小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

田中正造 その3・・・シュプレヒコールの波

2020年08月03日 | 旅行記

田中正造ゆかりの地を巡る小さな旅。次は佐野市街地にある登録有形文化財「佐野教会堂」を訪れてみました。昭和9年(1934)築のこのレトロな木造建築は横板張りの外装に、ファザード上部中央に大きな丸いバラ窓と、左右に尖塔状アーチ窓を配したゴシック風の建築物になってます。建物は日本基督教団・佐野教会として現在も使用されています。

佐野教会は明治21年(1888)、新島襄の弟子・中山光五郎により佐野基督教講義所としてスタートし、正造翁とともに鉱毒事件を戦った永島与八によって創立されました。永島与八による昭和13年の著書に「鉱毒事件の真相と田中正造翁」があります。佐野教会は「田中正造にキリスト教の愛を説き、足尾鉱毒事件解決の基本理念を提起した」とも言われてます。正造翁は明治34年の天皇への直訴の頃から、キリスト教会で集会を開くことが多くなり、その言葉も聖書の引用が多くなってきます。

庭田清四郎家(田中正造終焉の地)

佐野教会堂の次は県道佐野行田線を南下して渡良瀬川方面に向かいました。5㎞ほど進むと「田中正造翁終焉の地」と書かれた大きな石碑が道路沿いに見えてきました。石碑の先を進むと渡良瀬川の堤防近くに立派なお屋敷が建ち、それが正造翁が息を引き取った庭田家のお屋敷でした。正造翁は大正2年(1913)8月、最後の資金集めと言われる河川調査の活動資金調達の旅から谷中村へ帰る途中、渡良瀬川畔で病に行き倒れ庭田家に担ぎ込まれました。多くの人々がお見舞いと看病に訪れましたが、同年9月4日、正造翁はこの地でついに天に召されました。

渡良瀬川沿いの雲龍寺

庭田家から渡良瀬川堤防に沿って移動すると近くに雲龍寺がありました。明治29年(1896)10月、田中正造は雲龍寺に鉱毒事務所を設け足尾銅山鉱業停止請願事務所として、ここは被害民の鉱業停止運動の拠点となりました。被害民が鉱毒被害を政府に訴えるために上京して請願運動を行うことを「押出し」と言いました。「押出し」を行う際には雲龍寺に集まり、「鉱毒悲歌」を歌いながら東京に向かったそうです。

雲龍寺前の堤防から渡良瀬川を望む

明治33年(1900)2月13日夜明け、概ね2500名の被害農民が雲龍寺に集結して第4回目の「押出し」を決行します。午前9時にこの渡良瀬川を渡り、正午過ぎに利根川を渡ろうとしたところを、手前の川俣宿で待ち構えていた警官隊と衝突しました。多くの負傷者、逮捕者が出てこの「押出し」は阻止されました。この歴史的弾圧事件は「川俣事件」と呼ばれてます。

「見渡す限りの大群衆の声は天地にとどろき、それが一つになって燎原(りょうげん)の火のように広がった。・・・怨念の炎は何物をも焼き尽くす勢いであった。」中村紀夫先生の著書「死の川に抗して」では、数千の農民たちが「鉱毒悲歌」を歌いながら前進してゆく「押出し」の様子をこのように描写し、その凄まじさはいにしえの戦国時代、一向一揆を彷彿とさせます。一向一揆も僧侶、農民たちの権力に対する抵抗運動でした。

明治の「鉱毒悲歌」とはどんな節(ふし)だったのでしょうか? それがわからない代わりに、私は中島みゆきさんの「世情」という曲が脳裏によぎってきました。静かな民衆のシュプレヒコールから始まるこの曲は、後半「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて 時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため」というサビの部分の歌詞が繰り返され、大合唱に発展する壮大な楽曲です。ちなみに「世情」は81年3月、TBS系ドラマ「3年B組金八先生」での校内暴力シーンで、生徒が警察に連行されるバックに流れて大反響を呼びました。今この曲を聴くと、川俣事件で血みどろになって警官隊に連行されてゆく、多くの若者たちの姿がオーバーラップしてきます。

