小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

田中正造 その1・・・足尾鉱毒事件解決に命をかけた男

2020年08月01日 | 旅行記

明治時代初期、足尾銅山から流出した鉱毒水や堆積物中の有害物質は、渡良瀬川下流エリアの広大な田園地帯を汚染し農民たちは苦しんだ。汚染農作物による死者は1895年~1900年の5年間だけでも1064人。妊婦の流産、死体分娩の件数も多かった。農民たちは蜂起し、そして衆議院議員・田中正造は彼らを救うために体制に立ち向かい、鉱毒被害を訴える活動を始めその生涯を捧げた・・・。

そんな、足尾鉱毒事件と田中正造を題材とした小説にかつて城山三郎の「辛酸」、立松和平の「毒 風聞・田中正造」などがありました。そして現在、元群馬県議会議長であり作家の中村紀夫氏が執筆中の「死の川に抗して・よみがえる田中正造」が毎日新聞群馬県版に連載され注目を集めています。コロナ禍第2波の今、日本政府は何の対策もとれずまさに羅針盤を失った船のように漂流してます。そうした不安と混乱の中にもう一度、この令和の世の中に田中正造翁のような真実の指導者が現れ、私たち日本国民もまた覚醒して、平和で差別格差なく感染症からも守られ、誰もが安心して幸福に暮らせる社会に導いてもらえないだろうか。

田中正造旧宅

不思議なご縁で中村紀夫先生ご自身の手作りによる冊子「死の川に抗して」を手にした私は、翌日朝には栃木県佐野市小中町にある田中正造旧宅に向かい車を走らせていました。運転しながら神に祈りつつ、はてこの小さな旅の目的は何であろうか?と自問自答の中に、私はクリスチャンの視点で田中正造を見て、願わくはこのブログを通して彼の生き様を証(あかし)したいのだという目的が見えてきました。長い梅雨も明けたかのような青空のもと県道沿いに風情ある古民家が現れ、それが田中正造旧宅でした。この明治初期の建物は、正造が父親の為に建て隠居所として使われていました。

旧宅・隠居所内部

マスクとアルコール除菌をして建物の中に入ると、左手の居間に置かれた堂々とした田中正造翁の肖像画とともに、案内係の優しいおば様が私を迎えてくれました。「あまり時間がないので。」と話すと、ポイントだけを丁寧に説明してくださり、おば様のおかげで本当にいい時間を過ごせました。説明を聞いているうちに・・・一見、奇人変人のような風貌の田中正造自身も、実は心の温かい人であったことが伝わってきました。

直訴状(複製)

明治34年(1901)12月10日、61歳の正造翁が鉱毒問題を決死の覚悟で明治天皇に直訴した時の直訴状。思想家・幸徳秋水が書き、赤い捺印のある箇所は、決行の朝に正造翁が訂正加筆したところと言う。「陛下」の字はきちんと一ます上から書かれている。この直訴状を手に「鉱毒被害の儀につきまして、陛下にお願いに上がりました!」と叫びながら陛下の馬車に突進した正造翁でしたが、つまずいて転倒したところを警官に取り押さえられ、直訴は切なく失敗に終わりました。しかしこの事件と直訴状が号外、新聞で報道されると、社会に大きな波紋を呼ぶことになりました。

隠居所の裏口から中庭に出ると、左手に大きな百日紅(さるすべり)が咲き誇ってました。古木で樹の中は空洞のところが多いのに、紅色の花々がたくさん咲いて夏空に鮮やかです。案内のおば様によるとこの百日紅の木だけが明治からある庭木だそうで、この木がずっとここで田中正造と歴史を見守ってきました。

旧宅・母屋

百日紅の木の下を通り中庭の奥に進むと、復元された母屋がありました。天保12年(1841)11月3日、田中正造は下野国安蘇郡小中村のこの母屋で名主の長男として誕生しました。母屋の建築は構造、手法から江戸時代後期のものと考えられ、当時は藁葺(わらぶき)屋根だったそうですが、復元は銅板葺で再現されています。後に正造翁はこの母屋を、診療所として村に提供していたそうです。

旧宅・母屋内部

床の間に立派な正造翁の写真と、「愛」という書が印象的です。この「愛」の書は明治33年(1900)、数千の農民たちが蜂起し警官隊とぶつかりあった川俣事件で、負傷した同志に正造翁が万感の思いを込めて大書し贈ったものの複製です。田中翁の門徒・嶋田宗三は「田中翁の全人格を一言で表せば愛。」と述べていたと説明書きがあります。田中正造はドン・キホーテのようなひたすら行動者であっただけではなく、主イエス・キリストの弟子ヨハネのような「愛の人」だったのかも知れません。掛け軸の短歌も正造翁の直筆だそうです。

田中正造誕生地墓地

田中正造旧宅の道路の反対側には「田中正造誕生地墓地」がありました。正造翁の遺骨は各地の民衆の希望で、6か所に渡って分骨されています。正造翁は死後も、それだけ多くの民衆に愛されたことがわかります。写真では暗くて見えませんが、墓石の題字「義人田中正造君碑」は正造翁の盟友、島田三郎によって書かれてます。島田は政治家、ジャーナリスト、植村正久牧師から洗礼を受けたキリスト者でもあり、キリスト教人道主義の立場から足尾鉱毒被害者救済運動を支援しました。


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