おかえりのすけBOOK

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雪でかたどり 豊口克平

2005-03-31 | その他
数日前のエントリー、豊口克平の装丁を補います。

『夫婦50年』

p62)彼と仕事(富美子)

 ……彼の仕事のことで思い出しますのは若い頃産業工芸試験所では、新興産業工芸及び
 輸出工芸の研究をしていましたが、特に椅子の研究には興味をもっていたようで、東北
 仙台の寒い冬、雪の上で人間の坐姿曲線をとった彼独自の研究が御自慢で、今でも時折
 この話を聞かされます。また日本をおどづれていたブルノータウトから受けた生活工芸
 の本質論と、氏の指導には敬服してしまいました。日本人の若い世帯が見たいと言って
 私共の代官山の新居を訪問されたあの日のタウト夫妻の暖い笑顔が、私には今も思い出
 されるのです。……

『夫婦60年』

p61)雛人形騒動(克平)

 ……三月三日の一週間前に軸をかけておいたため、故人剣持勇氏の夫人が遊びにきて、
 私にも描いてくれという。その話を聞いた彼女の二男の嫁さんが私にもという。致し方
 なく二、三日で立雛など新しい図柄のものを描かされて大忙し。……(1991.5 .10)

p69)潰された肺 入園の日(克平)

 ……佐倉駅から長い坂路をあえぎあえぎ登って行く私に、家内は夏の陽をあてまいとし
 て日傘をさしてくれる。厚生園(療養所)の門が見えたとき、三人は一斉に「ここだね
 。」とつぶやきながら、淋しい沈んだ気持ちに包まれていった。……
 私は旧館と呼ばれるもとこの土地の持ち主の殿さま堀田子爵の住宅の二階に案内された
 が誰でも新米がそうされるように、私もこの二階の北側の薄暗い六畳の部屋に入ること
 になるらしい。……この北側の窓から長く見えるアパート式の病棟……(1949)

ここに書かれている「厚生園」は、戦国時代を経て最後に山形の老中堀田正克が10万石で入城して継続、明治23年、佐倉正倫が旧城址近く浅間台に別邸を求めて建設(大工棟梁西村市左右衛門、造園は庭師伊藤彦右衛門)、昭和17年、結核療養所として開園、昭和40年頃から慢性疾患などを扱う病院に。
克平が「アパート式の病棟」とかいているのは、1941(昭和16)年に新橋土橋に吉村設計事務所を設立したばかりの新進気鋭の建築家・吉村順三が、サナトリウムとして設計したものであろう。克平がここで療養中につくった句には、季節の草花がいくつも出てくる。高台にあるこの地は、佐倉厚生園として、かつ、公開された豊かな庭園として現在も在る


p126)伊豆の草崎クラブ(富美子)

 平成元年の二月一五日、京橋の料亭で、伊豆の共同別荘「草崎クラブ」のお別れパーテ
 ィが開かれた。永い間家族のように、親身に働いてくれた管理人「木越夫妻」への送別
 会でもあり、又伊豆赤沢の別荘に、二〇有余年間を、家族のように親しんだグループの
 名残りを惜しむ会でもあった。今から思えば三十年程も昔のことになろうか。世田谷の
 馬事公園の近くにマンション住いの私共は、主人の知人、当時桑沢研究所の理事長をし
 ていた(今は亡き)桑沢洋子さんのお誘いで、伊豆の別荘予定地を見学に行くことにな
 った。……三九年四月一二日(日)午前一時ー二時、草崎クラブ、オープニング・パー
 ティが現地で開かれた。……一階は広いサロン、洋風の個室が「A」「B」とあり、管理
 人室がある。ガラス戸も、障子も壁の中に全部引き込まれると、サロンから海までひと
 続きの空間となる。テラスの三ケ所を太い黒松が自然のままに生き生きと抜き出て、自
 由に枝を伸ばしている面白さ。……家具は豊口デザイン研究所の設計である。右を見て
 も、左を見ても木造の柔らかさ、吹き抜け天井の明るさ、面白さ、素人の私にはただ珍
 しく、木の香に包まれた心の和む海の家、さすが一流の女流建築家、林雅子さんの設計
 である。……

写真は現在の佐倉厚生園。公式ウェブサイトより。

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