花燃ゆ」のドラマの中で楫取素彦が富岡製糸場を訪れた際に出会った青年実業家・星野長太郎は、水沼製糸場の設立準備のために、前橋製糸所で自ら伝習を受け速水堅曹から器械製糸のスキルを習得しています。(星野長太郎と水沼製糸場につきましては、当ブログ「花燃ゆ」の旅・桐生黒保根編で詳しく紹介させて頂きました。)


前橋機械製糸場跡近くに残る「旧安田銀行担保倉庫」
大正2年に建築され、主に生糸を保管したという大規模な倉庫。「県都、前橋糸の町」の歴史を伝える貴重な近代化遺産で、「ぐんま絹遺産」にも登録されています。


前橋機械製糸場付近を流れる広瀬川。
前橋は今も「水と緑と詩の街」とも言われるように、古くから水が豊富で繭の調達が容易であったことから多くの製糸場が造られました。「MAEBASHI」と記された生糸がヨーロッパを中心に輸出され町は繁栄しました。
藩営・前橋製糸所も広瀬川の水を、水車による動力源としていたそうです。



広瀬川美術館
前橋は詩人・萩原朔太郎の故郷でもあり、広瀬川畔の緑豊かな遊歩道には多くの詩碑や文学館、美術館があり、市民の憩いの場となってます。


日本聖公会・前橋聖マッテア教会
広瀬川から群馬県庁方面に向かって散策すると、こんな素敵な教会堂と出会うことができます。こちらの前橋聖マッテア教会では、「ALWAYS 三丁目の夕日’64」で、六ちゃん(堀北真希さん)の結婚式シーンの撮影が行われたそうです。

聖マッテア教会の界隈には、プロテスタントの教会、正教会(せいきょうかい)、通りを南に下るとカトリック教会といった昔から四つのキリスト教会があります。この通りは前橋のチャーチストリートでしょうか。
群馬県の近代史の二大象徴は、「養蚕・製糸」と「キリスト教」にあると言われるほど、キリスト教は多くの群馬県人によって信仰され心の拠り所となっていました。
特にアメリカから宣教師として帰国した新島襄と、内村鑑三のキリスト教思想は、封建制度が残されていた社会の近代化と民衆の心に決定的な影響を与えたようです。
当時の群馬県内のキリスト教会は、新島襄系の組合教会派の教会が、安中教会を皮切りに県内各地に次々と創立され、一方、ロシア正教修道司祭ニコライの布教活動により、星野長太郎、深沢雄象らの製糸所で働く工女をはじめ多くの人々が受洗に導かれ、水沼村、前橋、高崎に日本ハリストス正教会の説教所や教会ができました。
現在、伊勢崎市の一部となっている島村地区でも、明治初期に蚕種輸出のために横浜の外国人商館に出入りしていた蚕種業者たちが、キリスト教と出会いメソジスト系の島村教会を創立してます。
(島村から蚕種の直輸出のためヨーロッパに旅立つ田島弥平(たじま やへい)たちに、楫取素彦は渡欧費などを協力し送別会も開きました。)
上記の他に明治になって県内に誕生したキリスト教会は、様々な教派母体で成り立ち、いずれも前橋は群馬伝道の活動拠点だったそうです。

明治新政府にとっては治めづらい「難治」の県と言われた群馬の荒々しい県民性、人心を、やすらかならしめたいと願い、楫取夫人の寿(ひさ)さんが、前橋に浄土真宗の説教所を開き念仏の教えを広めようとしました。しかし当時の群馬県人は、浄土真宗よりもキリスト教に関心を示し積極的に受容しました。
群馬でのキリスト教の広がりを目の前にした寿さんは、「外国の教になびく人の出来候も、この御法の有りがたき事を知らぬ故なれば」と語ったそうです。

また楫取県令により明治15年に開校した群馬県女学校は、楫取が県令を辞して群馬を去った後は財政難を理由に廃校になってました。
明治21年に女子教育の重要性を思うキリスト教会有志たち、深沢利重(深沢雄象の娘婿)、安中教会の湯浅治郎、同志社熊本バンド出身の不破唯次郎(ふわ ただじろう)らの協力によって、前橋英和女学校が開校し現在の共愛学園の前身となっています。