雲龍寺境内にある「田中正造翁終焉之地」の碑

田中正造翁墓所

雲龍寺境内にある田中正造翁の祀られた「救現堂」

大正2年(1913)9月4日、午後0時50分、庭田家で正造翁が息を引き取ると、その死を知らせる雲龍寺の鐘が鳴り響いたそうです。「救現堂」(きゅうげんどう)とは正造翁が意識不明になる前に、「現在を救いたまえ! ありのままを救いたまえ!」と大声で叫んだことに由来してます。それが正造翁の最期の言葉になりました。

「現在を救いたまえ」とはいかなる意味でしょうか? 「現在の状況を救ってください。」ならまだ意味は通じます。正造翁自身の現在の重篤状況、あるいは正造翁の目の前に苦しんでいる人々の現在の状況なのでしょうか?

正造翁は「今、自分の目の前に一人でも苦しんでいる人がいれば、その人を救うことに自分は全力を傾ける。その人を救う事が出来れば、自分はそれで本望だ」と言ったそうです。それは聖書の有名な言葉「汝の隣り人を愛せよ。」の後に主イエス様が語られた、道端で瀕死の重傷を負った人を通りがかりの異邦人が救った「よきサマリア人のたとえ」と同じことを言ってます。

かつて「それは今でしょ!」という言葉が流行りましたが、それが他人であっても、まさに今、自分の目の前で困っている人、苦しんでいる人をありのままの形で救うということが大切なのでしょう。

「現在を救いたまえ」・・・今、コロナ禍の中に置かれた世界中の人々がこの瞬間にも「現在を、人類を救いたまえ!」と、祈りを捧げているのだと思います。  

雲龍寺で田中正造翁墓所の入口に「館林かるた」の絵札が貼られたこんな石柱がありました。雲龍寺はかつての度重なる渡良瀬川の治水工事により川筋を変更したため、「佐野市」側なのに住所は川向こうの「館林市」のいわゆる飛び地になってます。

私は「社会的弱者」という言葉はある意味、差別をしているようであまり使いたくないのですが、旅先で頂いたパンフレットに、名主の家に生まれた正造が5歳の頃、使用人を困らせ、母から雨の夜に外に追い出されたというエピソードが記されてました。それからは「弱い者」の立場に立って考えるという、正造翁の一生に通じる姿勢につながったというお話でした。「鉱毒にいのちのかぎり」とあるように、「弱い者」を悪しき「権力」から救うために、いのちの限り全力を尽くしたのが田中正造の生涯でした。

不条理な社会の中に置かれ、正造翁の目の前で困っている人たち、苦しんでいる人たちを温かく思いやり、彼らが再び幸せな生活を回復できるように、彼らのために献身して精一杯生きたのでしょう! そこに、今までは気付かなかった田中正造の心の温かさ、優しさがまざまざと見えてきました。

晩年の谷中村で最後に正造翁の辿り着いた境地は「悲しみ苦しみすべてを受け入れ、ひたすら人間を愛すること」でありました。田中正造は新約聖書に記されたキリストの弟子、ヨハネのように全き「愛の人」でした。あるいは波乱万丈の生涯の中でも、ひたすら神の愛を実践したパウロのような人でした。

2020年の夏、私は時代を超えて田中正造と出会うことができました。同じクリスチャン同士、いつの日か天国でお会いできたら、「お疲れさまでした!」と心から言いたいです。

これからは私も、自分の目の前に困っている人があったなら、積極的に一歩踏み出して笑顔でこの手を差し伸べたいと思います。

田中正造の奇怪でどこか気難しそうな風貌、そこからくる先入観で、私は今まで正造翁について調べたり、正造翁のことを深く知ろうとすることはありませんでした。でも今回は神様に招かれ、佐野市と館林市にある田中正造ゆかりの地を巡り、彼の生まれ育った大地や家屋に触れ、そして聖書をはじめとした遺品をこの眼で見てきました。

今は田中正造のことが大好きで、深い敬愛の念を持つようになってます。

田中正造旧宅で親切に説明してくださった案内人のおば様、「死の川に抗して」を通し私を田中正造の世界に導いてくださった中村紀夫先生、「死の川に抗して」の冊子を手配してくださった中村先生のお弟子さんに、心より感謝申し上げます。m(__)m


