小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・萩、吉田松陰編 お正月スペシャル

2015年12月26日 | 旅行記

クリスマスが終わって、ホームセンターとかではお正月の松の飾りなどが並ぶようになりました。
「松」と言えば、大河ドラマ「花燃ゆ」群馬編の中では、県庁内に置かれた松の盆栽、臨江閣の壁に描かれている松の絵といったように、セットにさりげなく松が配置されてました。これは群馬県の木は黒松だということで、松がさりげなく群馬をイメージする美術の方のアイデアだそうです。


臨江閣本館前庭の松。
ところで、今回の当ブログの「花燃ゆ」の旅は、「萩、吉田松陰編」と題しましてちょっと群馬から離れてみたかったところですが・・・なんせ旅費も暇もない分際なので、35年ほど前だったでしょうか、高校生の時に山口県を旅行した時のことを思い出しての記事になります。(汗)
高校2年の夏休みを利用した山口県への旅行は、松下村塾、海辺の美しい萩城址をはじめとした萩の町、高杉晋作挙兵の攻山寺のある下関、他に防府、山口等、主に幕末~明治にかけての史跡を巡って来たように思います。復活したSL「貴婦人号」に乗車したのも楽しい思い出になりました。
一緒に行ったのは旅行仲間のH君でしたが、いつも自分勝手な行動をとる小生を見捨てないで同行してもらえて感謝でした。
彼は旅費を稼ぐバイト中から、吉田松陰と高杉晋作を主人公とした司馬遼太郎の「世に棲(す)む日々」をすでに読んでいました。

H君は現在、防衛庁の高級官僚と言えばいいのでしょうか、あるサイトの「日本の防衛産業は鎖国から開国へ」なんていう特集記事で、H君が我が国の防衛装備行政のキーマンとして軍事ジャーナリストのインタビューに答えてました。防衛大臣とともにあるH君(いや、こうなるとH君なんて呼べません!H氏ですね。)の写真も掲載してありました。
一緒に旅行してから35年を経て、まさに彼は勝ち組、小生は負け組の代表選手となったわけです。
しかし、偉くなる人は高校生の当時からどこか違ってました。小生が当時、吉田松陰をヒーローとして思っても、それはウルトラマンや仮面ライダーに夢中になる程度の次元でしたが・・・今を思えば彼は、黒船来航の脅威の中に強烈な危機感を覚えた松陰の憂いを、国防を、攘夷をすでに意識しながらの旅だったのではないかと思います。

小生は今になっても「吉田松陰」とは何だったか?と、思いを巡らしています。
現在は個人的に吉田松陰を信奉しているわけではありませんが、このブログで一度は松陰について書いてみたいと思ってました。
もちろん松陰についてすべて解ったわけでもなく、解るような脳味噌もない者ですが、小生なりに解ったことから書いてみたいと思います。
実際は多くのサイトやブログ記事からのフレーズを引用させて頂いて、自分なりの吉田松陰論をまとめたノートだと思ってください。

吉田松陰と言えば、何と言っても萩の「松下村塾」で若者たちに教え、多くの志士たちを育てたことがあげられます。
その中身は、山鹿流(やまがりゅう)兵学の軍事技術、地理学、孟子の教え、異国事情、世界史、そして日本のビジョン・・・等々、様々を語り、それは
2年余りの短い期間でしたが、「志をもて、良き友とそのために行動せよ、本を読め」と熱心に教え、自分の信念を熟生たちにぶつけ、彼等の心は強く揺すぶられ惹きつけられてゆくのでした。脱藩、密航と「志」を実行してきた有言実行の人= 松陰ですから、自分の生きざまで人を感化させる師の言葉は説得力も強かったことでしょう。「松下村塾」でのこうした彼らの体験が、「明治維新」の原動力となっていったことが素晴らしいと思います。
すなわち松陰は「明治維新」の精神的な指導者・理論者になったわけです。

松下村塾の建物の中には久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった、そうそうたる幕末維新の志士たちの写真が飾られてました。
蝋人形で松陰の生涯を再現した「吉田松陰歴史館」では、官軍のトコトンヤレ節♪のBGM流れる中に、等身大の彼等と遭遇して胸躍る気持ちになったのをよく覚えています。彼等と一緒に撮った記念写真もありましたが、高校時代のネガや写真はすべて処分してしまったのが残念です。

吉田松陰の思想は、尊王思想を集大成し幕末志士の精神的支柱となった「大日本史」で名高い水戸学を基盤として、松陰独自の思想を構築していったそうです。
一言で言うなら「尊王攘夷」の思想が、松陰の思想の中心でありました。