前橋ハリストス正教会・聖ニコライ聖堂
聖マッテア教会のある通りから少し東に入った所に、エメラルドグリーンの屋根の綺麗な真新しい前橋ハリストス正教会・聖ニコライ聖堂が建ってます。
ハリストス正教会の教会堂はお茶ノ水駅界隈にあるニコライ堂、函館ハリストス正教会の「主の復活聖堂」が建築物としても観光地としても有名ですが、いずれもこのような色の屋根をしていたように思います。ハリストスとはキリストという意味です。
ここ前橋ハリストス正教会は明治11年に旧前橋藩の士族たちによって設立され、翌年にはニコライ大主教により、深沢雄象をはじめとした士族と製糸工場で働く工女たちに洗礼が施されました。製糸工場だけでも、40~50名の工女が信者だったというから驚きです!

幕末に遡り、慶応3年(1867年)、深沢雄象は川越藩から前橋藩に移封となった藩主・松平直克に従い前橋に移り、町奉行となり、速水堅曹とともに藩財政の安定化のため輸出生糸の品質向上に取り組みました。
明治になって前橋製糸所を創設すると、雄象は参事として前橋藩の責任者。堅曹は生糸取締役として実務・運営責任者にそれぞれ任命されました。
廃藩置県の影響で、前橋製糸所は操業わずか2年で他人の手に渡ってしまいましたが、雄象は再び堅曹、星野長太郎らとともに新しい製糸会社を立ち上げています。
雄象は清廉潔白な武士道精神で製糸業に取り組み、生糸の品質向上による国益増進を目指しました。しかし生糸の品質向上よりも、目先の利潤ばかりを追求しそれを快く思わなかった生糸商人たちによる圧力がかかってきます。
そんな商人たちとの競争に苦しみ心が傷ついていた時、雄象は前橋に布教にやってきたニコライと出会うことになりました。
かつては藩の大目付としてキリスト教を厳しく取り締まっていた雄象は、ニコライの出方によっては一刀両断にする考えでしたが、ニコライはそんな雄象の心をやさしく包み込み、真理の教えに導いてゆきました。

「前略 今般ハイヨイヨ ニコライ神父御出張ニテ、今朝洗礼無事相済ミ、大イニ安心仕マツリ候。」といった手紙が、現在も前橋ハリストス正教会に飾られているそうです。これはニコライから洗礼を受けた日に深沢雄象が、その喜びを星野長太郎に伝えた手紙です。
その後の雄象は、キリスト者、宗教家としても伝道に努めました。それは新約聖書でクリスチャンを迫害していたパウロが、復活したイエス・キリストと出会い改宗し使徒となっていったかのようです。
また製糸会社でも「良心的な経営に努め、工女に土曜の夜と日曜の朝に説教を行った。雄象らの精力的な布教で、正教は製糸法とともに各地に広まった。」(ウィキペディアより)ということでした。
雄象が受洗してから、2年後には群馬県内のキリスト教信者は540人(前橋278人)に達したそうです。

深沢雄象については「絹先人考」というサイトの「ぐんまルネサンス」第2部のページを参考にさせて頂きました。
最後に、「絹先人考」から引用させて頂きます。
〈一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ〉
(深沢雄象の)長女の孝(こう)は聖書の言葉を引用して、雄象の功績を「一粒の麦」に例えた。器械製糸の種は伝習生によって運ばれ、水沼製糸や福島県の二本松製糸、九州の熊本製糸などに結実した。キリスト教も同じように伝習生らに運ばれ、各地に根を下ろした。
ひ孫の深沢忍さん(83)=前橋市関根町=の手元には、ボロボロになった雄象の聖書が残っている。


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・前橋編 その一

2015年12月20日 | 旅行記

今回の群馬「花燃ゆ」の旅は、船津伝次平のふるさと富士見町から赤城山の裾野を下って、前橋の街にやってきました。
前橋の「花燃ゆ」ゆかりの地はすでに最初の「群馬編」で紹介してますが、今回はその時、見落としていたスポットを中心に訪ねて参りました。


前橋市役所前に建つ下村善太郎翁像
下村善太郎(しもむら ぜんたろう)は生糸貿易商を営む前橋の有力者で、初代前橋市長でもありました。
群馬県庁を高崎から前橋へ誘致する運動ではその中心となり、物心両面から県政を支える下村たちの熱意、至誠に楫取素彦は心動かされ県庁移転を決意したと言われます。
また楫取県令とともに日本鉄道の、前橋までの延伸も実現させました。
「花燃ゆ」で江守徹さん演じる地元の名士・阿久沢権蔵は、下村善太郎がモデルとも言われてます。


