小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

赤城山逍遥 ~大規模レジャー開発の光と影

2014年07月29日 | アート・文化

昨日は車で、6月に紹介しました赤城山のバイブルキャンプに妻を送って、その後は一人で、カルデラ内をあちらこちら逍遥(しょうよう)してきました。
気温は23度で涼しく快適です! 伊勢崎市と比較するとマイナス10度位の差があるようです。
まずは赤城山で最も美しい景色が見られる、「鳥居峠」に向かいました。
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標高1360メートルの緑の森に囲まれた覚満淵(かくまんぶち)と、その奥にかすかに見えるカルデラ湖、大沼の風景は、今回も期待した通りのえも言われぬ眺めでした。神様の素晴らしい創造のみわざを賛美します。
この鳥居峠と麓の利平茶屋(りへいちゃや)の間には、かつて、「
東武」の建設したケーブルカーが設置されてました。ケーブルカーは東武の設立した「赤城登山鉄道」によって運営されてました。
みどり市に現在も「赤城駅」という名の駅が残っていますが、当時、浅草から直通列車「あかぎ」(「りょうもう号」の前身)に乗って「赤城駅」に、そこから利平茶屋行きのバスに接続するといったルートでした。
高度成長期の昭和30年代、赤城山に群馬県と「東武」による壮大な観光開発が始まりました。当時、競合する西武鉄道も、赤城山をその思惑に入れてましたが、土地を県から払い下げて開発を行うという西武の計画案は却下されました。その時、西武が採用されていれば、赤城山にもきっとプリンスホテルが建っていたのでしょう。

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1957年から運行された東武系のケーブルカーは、都内からのアクセスの悪さやマイカーブームの影響を受けて、1968年までのわずか10年間で廃線となってしまいます。写真は廃墟化した現在の山頂駅の様子です。
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鳥居峠を後にして、ひさしぶりに小沼(こぬま)に向かってみました。写真ではわかりずらいのですが、上から見ると火口湖らしい丸い形をしているのが特徴です。
大沼よりもちょっと高い標高の1470メートルに位置した小沼は、静謐で神秘的な空気を呈しています。
小沼の次は、大沼湖畔の大洞(だいどう)方面に向かいました。
道路途中で、大型バイクの前輪が側溝にはまってしまい、困っているお兄さんを見かけました。気になったので車を停めて様子を窺っていたのですが、一人ではタイヤが抜けそうにありません。
「善きサマリア人」という聖書の教えにあるように、そこまで引き返して手を貸してやったら、二人でやればすぐにタイヤが外れました。お兄さんにとても感謝され、そんな小さな親切でも気持ちいい達成感がありました!

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再びバイブルキャンプの前を通過すると、左手にゲレンデのような高原風景が見えてきます。現在は営業しているのかわかりませんが、このスキー場はカルデラの中央火口丘(かこうきゅう)となる地蔵岳(じぞうだけ、1674メートル)の麓にあります。
私の少年時代の70年代、赤城山と言えば象徴的だったのは、地蔵岳のロープウェイでした。上の写真の桜の木々の奥辺りに、当時は白いカマボコ型の屋根をした「赤城平駅」がよく見えました。
小さい頃は、親たちに連れられてロープウェイに乗りました。山頂の展望台から眼下に見えた群青色の大沼が、子供ながらとても印象的で、今でも目に鮮やかに焼き付いてます。
赤城山でバイトをしていた高校生の時は、ロープウェイの下を歩いて登ったこともありました。
こちらのロープウェイも1957年7月から開業して、1998年に運休となり、東武が赤城山から撤退した際にそのまま廃止になったそうです。

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スキー場の反対側には、旧有料道路から湖畔に下りてゆけた道がありました。現在はその道は車両通行止めになっていました。
写真にある更地は、通行止めになった道沿いに建っていた東武系の大型旅館「ホテル赤城」の跡地と思われます。まさに、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」という芭蕉の句を思わせる光景でした。

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満々と水をたたえた大沼と、赤城山の最高峰、標高1828メートルの黒檜山(くろびさん)
黒檜山には、やはり高校時代に登頂しました。山頂付近からの眺望は、外輪山に囲まれた広大なカルデラ地形の様子が、手に取るように眺められ実に感動的でした!
現在は、熊との遭遇が懸念され、小人数ではなかなか登山できなくなってしまったのが残念です。