ここでちょっと、「尊王」と「勤皇」という用語が紛らわしいので整理しておきます。
「尊王」(そんのう)とは、精神的に天皇を尊ぶことで、幕府も持っていた思想でもあります。それに対して「勤皇」(きんのう)とは、天皇のために具体的に行動すること。天皇親政を目ざして政治行動することのようです。
「攘夷」(じょうい)とは、夷適(いてき)を攘(はら)う。つまり、野蛮な外国を追っ払うという意味でした。

松陰の思想の特徴について、ブログ「いり豆 歴史談義」さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200605130000/
から抜粋して引用させて頂きます。

1)一君万民思想
水戸学は「幕府への忠誠は即ち天皇への忠誠」とする幕藩体制を前提とした尊王論です。松蔭も最初これを受け入れていましたが、やがてここから脱却します。外圧をはじめとする危機的状況の中で松蔭がたどり着いたのは「この国難に立ち向かい国事に尽くすにあたっては、貴賎の隔てはない。天皇の下では皆が等しく王民である。」
とする思想・・・一君万民思想でした。
これは、身分の差を破った"国民"意識を打ち出したもので、松蔭の思想が持つ普遍性はここにあるといえるでしょう。封建制を打破する平等思想・・・しかしそれは天皇への信仰的な崇拝をテコにして成立したという側面もありました。
後世の歴史を考えた時にその可否は如何という問題は残ります。しかし、この時代において次のステップへ進むための革命思想であったといえるのです。

2)条件つき討幕~草莽崛起論(そうもうくっきろん)
松蔭は藩を通じて幕府に改革を働きかけ幕府を諌め、これが受け入れられない時討幕に踏み切るという立場をとりました。
しかし井伊直弼の違勅による条約締結に対して反発、松蔭は行動を始めます。”討幕に決起すべし”という建策を長州藩に相次いで提出。
公卿を長州に招致し、藩主と討幕挙兵の打ち合わせをさせる計画。老中間部詮勝を暗殺する計画、これを長州藩の家老にも話をして支援を求めます。ここでついに、藩は松蔭を再度投獄します。
久坂玄端や高杉晋作等弟子たちは、現況から松蔭に自重を求めました。しかし松蔭は”徳川を滅ぼさないと外夷に滅ぼされてしまう。尊攘の機を逸してしまう”といい、藩や幕府に依拠したことは誤りであった、野にあって志を同じくする人々の決起=草莽崛起により新しい権力形態を作り出すしかないと獄中から訴えます。
松蔭の死後、弟子たちはこの草莽崛起を実践し討幕勢力を結集していくことになるのです。

3)開国攘夷論
松蔭の本質は開国論者でした。佐久間象山(さくま しょうざん)のもとで洋学や西洋事情を学んだ彼は、西洋諸国の進んだ文明・その強力な武力についてしっかりと認識していました。
”開国して西洋と対等の力を付けつつ、しかし西洋人が不法な脅しや欺瞞に出た時は果敢にこれを打ち払う独立の気概を持たなければいけない。”というのが松蔭の考え方です。

これら松蔭の考え方は明治維新を成し遂げた中核的な考え方でありました。松蔭の弟子たちは、こうした思想を受け継ぎ実践していきました。



安政5年(1858年)、幕府の井伊直弼(いい なおすけ)大老が勅許(ちょくきょ、天皇の許可)を得ずに日米修好通商条約に調印し開国を断行してからの松陰の言動は、ラディカルに(急進的に)、行動は過激さを増していったようです。老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画はじめとした過激な政治工作を次々にはかり、松陰は野山獄という萩の監獄に置かれながらも、久坂や高杉ら塾生たちにテロの実行を要請してゆくのはカルト宗教の教祖のようです。尋常ではない無茶なこれらの計画に塾生たちは戸惑い、小田村伊之助(おだむら いのすけ、後の楫取素彦)とともに師に思いとどまるように促しますが、松陰は彼らに絶交状を送りつけてしまいます。