田中正造 その2・・・Love is Action.聖書を実践した男

2020年08月02日 | 旅行記

優しい案内係のおば様と百日紅の花に見送られ田中正造旧宅を後にした私は、ゆかりの地巡りの次なる目的地、正造翁ゆかりの博物館「佐野市郷土博物館」に向かいました。郷土博物館は旧宅から佐野市街地方面に向かって県道を約4㎞、車ならすぐの距離でした。

佐野市郷土博物館・田中正造展示室

佐野市郷土博物館の田中正造展示室には直訴状、遺品などの関係資料約100点が常設展示されており、かなり見応えのある展示室になってました。展示空間中央に設けられた被害流域のパネル上に、蓑(みの)に菅笠スタイルの正造翁が気迫にとんだ眼でかなたを見据え、凛として佇んでます。

直訴状(複製)

こちらの展示室にも明治天皇への直訴状(複製)が展示されてました。本物は京都にあるようです。

夫人宛・直訴後の手紙

正造翁が直訴の一週間後、田中カツ夫人に宛てた手紙。「正造は直訴当時の決死の心がまえとその後の状況を伝え、体の弱い夫人をいたわり、あたたかく励ましています。」と説明書きがあります。

群馬県の「上毛かるた」に「天下の義人 茂左衛門」というのがあります。江戸時代に重い年貢と飢えに苦しむ民を救うために、幕府に直訴した者は死罪でした。杉木茂左衛門は妻子とともに磔の刑に処されています。明治の世に天皇陛下への直訴を企てた田中正造たちにしても、状況次第では切腹しなければならないまさに命を賭けた決断でした。

正造翁の遺品の数々

中央の白装束「三ッ紋付一重(みっもんつきひとえ)」は代議士時代に着用したもの。その左の「繻子袴(しゅすばかま)」は直訴当時から晩年にかけて着用した。何れも県重要文化財に指定されてます。

臨終の枕辺に残された遺品

「苦難にみちた正造の生涯が終わったとき、まくら元には、すげ笠と合切袋(がっさいぶくろ)が残されました。袋には、田中家伝来の大矢立1本、河川調査の原稿と新約全書各1冊、鼻がみ数枚、取ったままの川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本(がっぽん)、日記3冊が納められてました。小石の収集は、正造の数すくない趣味のひとつでした。」(展示室説明文より)

これが田中正造翁の全財産と言えるものでした。「新約全書」(写真右下の革表紙のもの)とは、現代の「新約聖書」。正造翁の愛弟子・島田宗三によると「この新約全書を田中に贈ったのは内村(鑑三)だったと思う。」と語られてます。

明治37年(1904)7月からの晩年の正造翁は、栃木県最南端に位置し明治政府による遊水地化計画に該当した悲運の村、谷中村(やなかむら)に移住して生活しました。強制的に立ち退きを命じられ、最後までその地で暮らす人々の人権を守るために、そして村を救うために闘争する毎日でした。泥沼のようなその苦境の中に、正造翁の精神的な支えになったのは聖書だったと言われてます。聖書をひたすら読み、日記には「聖書の実行のみ」という言葉が目立って書かれたそうです。正造翁の評伝を書いたことで知られる林竹二の著書「田中正造ーその生と戦いの根本義」の中に、「あれほど徹底した形で聖書を実行した人のいたことは、キリスト教会の中では全く知られていません。」と書かれているほどです。

「マタイ伝」(新約全書の左、「馬太伝」とあるもの)とは新約聖書の最初にある「マタイによる福音書」のことを指しています。「新約全書」を入手するまではこの「マタイ伝」を読んでいました。彼が初めて聖書に触れたのは、入獄中の明治35年(1902)7月であったようです。その頃は既に「神が天地と人間を創造された。したがって、あらゆる人間は神の下に平等であり、尊厳を有する。また、自然はまったき調和を有する」といった思想を自らの中に形成してました。

小石の一つに渡良瀬川特有の桜石がありました。黒地に白っぽい桜の花模様が見られます。自然、環境を愛した正造翁に取って、小石集めが休息のひと時になったことでしょう。田中正造・日記絶筆

