小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

世界遺産「高山社跡」 ~高山長五郎、不屈の精神

2014年06月29日 | アート・文化

今日は世界遺産に正式に登録されてから一週間が経った「富岡製糸場と絹産業遺産群」の中から、群馬県藤岡市にある「高山社跡」を紹介させて頂きます!
ローズガーデンの庭仕事も最近はおちつき、当ブログの記事も、訪れた花の名所や史跡巡りがテーマになってきました。またまた、「世界遺産」の記事ともなると、アクセス数が倍にもなるので、さすが「世界遺産」強しです!!
さきほども、昨年、このブログにコメントを寄せてくださった saiwaiさんが、「田島弥平の長いブログ、読みましたよ~。」とお声をかけてくださって、とても幸いな気持ちになれました!!
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実は私は、世界遺産「高山社跡」には、2年前の9月に見学に行ってきました。
「西上州やまびこ街道」という名称の県道から「高山」方面に向かう道に入ると、写真のような美しい里山の風景が広がってました。綺麗な緑の稲田が、おもしろい形をした山々に囲まれ、まるで「まんが日本むかしばなし」の世界に来たようで楽しいです♪
こんな風景の中を2キロちょっと進むと、道路は急にひっそりとした山村の中に入ってゆきます。
伊勢崎市の自宅から僅か30分足らずで、こんな素敵な山村に来られただけでもHAPPYな気分でした?
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山村に入って間もなくすると、道路の横には涼しい清流が流れ、反対側には石垣の上に風格ある長屋門を構えた立派なお屋敷が建ってました。・・・ここが、世界遺産「高山社跡」でした!!
長屋門をくぐると、背後に迫る山を背に、堂々とした佇まいの母屋が建っています。
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写真は2年前の「高山社跡」ですが現在は修復が進み、外壁は綺麗な白壁に、2階の雨戸のところも障子が貼られて往時を偲ぶ外観になったそうです。
ここでぼーっとしていると、親切なガイドのおじさんが建物の中を案内してくださいました!
「蚕室(さんしつ)」と呼ばれるこの母屋は、明治に高山社を設立した高山長五郎氏(たかやま ちょうごろう)から、数えて4代目のご当主の奥様が10年間お一人暮らしをされた後、藤岡市が買い取って一般公開する運びとなったそうです。
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蚕室内には「清温育(せいおんいく)」という、高山社独自の蚕を育てる保温・換気設備が、時代を経てもタイムカプセルの中のように保存されてました。
上の写真が2階、床に換気用のスノコが見えます。その下、1階の天井には2階の保温用の火鉢をいれるBOXが飛びだし、現在の空調システムを見るようです。

1830年(天保元年)、上野国緑野郡(みどのごおり)高山村に、高山長五郎は生まれました。若き日の長五郎氏はなかなかのイケメンで、とても、おばあちゃん思いの少年だったそうです。
養蚕に真摯に取り組んでいる祖母の姿。しかし、蚕がみんな病気になってしまうという蚕病(かいこびょう)に見舞われて、たびたび深い悲しみに暮れたそうです。・・・そんな祖母の背中を見て育った長五郎氏が家督を継ぎ、やがて養蚕業も引き継ぐ日がやってきました。
彼も、祖母を悩ませた蚕病の失敗を何度も重ねました。それでも試行錯誤して打ち込み、1861年(文久元年)、7度目のチャレンジでようやく成功して、それからは蚕病を克服できる新しい方法も見えてきました! 
「なんとかしてお蚕さんが病気になんねえで、いい繭ができねえもんだんべか!!」と長五郎氏は名主としても、村民の生活のために養蚕改良に心血注ぎこみ、寝食を忘れるくらい実験を繰り返したそうです。
島村の田島弥平氏のもとにも訪れ、「清涼育」の方法も取り入れました。
1884年(明治17年)、長五郎氏の不屈の精神、長年の努力は結実し、ついに「清温育」を確立します。しかし、その2年後、56歳にして長五郎氏は倒れ帰らぬ人となってしまいました。
その間、彼のもとにはたくさんの教えをこう若者たちが集まり、長五郎氏死後も、養蚕学校「高山社」においてその教えは教育され、多くの優秀な門下生たちが育ちました。その門下生たちは指導者として各地に派遣され、日本全国に羽ばたいてゆきました!!
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世界遺産「高山社跡」を眼下に見下ろす山に、高山家の菩提寺があります。かなり急な坂を、ローギアでゆっくり進めば車でも登れます。
風情あふれる山寺にたどり着くと、ほんとにいい気分でした♪
本堂裏手の苔むした石段を登ると、ひっそりと高山長五郎氏と奥方の孝子さんのお墓が並んでありました。


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