日本史で学んだように黒船来航以来、「砲艦外交」とも言われるように幕末の日本には「開国」という欧米諸国の要求が突き付けられ、待ったなしの厳しい事態でありました。すでにインドや中国は、列強帝国主義の侵略に侵され半植民地化され、日本にしてもうかうかしていれば列強の餌食にされてしまうという危機感を、世界情勢を知る松陰たちのような見識者は解っていたわけです。
すでに幕府には、この危機的事態を乗り切る力を失っていました。
「外国から日本を守りたい!今こそ、ここで誰かが立ち上がらねば!」という強い危機感と使命感は、手段を選ばないテロ計画となり、松陰を極めてラディカリズムの方向に走らせていったのだと思われます。
もはや多くの人の血が流れても、革命的に世の中を変えなくてはならない!という方法しかなく、松陰は必死だったのでしょう。
最終的には、約250年に渡る鎖国政策の中で腐敗、弱体化した幕藩体制を一掃しなくては、「近代」という新しい時代を迎えることはできませんでした。
「花燃ゆ」のドラマの中でも、黒船を自分の目で見てきた兄・松陰が妹・文に語るこんなセリフがありました。
「自分の人生を、自分の命を何のために使うか?兄はいつもそのことを考えておる。俺は日本国の危機を知ってしもうた。皆、その危機に気付かぬ。気付いても動かん!じゃから俺が動く。」

吉田松陰の功罪。今回はそれも小生なりに暗中模索する毎日となりました。
現代の日本人にとって、吉田松陰のやったことは本当に良かったのだろうか?という懐疑を持ったり、冷静になって考えたりです。
松陰と塾生たちの過激な政治行動、暗殺計画、破壊行為、恐喝。それら事態はいいはずありませんが・・・。
まず一つ言えるのは歴史の中で、もし松陰が、高杉が龍馬がいなかったら、すなわち明治維新は起こらずに日本が欧米列強の植民地とされていたらと考えると、当たり前ですが日本近代史はまったく違ったものになるはずです。
(或いは、その方が後の時代に起こってゆく韓国併合、満州事変といった日本の侵略行為もないわけで良かったのかもしれませんが・・・。松陰も欧米列強に対抗するには、日本も同じように帝国主義になるしかないという考えだったようです。)
もし吉田松陰がいなかったら?と思うと、明治、大正、そして昭和という時代もない西暦1964年に、小生はどのような世の中に環境に生まれたのだろうか? 独立国家であっても恐らく発展途上のその社会に、「平和憲法」「信教の自由」はあるのだろうか?・・・。といろいろ想像してしまいます。
しかし、過去の歴史を誰一人、変えることはできません。

松陰の行動が原動力となった明治維新により誕生した近代国家=大日本帝国。
後の「大東亜共栄圏」はじめとするその対外戦略は、松陰の「幽囚録」(ゆうしゅうろく)の中に記述されている侵略構想をもとにして忠実に実行しているようです。そしてそれは、悲劇の歴史となったことは言うに及びません。
しかし、松陰が近代日本帝国主義のイデオローグ(創始者)として魔のレッテルが貼られようと、昭和のファシズム化した軍の暴走がどんな過ちを犯そうと・・・少なくとも安政5年に生きていた吉田松陰は、純粋に日本の国を民を守るために自ら犠牲となって立ち上がったのだと思います。
本当の悲劇の歴史の創作者は、明治維新以来、天皇制の背後に潜んで日本の国を動かしていたサタンの仕業でありました。
日清、日露、第一次世界大戦と、初めは儲けさせ客(日本軍部)に賭博の甘い味を覚えさせ、それからは逆転して客の金を取り始めてゆく、サタンはまるでプロの賭博師のように・・・。賭博の味を覚えてしまった客は、負けても負けても再度挑戦して迷走し、そして戦後の焼け野原のように最後に全財産を失ってしまったわけです。


安政6年、松陰は萩の野山獄より江戸へ護送用の籠に入れられ送還されることになりました。街道上で萩の城下が見えるのが最後になる「涙松」という場所で、松並木の間に見え隠れする故郷(ふるさと)・萩を見返したそうです。その時、松陰がもう二度と故郷に帰ることができないと覚悟して詠んだのが・・・

「かえらじと思いさだめし旅なれば 一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」という悲しみの歌でした。
江戸に着いた松陰は、大老・井伊直弼による反対派(尊王攘夷派)に対する過酷な弾圧、「安政の大獄」の中で刑死してます。
享年、30歳の若さでした。