群馬県庁南の住宅街の中にある清水寺(せいこうじ)。
優香さん演じる楫取夫人・寿(ひさ)さんが、群馬の地が念仏不毛の地であることを憂い、人々の心の安堵のためにと開いた浄土真宗(本願寺)の説教所が前身となったお寺。
寿さんの遺書などを所蔵しているそうです。この日はお寺で法事があったのか境内は車でいっぱいでした。


臨江閣(りんこうかく)本館玄関

臨江閣は明治17年、楫取素彦の提言により下村善太郎はじめ地元有志たちの募金により誕生した迎賓館です。和風木造、数寄屋風建築の風情ある本館主屋部分は創建当時の面影をよく残しています。
同年に楫取が群馬県令を辞して群馬を去る際には、楫取と美和のために完成間近の臨江閣本館で盛大な送別会が開かれたそうです。
明治26年に明治天皇の行幸の際には、行在所として使用されています。


臨江閣本館 玄関題額「臨江閣」の揮毫(きごう)は楫取素彦によるものだそうです。

 




臨江閣本館より別館を望む。
別館は貴賓館として明治43年に完成し、大広間をもつ大公会堂として利用されてきました。
また本館前の立派な松のお庭も綺麗です。
私のかようキリスト教会の牧師先生のご両親は、昭和30年代に臨江閣で結婚式を挙げられたそうです。しかも、お父様は当時、群馬県庁の職員さんだったというから素晴らしいです!


夕陽に染まる臨江閣・茶室

臨江閣本館奥にあるこちらの茶室は、地元有志たちの「至誠」の心で募金が集まり臨江閣が建設されたことに感激した、楫取素彦はじめ県庁職員の募金により建設されました。


茶室内部

茶室の建築は京都の茶室大工・今井源兵衛の手による草案茶室で、こちらの京間四畳半の茶席はじめ、わびに徹した造りになっているそうです。
茶室は臨江閣が平成20年に全国都市緑化フェアの会場になった際、楫取素彦の号をとって「畊堂庵」(こうどうあん)と命名されました。


臨江閣別館前の庭に建つ「星野(長太郎)翁碑」

星野長太郎(ほしの ちょうたろう)は桐生編でも紹介しましたように、水沼製糸場を創業し弟、領一郎とともに生糸のアメリカ直輸出を行ない、群馬のシルクを世界に広めた人物です。
初代県会副議長も務め、「花燃ゆ」の中でも大東駿介さん演じる情熱的な星野長太郎が、楫取のよき協力者として活躍してました。


「星野翁碑」の題額(題字)を書かれたのは、長太郎の弟、新井領一郎の孫、ライシャワー・ハルさんのもう一人の祖父、松方正義によるものでした!


西南戦争の後、楫取は臨江閣南の前橋東照宮において、戦死した群馬出身の兵士のために盛大に招魂祭を行いました。またその功績をたたえ境内に招魂碑を建立してます。


前橋東照宮の境内に建つ前橋招魂碑
楫取素彦の撰文したこの招魂碑は番組終わりの「花燃ゆ紀行」でも紹介されました。

 


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・前橋富士見、船津伝次平編

2015年12月17日 | 旅行記

大河ドラマ「花燃ゆ」は最終回も終わってしまいましたが、この「花燃ゆ」の旅はもう少し続けてみたいと思います。
今回は群馬で育った方ならお馴じみ「上毛かるた」にある「老農 船津伝次平(ろうのう ふなつでんじべい)」のふるさと、前橋市富士見町の原之郷(はらのごう)を訪れてみました。

船津伝次平のふるさと、原之郷の九十九山の風景。
伝次平は天保3年(1832年)、原之郷の名主の息子として生れました。若くして家督を継ぎ、村の水不足解消のため植林作業を行ない赤城山頂の大沼から用水を引く計画も立案しました。また寺子屋を開き名主、村役人として名望を集めました。
現在も、原之郷は赤城山の麓のひなびた農村地帯でした。手前の畑ではおいしいブロッコリーが採れそうです!


