小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

荻野吟子 ロマンあふれる真実の道

2019年07月20日 | 旅行記

今日はいつかは訪れてみたいと思っていた埼玉県熊谷市の利根川沿いにある集落、俵瀬の荻野吟子記念館に行ってきました。荻野吟子は明治時代に日本で初めて公許登録の女医となった人、そして敬虔なクリスチャンでもありました。

記念館に向かい田園風景の中の道を進むと素敵な向日葵に迎えられ、吟子女史故郷である俵瀬(たわらせ)の集落が見えてきました。


間もなくして荻野吟子記念館に到着。記念館は吟子女史の生家長屋門を模した古風な建築になってます。


まずは記念館に隣接している荻野吟子生誕之地史跡公園を見学しました。この裏はすぐに利根川の堤防でした。


吟子女史は江戸時代嘉永四年(1851年)三月三日のお雛祭りの日、俵瀬村の名主荻野家の五女「ぎん」としてこの地で生誕しました。当時はお屋敷北の堤防はなく、俵瀬村は利根川の増水の度に浸水する「水場」の村であったそうです。因みに嘉永四年はペリー率いる黒船来航の2年前になります。


記念館内に入ってまず目を引くのは吟子女史の衣装、豪華な鹿鳴館スタイルです。


荻野吟子女史(1851年~1913年)。明治の世ではそれまで女性が公認の医師になるという道は閉ざされていました。吟子女史は18年もの間勉学に明け暮れ、たゆまぬ努力と不屈の精神で「日本公許女医第一号」の資格を取得して女医への道を切り拓きました。この肖像写真は医師となって間もない頃34歳の吟子女史が、鹿鳴館スタイルの衣装を纏い凛とした姿で撮影されてます。


かつて医師としての経歴もある作家、渡辺淳一の小説「花埋み(はなうずみ)」は荻野吟子の生涯を題材とした作品です。1971年にテレビドラマが制作されポーラ名作劇場にて放映されました。私も昔、この小説を通して初めて荻野吟子の名前を知ったように記憶してます。小説「花埋み」のある書評によると、「凄まじいまでの努力を重ねた1人の偉大な女性の人生は、切なくなるほど波乱万丈。それでも、次々に訪れる過酷な試練を乗り越え、自分が信じる道を進み続ける彼女の姿には、大きな勇気を貰うことができるでしょう。」と書かれてました。私も近いうちに読んでみたいと思います。小説に描かれているかどうかはわかりませんが、ひたすら自分が信じる道を 真実の道を進む吟子女史の生き様の背後には、きっと重荷を一緒に背負って歩んでくださった神様の導きと支えがあったに違いないでしょう。


吟子女史の手紙。ともに女学塾の助授になり生涯に渡って吟子女史と交流が続いた親友、田中かく子宛のもの。


2019年秋にロードショーの「一粒の麦 荻野吟子の生涯」。メガホンを取ったのは日本で最高齢の社会派女流監督、クリスチャンでもある87歳の山田火砂子監督。吟子自身は明治十九年(1886年)に東京の本郷教会で、海老名弾正牧師により洗礼を受けクリスチャンとなりました。

荻野吟子の生涯は女性としての屈辱から女医を目指した若き日の情熱。そして後半生は、開業した荻野医院に震災孤児を保護する等の社会運動や、北海道に渡り再婚した牧師の夫と共にキリスト教の理想郷建設を目指し、多くの人々の救済のために生きた愛と苦難の生涯でした。山田監督はこの映画を製作するにあたって「男に生まれたいくらい勉強好きだった女性が最期恐らく女性であって幸せだったと、本人も思って亡くなっていっただろうと思う映画にしたい。」と語られてます。またメーキング動画に吟子役を熱演する若村麻由美さんのこんなメッセージがありました。「わたしは荻野吟子さんを通じて、困難に立ち向かう勇気と、あきらめない心を学びました。この映画をご覧くださる皆様に必ず何か、強いエネルギーを持って帰っていただけると思います!」

今回、荻野吟子記念館を訪れた目的の一つに、かつて記念館の案内に吟子女史愛用の聖書の展示があったように思われ、是非その聖書を拝見したいという目的がありました。しかし残念ながら記念館には聖書の展示はなく、北海道せたな町棚郷土館で吟子女史ゆかりの品として愛読していた英語訳聖書の所蔵があるようです。吟子女史愛唱の聖句は新約聖書ヨハネ伝第十五章十三節「人その友の為に己の命をすつる 之より大いなる愛はなし」というイエス・キリストのみことばでした。

 


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