大正2年(1913)9月4日、田中正造翁は渡良瀬川畔の庭山清四郎家で世を去りました。臨終遺品の日記絶筆には「已に業ニ(すでにすでに)其身(そのみ)悪魔の行為ありて悪魔を退けんハ難(かた)シ。茲(ここ)に於てざんげ洗礼を要す。ざんげ洗礼は已往(きおう)の悪事ヲ洗浄するものなれバなり。何とて我を」と書き残してます。既に自らの心に向かい働きかけている悪魔を退けるのは、(自分との戦いでもあり)非常に困難なもの。キリスト教の懺悔(ざんげ)、洗礼は既往の悪事を洗浄できるもの・・・というようなことを言われているものと思われます。正造翁はキリスト教の洗礼を受けられずに世を去ったため、一般的にはキリスト者としては語られてません。しかしキリスト者(クリスチャン)とは洗礼を受けていなくとも、主イエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れれば、その時点から立派なクリスチャンなのです。

そして最後の「何とて我を」という謎の言葉・・・これはマタイ伝の27章にある十字架に掛かられた主イエス・キリストが叫んだ最後の言葉「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」を書き写そうとしたが、正造翁は力尽きてしまったのではないか?という説があります。

主イエス・キリストは全き罪なき神の御子(みこ)であるのに、人々を罪から救うために身代わりとなって「十字架」で尊い血を流され死なれました。本当は父なる神に見捨てられるのは、罪ある私たち人間だったわけです。自分の罪を悔い改め、自分の罪を背負ってイエス様が十字架に掛かかってくださったのだと信じれば、その罪はすべて贖(あがな)われて帳消しにされその人は救われます。同時に主イエスが死から「復活」を遂げたという神の力を信じて「永遠のいのち」が与えられ、その人自身も復活し死後は天国に行けます。

田中正造も同じように、主イエス・キリストを信じました。元毎日新聞社編集委員、環境ジャーナリストでクリスチャンの川奈英之氏は「田中正造が晩年、聖書を徹底して読み、実践に努める敬虔なキリスト者になった。」と語っています。

 

佐野市郷土博物館前の田中正造翁の銅像と、正造翁作の和歌を記した歌碑

「世をいとひ そしりをいみて 何かせん 身をすててこそ たのしかりけれ」と歌われています。歌の意味は「厭世的になったり、他人のそしりを恐れてどうするというのだ。身をすててかかってこそ、生きがいのある人生をおくれるのだ」

弱い立場にある人々に寄りそい思いやり、苦難の中であっても、身を捨ててひるむことなく立ち向かっていった正造翁の強い精神力が現れた歌だと思います。

1946年のインド、「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けた修道女テレサは単身、カルカッタのスラム街に入ってゆきました。やがて「死を待つ人々の家」で貧困と病気の人々に寄りそい、あたたかく静かな最期を看取るようになりました。マザー・テレサの掲げた「Love is Action」(愛は実践)の精神ととった行動は、まるで田中正造と合わせ鏡のようです。行動者・田中正造の生涯は「Love is Action」そのものだったんじゃないでしょうか?

 

田中正造 その1・・・足尾鉱毒事件解決に命をかけた男

2020年08月01日 | 旅行記

明治時代初期、足尾銅山から流出した鉱毒水や堆積物中の有害物質は、渡良瀬川下流エリアの広大な田園地帯を汚染し農民たちは苦しんだ。汚染農作物による死者は1895年~1900年の5年間だけでも1064人。妊婦の流産、死体分娩の件数も多かった。農民たちは蜂起し、そして衆議院議員・田中正造は彼らを救うために体制に立ち向かい、鉱毒被害を訴える活動を始めその生涯を捧げた・・・。

そんな、足尾鉱毒事件と田中正造を題材とした小説にかつて城山三郎の「辛酸」、立松和平の「毒 風聞・田中正造」などがありました。そして現在、元群馬県議会議長であり作家の中村紀夫氏が執筆中の「死の川に抗して・よみがえる田中正造」が毎日新聞群馬県版に連載され注目を集めています。コロナ禍第2波の今、日本政府は何の対策もとれずまさに羅針盤を失った船のように漂流してます。そうした不安と混乱の中にもう一度、この令和の世の中に田中正造翁のような真実の指導者が現れ、私たち日本国民もまた覚醒して、平和で差別格差なく感染症からも守られ、誰もが安心して幸福に暮らせる社会に導いてもらえないだろうか。