船津家一族の墓地にある船津伝次平の墓。
お墓の後方にあるのは地元の「富士見かるた」の案内板なので、伝次平が「め」の絵札になってしまってます。やっぱり伝次平は、「上毛かるた」の「ろ」でないとしっくりきません。
子供の頃は読み札の「老農」という言葉の意味がわからず、ただその響きに古風で独特なものを感じてましたが・・・「花燃ゆ」を見るまでは、伝次平がこんなに偉い人だったとは知りませんでした。
「老農」とは老人の農家ではなく、農業を研究し経験を重ね、高度な農業技術を身に付けた農業指導者のことを言うようです。

伝次平はさまざまな農作物の栽培方法の研究に取り組み、実験を重ねては農業を改良進歩させていったそうです。経験重視の日本の在来農法に、近代的な西洋農法の手法を取り入れたその農法は全国に普及し、後に「近代農業の父」と呼ばれるようになりました。
明治6年には「桑苗簾伏方法(くわなえ すぶせのほう)」を著わし、養蚕
業の振興にも務めてます。
「花燃ゆ」の中では、伝次平を「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドク博士のようなヘアスタイルで石原良純さんが演じて人気者でしたね!


船津伝次平の墓付近に残る農家の古民家。


船津伝次平翁 贈位記念碑
こちらは番組終わりの「花燃ゆ紀行」でも紹介された記念碑です。前橋器械製糸場の速水堅曹(はやみ けんそう)や楫取素彦により、農業熟練者として明治政府内務卿・大久保利通に推挙された伝次平は、明治10年12月、家族を群馬に残して上京、内務省御用掛(ごようがかり)に就任しました。
東京駒場農学校(東大農学部の前身)では農業監督として農業を指導し、学生達の中で自ら先頭に立って、駒場の原野に開墾のクワをふるって農場を拓いたそうです。
農事巡回教師として全国を巡り指導にあたった際には、どこへ行っても農民と同じ身なりで接しました。
当時、農商務大臣となっていた松陰の門下生・品川弥二郎と、行動を共にしていたというのもスゴいです!


前橋市富士見町支所の庭に建つ、船津伝次平像。


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・太田、高山彦九郎編

2015年12月13日 | 旅行記

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、今夜がついに最終回となってしまいました。
幕末、萩の松下村塾から始まり、吉田松陰~久坂玄瑞~高杉晋作をヒーローとして動乱の中を辿り、明治維新後、舞台は群馬となって楫取素彦にバトンが渡されてきたストーリーだったように思います。
心に残った松陰先生の言葉は「至誠(しせい)にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」
楫取素彦がヒロインの文(美和子)、寿姉妹とともに精一杯の誠意、真心を尽くして新しい時代を切り開き、新しい日本人を作ろうとしてゆく・・・その志にはいつも感動してきたドラマでした!

当ブログとしても今回は、「花燃ゆ」で語られてきたその「志」のルーツとなった吉田松陰、そのまたルーツとなった大先生がなんと群馬の人だったことを知り、吉田松陰のヒーロー=勤皇思想家・高山彦九郎を取り上げてみたいと思います。


高山彦九郎(たかやま ひこくろう 1744年~1793年)は江戸時代中期に上州新田郡細谷村(にったごおり ほそやむら)の名主の家に生まれた勤王思想家で、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与え、やがて明治維新を導く先駆者となった人物です。
写真は国道354号線、冠稲荷神社近くの「細谷町」の交差点を北上した、「彦九郎記念館前」の交差点付近にある「高山彦九郎宅跡」です。
高山家の祖先は鎌倉幕府御家人で、新田義貞に仕えていたそうです。奇しくも彦九郎は義貞公挙兵の5月8日に生まれたこと、少年時代は祖母から「太平記」を読み聞かされて育ったことも、その後の彦九郎の思想形成に大きな影響があったと考えられてます。
「太平記」の中で
南朝が後醍醐天皇を中心とした天皇親政を打ち立てることができなかったことには悲慷慨し、13歳で「太平記」を読破したのをきっかけに勤皇の志を持つようになり彦九郎の尊王思想は強まってゆきました。
また伊勢崎藩校学習堂の村士玉水(すぐり ぎょくすい)に儒学を学び尊王思想の影響を強く受け、村士玉水は彦九郎の師と言われてます。