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大洞を後にして、車で走る白樺樹林帯の中に、かの有名な、「啄木鳥(きつつき)や 落葉をいそぐ 牧の木々」の文学碑が建っています。ここは、うっかりすると通り過ぎてしまいそうな場所です。
水原秋櫻子(しゅうおうし)が、昭和3年(1928年)の俳句会で赤城山を訪れた折に、この句を詠んだそうです。Img_1325
こちらは大洞のほぼ対岸にあたる、静かな沼尻(ぬまじり)地区の風景です。
湖畔にはその昔、与謝野鉄幹、晶子夫妻や志賀直哉が投宿したという青木旅館がひっそりと佇んでいます。
かつて赤城山は、志賀直哉、芥川龍之介、幸田露伴、高村光太郎らの文人墨客にもこよなく愛され、深い森に覆われた静かな山でした。
昭和30年代の大規模観光開発、そして衰退という変遷を経て、今、21世紀の赤城山は深田久弥氏が「逍遥の地」と呼んだ古き良き時代の姿に、再び回帰しようとしているのかも知れません。
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帰り道、新坂平(しんさかだいら)を過ぎた辺りの道路沿いに、高山植物らしき花々が咲き乱れてました。この写真の中でも三種類の花々が、美しく競い合って咲いています。


梅雨明けのリリーズ

2014年07月22日 | アート・文化

今日は関東地方もとうとう梅雨明けになってしまいました。明日から、真夏の暑さをどう凌いでゆけばよいのか、考えなくてはなりませんね・・・
そんな季節は、ハイソな(今はセレブと言うのでしょうか。)人々なら、軽井沢なんかの別荘に避暑に出かければいいのでしょうが、そういった身分ではないのでつらいところです。
またまたバラたちにも、特に鉢植えのものには水やりをしなくては枯死してしまうので、私は、夏の温泉旅行もできない身でありました!

このブログの更新もしばらく休んでましたが、最近、世界遺産を持つようになった伊勢崎市島村の街おこしに、素晴らしいアイデアを発信しているクリエイティブなご夫妻の気になるブログさんにコメントしたら・・・
なんと!「鳩ぽっぽさんの上品で丁寧な作りの♪ブログをいつも敬意の思いで拝見させて頂いております(*^^*)」 という、、嬉しいお返事をいただいてかなり元気が出てきました!!
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ということで、梅雨の庭にひっそり咲いたユリの写真を、ひさびさにUPしようと思います!

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オリエンタルリリーの中で、最も美しい「カサブランカ」。その大きな純白の花弁を拡げた姿は、「ユリの女王」と呼ばれるにふさわしい優雅さです。
春にユリ好きな友人から頂戴した球根が、ついに見事な開花を遂げました!
ここでちょっと郷土史のお話をしたいのですが・・・
最近、あるブログさんで、、いにしえの伊勢崎の地は、なんと!百合の郷であったという「佐韋(さい)の花園」という素敵なエピソードが記されてました。
現在の伊勢崎市街地から東にかけての広い一帯は、古代の昔から「佐位郡」(さいぐん)と呼ばれていたのをご存知でしょうか?
昔々、伊勢崎の町の東を流れる粕川(かすかわ)のほとりには、自生の白百合が咲き乱れていたそうです。
百合のことを、古くは「早由合」(さゆり)と呼び、もっと昔はただ、「佐韋」(さい)と呼んだりしたそうです。その「佐韋」がたくさん咲いていたので、粕川のことを「佐位川」(さいがわ)と呼んでいたそうです。
「佐位川」の周りの広い一帯も「佐位郡」(さいぐん)と呼ばれ、その地名は百合を意味する「佐韋」が語源となりました。すなわち、昔々、この辺りは百合の郷であったという何ともメルヘンチックなお話でした。

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カサブランカの隣には、やはりオリエンタルリリーの「スター・ファイター」が、ハッとするような濃厚ピンクの花を咲かせました!
こちらはご近所のご夫妻が尾瀬岩鞍ゆり園に行かれた際、おみやげに頂いた大切なユリなのですが、、昨年は土から芽も出ずに花壇の中に消えうせてしまい、地中の球根はてっきり消滅したものかと思ってました。。(汗)
ところが、今年の初夏になって、どうもその辺りにユリらしき茎が伸びてきて、なんと!ピンクがかった蕾を付けているではありませんか!!
☆スター・ファイター☆の復活した姿を見た時は、家出して行方不明になっていた不良娘が、二年ぶりに家に戻って来たような喜びでした!

