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アンティキテラとマラルメ

2016-07-08 14:01:30 | エッセイ
 偶然、テレビを観ていてアンティキテラと呼ばれる古代の機械に魅せられた。ネットで調べたら、番組のもととなったと思われる、ジョー・マーチャント著『アンティキテラ――古代ギリシアのコンピュータ』(木村博江訳・文藝春秋・二〇〇九年)を見つけて、購入して読了した。
 紀元前百年頃、ギリシアのペロポネソス半島南端のアンティキテラ島の付近で難破した古代船の残骸が、海底で発見された。一九〇〇年のことである。
 ブロンズ像・大理石像・陶器など満載した船で、小アジアのベルガモンから発し、ロードス島に寄港してシチリア島のシラクサ経由でローマに行く予定であったと後に推定された。途中の難所のアンティキテラ島の断崖で沈没したのである。発見当時の潜水技術では水深の深さ、海流の激しい変化から埋蔵物の引き上げは困難を窮めた。美術品である大理石は、海水で浸食され、ほとんど原型をとどめていなかったが、腐食がひどかったものの、ブロンズ像は、ずっと増しな状態であった。陶器の壺なども、修復が可能な品も含まれていたとはいえ、ほとんど日用品で美術的な価値は乏しかった。数回に別れて引き上げられた品々は、アテネの博物館に持ち込まれた。
 中で奇妙な機械に注意が集中した。箱のような枠組みの中に大小の歯車が組み込まれていたのだ。最大の歯車の直径は十三センチもあった。もちろん、腐食や脱落部分が多くて原型をほとんどとどめていない。およそ古代ギリシア文化と縁の遠い金属の歯車の箱が何のために使われたのか、謎であった。常識的に推測すれば、装置に付された解読不明の記号や文字から、船の位置を測定する羅針盤に類するものか、星の位置から天体を示す天球儀アストロラーベのような機械と思われた。しかし、これらの機械には、複雑な歯車や装置を必要としないことがまもなく判明した。
 長い間、アテネの博物館に放置された機械は、現代に入ると、X線や放射線そしてCT、コンピュータ画像など駆使して、内部構造が調べられ、残されたいくつかの歯車から推定される、失われた歯車の大きさと位置、読み取られた記号や文字盤、予想される配置など学者や技術者などがしのぎを削って、力学的ジグゾーパズルの解明のように、取り組んだ。それにしても、歯車の精巧な組み合わせは、高度な工作技術と数学的な知識を要して、アンティキテラの機械は、古代社会では考えられない水準を示していた。副題に「古代ギリシアのコンピュータ」とあるが、半導体が登場する以前は、歯車こそ、その役割を担っていたといって良く、まさに古代のアナログ式コンピュータなのだ。私たちのような素人でも、歯車の組み合わせ如何によって、速度と力の方向が変えられることは理解できる。
 本書の大半は、この装置の復元に取り組んだ人たちの開発競争がドラマチックに物語られ、その都度、図版や数値を提示しながら、解明された装置の内容を説明している。だが、果たしてどれほどの読者が理解したであろうか。疑問とせざるを得ない。ところで装置は何に使われたのか。最初の開発者プライスは、太陽と月と惑星の位置を表す装置としたが、後の開発者フリースは、太陽と月の「蝕」を予測して克明に示す装置としている。今日においても、完全に解明されたわけではない。本書の扉には、プライスとブロムリーとライトの三人それぞれが、復元したアンティキテラの機械を満足げに掲げて、写真に収まっている。見た目にもかなり違う外形の装置だが、引き上げられたときの木枠の影響であろうか、顔の長さよりやや大きめの書物型の四角い枠に収まっている。
 本書を読み終わって、ふっと奇妙な幻想に囚われた。執筆者のジョー・マーチャント女史の執筆のペンは、(それがパソコンのワープロであっても良いが、)じつは、ギリシアの深海から引き上げられた古代の機械装置によって書かれたのではないかと。彼女が書いているというよりも、むしろ、この精巧な古代のコンピュータによって埋もれた海底から遠隔操作で書かされているのではないか。もしかしたら、彼女ばかりではなく彼女の執筆をもたらしたプライスやブロムリーやライトの研究に代表される、開発者の頭脳も、アンティキテラの機械によって活動しているのではないか。もっと大きく言えば、この装置の目的が広義の天体観測であったとすれば、世界はこのちっぽけな壊れた機械装置アンティキテラによって動いているといえはしないか。
 かつて詩人マラルメは、世界を一冊の本に収めることを夢みたが、アンティキテラこそ、世界を動かす装置なのではないか。ご丁寧にも、装置はあたかも書物のような枠組みにしっかりと収まっている。
ブランショは、『マラルメ論』(粟津則雄・清水徹訳・筑摩叢書)で書いている。
「エクリチュールは書物を経由する、しかし書物はエクリチュールがみずからめざしているもの(その運命)ではない。エクリチュールは書物を経由し、書物のなかに姿を消しながらそこで自己を成就する。とはいえ、ひとが書くのは書物のためではない。書物、すなわちエクリチュールが書物の不在のほうへと赴くときの経路となる策略」(一六六頁)と。(了)

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