18歳の時、彦九郎は家族に遺書としての置手紙を遺し天皇を慕って京都に旅立ち、その後は生涯を諸国を歴遊し勤皇の大義を唱えて歩く旅に過ごしたそうです。旅の中で公家、大名、儒学者、蘭学者、商人、農民と様々な階層の人々と交流をもち、天皇を中心とした政治体制復興のためのネットワークを築いていったそうです。
また
各地域のありとあらゆる情報を日記に詳細に渡り記録し、天明の飢饉に苦しむ人々の救済のためには独自の方法を思案してま
高山彦九郎とは尊王思想家というカテゴリーにとどまらず、よりスケールの大きい偉大な思想家、社会改革家であったというのが新しい視点のようです。彦九郎を研究されているある先生がおっしゃるには、「彦九郎の生き方を学ぶことです。四十七年の人生の大部分を、ただひたすら「経世済民(けいせいさいみん)」を目標において、国のため人々の幸せな暮らしのために、ひた向きに行動したことを知ることは大切であるということです。」ということでした。

写真は高山彦九郎記念館に展示されている彦九郎像です。これは等身大のブロンズ像でしょうか? 彦九郎は「寛政の三奇人」の一人ともいわれ、身長180cmはあったという当時としては大男で、諸国を闊歩する速度も速かったようです。
はじめて京都、三条大橋までやってきた時には感極まり、御所の方に向かって平伏したそうです。現在、三条大橋東詰にはその時の彦九郎の姿を現した
通称「土下座」と呼ばれる巨大な像があります。名物ブログ「ほぼにちパート2」さんのふるちゃんが次回、京都の「三条土下座前」でガールフレンドと待ち合わせする際には、ついでにこちらの彦九郎像の調査もよろしくお願い致します。


高山彦九郎の遺髪塚。並びに一族の墓所

寛政3年、彦九郎がひとたび拝謁を実現できた光格天皇が、父君への尊号の贈呈を巡って幕府との対立が深まっていた中、公家との接触を持っていた彦九郎にも幕府の警戒が及びました。翌年、尊王派の大藩であった薩摩藩を頼ろうと九州で活動していた彦九郎は一時、捕縛されます。
その後も幕府の監視を受け、寛政5年、彦九郎は筑後・久留米の儒学者宅を訪れ、そこで謎の自刃(じじん)を遂げています。

彦九郎亡き後、その遺志を継いだ同士も自刃し、また島原から来た儒医も久留米の彦九郎墓前で割腹します。その後も彦九郎を慕い傾倒する人々が次々現れ、彦九郎は勤皇の志士たちに取ってのヒーローとなってゆきます。 
嘉永4年に江戸遊学中だった吉田松陰は水戸藩士・会沢正志斎(あいざわ せいしさい)の著わした「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、今まで高山の事跡を知らなかったことを恥かしいことであったと言っています。
松陰は安政6年、「安政の大獄」で斬首刑に処される前に小田村伊之助(後の楫取素彦))に手紙を送り、その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記してます。
吉田松陰の号「松陰」とは、高山彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」から取っているとも言われてます。
そして松陰も亡くなり、この新田郡細谷村の彦九郎の墓所に
高杉晋作が訪れ、また久坂玄瑞も中岡慎太郎とともに訪れています。

時代は明治になって群馬県令となった楫取素彦は、呑龍様で知られる太田大光院近く小高い山・天神山に高山彦九郎を祀った「高山神社」の創建のために尽力します。
昭和7年、高山神社はリニューアルされ
優美な神明造の新社殿が造営されましたが、惜しくも昨年12月に火災により焼失しており写真を取れなかったのが残念です。


太田市立 高山彦九郎記念館入口
戦前は小学校の教科書にも掲載されていた高山彦九郎でしたが、現在は時代の中に埋もれほとんど忘れ去られた人物となってます。
彦九郎の故郷、太田市では高山彦九郎没後200年記念事業として、その人物像を現代的に再評価する機運が高まり、平成8年(1996)5月に太田市の施設として高山彦九郎宅跡と遺髪塚に隣接して高山彦九郎記念館が開館したそうです。


高山彦九郎記念館の中庭では夕陽も沈む頃、ししおどしの音が晩秋の庭に響き渡ってました。