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最後を飾るユリは野趣あふれる山百合で、正式名は「オーラタム・ゴールドバンド」といいます。
オランダで選抜された日本の山百合の逆輸入?で、優雅な佇まいは完成された美しさです。


世界遺産「富岡製糸場」 ~愛しの工女たち

2014年07月06日 | アート・文化

今日は群馬県の誇る世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の中でも、いよいよメインとなる「富岡製糸場」を紹介します!!
「富岡製糸場」はもはや言うまでもなく、日本の急速な近代化政策、殖産興業(しょくさんこうぎょう)を推進する、明治政府の建造した最初の官営模範工場です。
今回、「富岡製糸場」が世界遺産に晴れて選ばれた理由としては、まず、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、「アジアで最初の産業革命」であったこと! そこに日本と西欧との素晴らしい技術の交流、そして革新が生まれました。
それによって、当時、ヨーロッパでもシルクは特権階級の人々だけが身に付けられるステイタスであったものが、多くの庶民の人々もシルク製のストッキングをはけるようになれ、世界の女性を幸せにできた? 
また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の建造物が、現在もそのままの形で残っている・・・
これらのことが、世界遺産に登録決定された理由にあげられると思います。
私も子供の頃にやった「上毛カルタ」では、「に」の札で「日本で最初の富岡製糸~♪」と読まれ、絵札は、生糸を持った可愛い工女さんたちの絵だったのを思いだします。
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私は、2年前の6月に「富岡製糸場」を訪れました。「富岡製糸場」は富岡市街地の中でも、昭和の面影残る町並みの奥にありました。
記事の写真はすべて2年前に撮影したものなので、現在の様子とは多少の変化があるかもしれません。どうぞご了承ください。
m(__)m
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これが「富岡製糸場」の顔となっている1872年(明治5年)に建設された「東繭倉庫」(ひがしまゆそうこ)です! 木骨とレンガで造られた、まさに和と洋の融合した美しい建物です。
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こちらは創業当初から、明治政府によりフランスより招かれた器械製糸技術の指導者、ポール・ブリュナ氏の家族が暮らした「ブリュナ邸」
さて、明治政府は日本で最初の官営工場を操業するにあたり、そこで働く工女さんの大募集を開始しました。繭から生糸を導きだす繊細な作業は、指の細くしなやかな少女たちの手が必要でした。
ところが・・・ 「フランス人の飲むワインは工女の血だ!」というちまたの噂も広まり、最初はなかなか人材を確保できませんでした。
長い間、鎖国の続いていた当時の日本人にとって、西欧人はまだ鬼のように怖い存在でもありました。
この噂を払拭しようと、初代工場長の尾高惇忠氏(おだか じゅんちゅう)は自らの娘、14歳の勇(ゆう)を工女1号として富岡製糸場に入場させ、各地の有力者へ説得に走ったそうです。
その後は、惇忠氏の努力の甲斐あって、士族の娘たちはじめ「お国のために!」と決意した10代の少女たちが、夢と希望を抱いて全国から集まってきました。
彼女たちは「富岡製糸場」というモデル工場で製糸技術を修得し、やがて、それぞれの故郷に帰った後には、各地に建設される器械製糸工場でリーダーとして周りを指導してゆくことになります。
国の将来が自分たちの双肩にかかっているという使命感を持って、彼女たちは、壮大な建造物の中で誇りをもって働きました。

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「富岡製糸場」 の心臓部、「繰糸場」(そうしじょう) 
ここに入って最初に感じたのが、室内が明るい!ということでした。
創業当時は電灯がなかったため、窓はできるだけ大きくして工場内に自然光を採光しているそうです。また、繭から糸を取るにはお湯を多く使用するので給湯システムとともに、工場内に蒸気がこもらないように、屋根には換気の工夫があるのも特徴です。
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こちらは当時の「繰糸場」の様子です。トラス構造の天井や大きな窓など、現在の建物も、当時とほとんど変わってないことが見受けられます。
工女たちの勤務時間は朝7時~夕方4時半までで、日が暮れると工場も暗くなって作業ができなかったようです。
「富岡製糸場」は決してブラック企業ではなく、実働時間は7時間45分、休日は年間で76日、食費、寮費は工場持ち、診療所完備という、当時としてはかなり待遇のいい労働条件でした。後の世の「女工哀史」や「ああ野麦峠」に見られるような、悲惨、過酷な労働はなかったと言われます。
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工女たちに、器械による糸取り技術を教えたフランス人女性教師の住居「女工館」 