「涙松」の歌はH君とともにひときわ感銘を受け、その時の松陰の痛切な心情を思いつつ、萩旅行中はそれをたびたび口ずさんでいました。

旅行から帰ってよく思っていたことは、吉田松陰と、主イエス・キリストの生涯がどこか似ているということでした。
先日見た、あるブログでも二人の共通点として、二人とも30歳前後でこの世を去っている。裁判の後、キリストは十字架で、松陰は斬首というように二人とも処刑されている。何れもその死が弟子たち(キリスト教の使徒たち、維新の志士たち)を目覚めさせ、自らの「志」を実現してゆく・・・といった具合です。
そして忘れてならないのは、二人とも、世の人々が新しい時代、世界の中を歩んでゆけるように、自らが犠牲となっているという点です。
「花燃ゆ」のテーマにもなっていた松陰の座右の銘、「至誠(しせい)にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」というのも本当にいい言葉だと思いました。真心を尽くすということ、絶対あきらめないで誠心誠意、人に尽くしてゆけばどんな人の心も動かされるということを生涯のモットーとして生きた吉田松陰、そして楫取素彦。
ドラマの中で、誠実な二人が「誠」の中に生き生きと生きている姿にとても感動を覚えました。

H君とはこの山口旅行の後、春休みに北海道一周旅行をしました。山口から脱線しますが、この旅行についても一緒に書きとめておこうと思います。
北海道の大地は、今まで旅した地方とはやはり違って大きなスケールでした。国鉄・江差線(えさしせん)の駅から歩き出して一直線の並木道の奥、遠い丘の上に見えたトラピスト修道院。二人で、ベートーベンの田園交響楽、最終楽章をハミングしながら広い大地を歩きました。
日本最北端の宗谷岬では、遠くにソビエト連邦が実行支配していた樺太が見え「北の脅威」を感じました。
夜行列車での車中泊がほとんどの旅で、ある朝、列車はオホーツク海沿いの駅に停車しました。(この鉄道は現在は廃線になっているようです。)駅の周りは何もなくどこを見ても雪に覆われた風景でしたが、時間があったので丘の上まで行って海を見てみようということになりました。ホームから降りて線路を横断し、雪を踏みしめ海を目ざして歩きます。
丘の上にたどり着くと、目の前は青い空と、朝日に輝く白い流氷が果てしなく広がるえも言われぬ風景でした!! 
これが小生の今までの生涯で見た風景の中で、最も雄大で美しい風景だったんじゃないかと思います。きっとH君にしても、若き日に見たこの流氷の風景は生涯忘れられないことでしょう。
もう一つ、函館山からの夜景も綺麗でした。ライトアップされた函館ハリストス正教会の「主の復活聖堂」も下に見えました。
その後、函館の街のレストランで食事をしたのですが、スープの最後の飲み方を教えてくれたH君の姿が今でも思い浮かびます。
函館では五稜郭も二人で訪れています。官軍と旧幕府軍の戊辰戦争(ぼしんせんそう)最後の戦いの地までやって来たわけですが、前年訪れた遥か遠くの萩の町や吉田松陰、高杉晋作もとても小さく感じました。

北海道旅行を終えてからは、今までよりも精神的に大らかな気持ちをもてるようになれました。
その年の夏休みの終わりに、小生はイエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れ、クリスチャンになりました。
主イエス・キリスト様は罪なきお方、神様であられるのに、小生を罪から救うために小羊の如く十字架にかけられ死なれました。そして主は、3日目に死からよみがえり復活をとげています。それを信じたクリスチャンは罪から解放され、イエス様が復活されたように死後によみがえり、天国で暮らせる永遠のいのちが与えられます。
イエス様を信じる確信となった聖句は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(新約聖書、コリント人への手紙 第二 5章17節)でした。
古いものは過ぎ去って、すべてが新しく・・・それは春のオホーツク海沿岸で見た、神様により創造された流氷の目くるめく風景のような、天上の世界を見るかのようでした。

一方、吉田松陰は萩と世田谷の松陰神社、九段の靖国神社に祭神として祀られています。明治維新のカリスマ、神格化された「松陰」・・・。
小生がクリスチャンになってからも、H君は小生の家にたまに遊びにきてくれました。一度だけクリスマスに教会に来てくれたこともありました。
ある日、小生が当時通っていた教会が所属している教団に、牧師たちを中心とした「信教の自由を守る会」という会があることと、首相、政治家の靖国神社参拝の問題や、政治が右傾化しやがて軍国主義になってゆくといったようなことをH君に話したことがありました。その時、彼は「そんなの大袈裟だよ!そんなの気にすることない!」と言って急に不機嫌になりました。そういった会には反発していることが伝わってきて、その日は、はじめてH君の政治的なスタンスを垣間見た思いでした。

その後、彼と最後に会ったのは今から28年前、御茶ノ水の街で交流をもった時でした。
それから二人の若者は、それぞれ別の道を歩んでいったのでした。


そして現在、H君はもう小生のことは忘れてしまったかも知れません。しかし小生は、今も彼の祝福を静かにお祈りしています。
 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