田中正造旧宅

不思議なご縁で中村紀夫先生ご自身の手作りによる冊子「死の川に抗して」を手にした私は、翌日朝には栃木県佐野市小中町にある田中正造旧宅に向かい車を走らせていました。運転しながら神に祈りつつ、はてこの小さな旅の目的は何であろうか?と自問自答の中に、私はクリスチャンの視点で田中正造を見て、願わくはこのブログを通して彼の生き様を証(あかし)したいのだという目的が見えてきました。長い梅雨も明けたかのような青空のもと県道沿いに風情ある古民家が現れ、それが田中正造旧宅でした。この明治初期の建物は、正造が父親の為に建て隠居所として使われていました。

旧宅・隠居所内部

マスクとアルコール除菌をして建物の中に入ると、左手の居間に置かれた堂々とした田中正造翁の肖像画とともに、案内係の優しいおば様が私を迎えてくれました。「あまり時間がないので。」と話すと、ポイントだけを丁寧に説明してくださり、おば様のおかげで本当にいい時間を過ごせました。説明を聞いているうちに・・・一見、奇人変人のような風貌の田中正造自身も、実は心の温かい人であったことが伝わってきました。

直訴状(複製)

明治34年(1901)12月10日、61歳の正造翁が鉱毒問題を決死の覚悟で明治天皇に直訴した時の直訴状。思想家・幸徳秋水が書き、赤い捺印のある箇所は、決行の朝に正造翁が訂正加筆したところと言う。「陛下」の字はきちんと一ます上から書かれている。この直訴状を手に「鉱毒被害の儀につきまして、陛下にお願いに上がりました!」と叫びながら陛下の馬車に突進した正造翁でしたが、つまずいて転倒したところを警官に取り押さえられ、直訴は切なく失敗に終わりました。しかしこの事件と直訴状が号外、新聞で報道されると、社会に大きな波紋を呼ぶことになりました。

隠居所の裏口から中庭に出ると、左手に大きな百日紅(さるすべり)が咲き誇ってました。古木で樹の中は空洞のところが多いのに、紅色の花々がたくさん咲いて夏空に鮮やかです。案内のおば様によるとこの百日紅の木だけが明治からある庭木だそうで、この木がずっとここで田中正造と歴史を見守ってきました。

旧宅・母屋

百日紅の木の下を通り中庭の奥に進むと、復元された母屋がありました。天保12年(1841)11月3日、田中正造は下野国安蘇郡小中村のこの母屋で名主の長男として誕生しました。母屋の建築は構造、手法から江戸時代後期のものと考えられ、当時は藁葺(わらぶき)屋根だったそうですが、復元は銅板葺で再現されています。後に正造翁はこの母屋を、診療所として村に提供していたそうです。

旧宅・母屋内部

床の間に立派な正造翁の写真と、「愛」という書が印象的です。この「愛」の書は明治33年(1900)、数千の農民たちが蜂起し警官隊とぶつかりあった川俣事件で、負傷した同志に正造翁が万感の思いを込めて大書し贈ったものの複製です。田中翁の門徒・嶋田宗三は「田中翁の全人格を一言で表せば愛。」と述べていたと説明書きがあります。田中正造はドン・キホーテのようなひたすら行動者であっただけではなく、主イエス・キリストの弟子ヨハネのような「愛の人」だったのかも知れません。掛け軸の短歌も正造翁の直筆だそうです。

田中正造誕生地墓地

田中正造旧宅の道路の反対側には「田中正造誕生地墓地」がありました。正造翁の遺骨は各地の民衆の希望で、6か所に渡って分骨されています。正造翁は死後も、それだけ多くの民衆に愛されたことがわかります。写真では暗くて見えませんが、墓石の題字「義人田中正造君碑」は正造翁の盟友、島田三郎によって書かれてます。島田は政治家、ジャーナリスト、植村正久牧師から洗礼を受けたキリスト者でもあり、キリスト教人道主義の立場から足尾鉱毒被害者救済運動を支援しました。