「富岡製糸場」での工女たちの毎日は、いろんな面で充実してました。
しかし、どうしても西欧的な労働環境に慣れない者、競争社会についてゆけない者や、人間関係に悩む者。恐らく彼女たちは、現代に生きる私たち以上の多くのストレスを抱えながら、精一杯の毎日を生きていたんじゃないかと思います。
また場内は、現代と比べると衛生上よくない面もあり、機械の騒音や立ち仕事に疲れたり、栄養不足もあったりで、
残念ながら、胃腸病や脚気等の病気で毎年、何人かが亡くなっていったそうです。1880年(明治13年)にはチフスという伝染病で、最多の15人が亡くなった記録も残っています。またある者は精神錯乱を起こして井戸に飛び込み助けられ、ある者は着物のたもとに石を入れて入水自殺を図ったこともあったそうです。
官営時代の21年間だけでも、56名の若い乙女たちの命が失われました。

現在、富岡製糸場付近にある龍光寺の墓地には、30基ほどの工女たちのお墓が残っています。国の繁栄のために役立とうと遠い富岡の地にやってきた彼女たちでしたが、悲しくも異郷の地に散り、故郷には帰れずにそこに眠る彼女たちのことを思うと、なんとも切なくなります。
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そんな工女たちのひとつの心の支えとなっていたのが、製糸場の裏手に位置する甘楽第一教会(かんらだいいち きょうかい)でした。
「富岡製糸場」のある西上州には、同志社の新島襄師の影響を受けた海老名弾正師(えびな だんじょう)はじめとしたキリスト者たちによって、明治初期から各地に「組合教会」系のキリスト教会が設立されました。
甘楽第一教会は1884年(明治17年)に創立され、この教会に多くの工女がかよっていたとも言われています。イエス・キリストの教えが工女たちの新しい希望となって、ここで洗礼を受けた工女もありました!
聖書の中に次のようなイエス・キリストの言葉があります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書11章28節)


「7月4日に生まれて」

2014年07月04日 | アート・文化

雨あがりの朝、ひさしぶりに庭に出て写真を撮ってみました。
今日、7月4日はアメリカの独立記念日でもありますが、我が家では、妻の誕生日なので、、何か
しらお祝いができないか考え中です・・・
妻は今、竹内まりあ、井上陽水とか聴いて♪ いい気分で音楽鑑賞をしているようです。
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何年か前に、ご近所のご夫妻が尾瀬岩鞍ゆり園に行かれた時、おみやげに頂いたオリエンタルリリーの「ベラドンナ」
去年は残念ながら蕾で終わってしまいましたが、今年は妻の誕生日を祝うかのように綺麗に咲いてくれました?
「ベラドンナ」とは、イタリア語で「美しい淑女」だそうです。
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淡いブルーが涼しげなアガパンサス。手前の鉢はたしか結婚した年に買ったブライダルベール。お天気になると白い小花がたくさん開いて、あたかも花嫁のベールのように見えます。おかげさまで今年は私たちも、結婚10周年記念の年になりました。
m(__)m 
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いつの間にか庭の片隅にモナルダがたくさん咲いて、淡いパープルの花々がイングリッシュローズを覆ってしまいました。
モナルダは「ベルガモット」とも呼ばれ、ハーブティーに利用すればいい香りに気持ちもリラックスできそうです。。
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花壇の真ん中に元気に咲いた黄色い花・・・ マム系の花なのでしょうが、うっかり名前を忘れてしまったので調べてみようと思います。もしどなたか、おわかりの方がいらっしゃったら教えてください!
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ウィリアム・モーリスの2番花(にばんか)が、庭に再び美しい芸術的な姿を現しました。
その花姿は、ルドーテの描いたオールドローズの銅板画のようです。
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こちらは雨あがりの「夢香」ちゃん。水のしずくとラベンダーピンクの花色がロマンティックで素敵です。
お天気の朝なら、「夢の香り」という名の通り、、フルーツ&レモン系の爽やかなとてもいい香りを漂わせています。

午後はまた雨が降ってきました。妻はこれから美容院に行くそうです。私は、噂の「ロッシェ」とかいうお菓子屋さんに出かけてみて・・・生ケーキでも買って、誕生日のお祝いにしようかと思います。


世界遺産「高山社跡」とキリスト教

2014年07月01日 | アート・文化

今日は前回の記事、” 世界遺産「高山社跡」~高山長五郎、不屈の精神 ” に続いて、当時、高山社とつながりのあったキリスト教をテーマに記してみたいと思います。

その前に、ちょっと寄り道しますが、地元、伊勢崎市にある世界遺産「田島弥平旧宅」では、その歴史をふり返ると・・・ 幕末時代、島村の養蚕業者たちが横浜の商館に出入りしているうちに、西欧人が毎週、日曜日になると教会に礼拝をささげに行く習慣があることに興味をもったことから、やがて彼等もキリスト教に導かれてゆきました。
またまた、高山社についても調べてゆくうちに、、伊勢崎市にある東京福祉大の先生による「明治期の群馬県藤岡地区におけるキリスト教と養蚕業の関係-緑野教会と高山社養蚕学校を中心に-」といった論文をネット上に見つけました。
論文を通して、高山社も意外とキリスト教と深いつながりがあったことがわかりました。

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先月21日に晴れて世界遺産に登録決定した「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産「高山社跡」

高山長五郎氏亡き後の明治中期以降、彼の編み出した養蚕技法は、全国の養蚕農家に普及して養蚕業のスタンダードになっていました。
その技法の習得のため、東北地方はじめ全国から多くの若者たちが、緑野郡(みどのぐん)藤岡町に移転した「高山社」にやってきました!
また、養蚕学校「高山社」は明治の新しい社会組織の「組合方式」によって運営されてました。
藤岡町の周辺、西上州の養蚕農家にしても、「組合製糸」といった共同事業の傘下に入り、群馬県の近代蚕糸業をけん引していったそうです。

一方で、当時の西上州では、アメリカから帰国した新島襄の影響を受けたキリスト教徒たちが創立した「安中教会」をはじめ、「組合教会」と言われるキリスト教会が増えつつありました。
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1878年(明治11年)創立の「安中教会」は、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会になりました!
1889年には、高山社のあった緑野郡藤岡町にも、組合教会系の「緑野教会(みどのきょうかい)」が創立されました。

明治の群馬県西部に、「組合教会」と「組合製糸」 ・・・この二つの「組合」方式をとった組織は微妙に重なり合って、そこに新しい交流が生まれました。
すなわち、「信仰」と「養蚕、製糸業」がオーバーラップして、同志が同じキリスト教の信仰、或いは精神を持ち、互いに励まし合い、共同して事業を成し遂げていったのでしょう。

実際例として・・・「高山社」で学ぶ生徒たちは、同じ藤岡町の「緑野教会」に集い、町の名士や養蚕農家たちと共にコミュニティを作ってました。
現在も存続している日本基督(キリスト)教団「緑野教会」のサイトの中に、それを裏付ける明治40年代の貴重な写真を発見しました!!
URLはこちらです。 http://www.geocities.jp/midono1889/kyoukaisyoukai.html
こちらのページに「明治40年代の旧教会堂」をバックに撮影した、緑野教会の皆さんの記念写真があります。宣教師さんを真ん中にして、教会の功労者の方々、その周りを多数の「全国から勉学に来た高山社の学生」が囲んでいます。

また、紹介させて頂いた論文によりますと、緑野教会の建設に携わった人々の中に、この地域の教育に功労の多かった大戸甚太郎氏という人物の名があります。記念写真で宣教師さんの左側の女性が「大戸きし姉」とありますが、こちらが大戸甚太郎氏の奥方だと思われます。
甚太郎氏は1884年(明治17年)に高山社に入社して、その2年後に緑野教会で洗礼を受けています。その後、緑野教会および、高山社の事務所、伝習所設立の際は多くの私有地を寄贈したそうです。
養蚕農家出身の小泉信太郎氏は、高山社に入学して養蚕飼育を学び、1886年(明治19年)、21歳で海老名弾正師(えびな だんじょう、安中教会初代牧師)により洗礼を受け、緑野教会で最初の受洗者となりました。政治活動においては若くして地域の中心人物となり、渡米して、現地での生糸の消費流通状況等の視察研究も行い幅広く活躍したそうです。小泉家は大戸家とともに高山社の分教場ともなり、高山社発展の柱になっていきました。