初老男のノンビリしたブログ

近所や周辺の事柄に対して、書き記して行きます。

後悔の夜を過ぎて

2016年09月16日 18時41分12秒 | コラム、ぼやき

お前は阿保なのかと問われたら「当然でしょ!」と言えます。
若い頃から、人がしないような夢の事柄ばかりして来ました。
そして夢中になって取り組んで来たのです。
やがて飽きて、次のワクワクに向かい突き進んでいたのです。
 
当然、どこかで無理が祟ります。
現在はそれらの回収作業に追われているのです。
 
昨晩は十五夜でしたが、月は見られませんでした。
テレビでは高感度カメラで、雲海の向こうを捉えて見せてくれました。
ハイテクに感謝するとともに、嫉妬する訳です。
 
あんまり暗闇で目が効くのも問題です。
野生動物だったご先祖様のご先祖達は、目の機能を大幅に捨てたのだとか。
だから哺乳類は夜行性で、目の機能が良くないのだとか。
どうせ真っ暗で何も見えませんからと、見る事を諦めたのです。
 
その代わりに、優れた耳と、髭に鼻先、嗅覚を得たらしいです。
人間が音楽に反応するのは、その恩恵であり迷惑な事でもあるようです。
音の並びで、気持ちが左右されてしまいます。
本来なら、捕食者の足音だけ聞き分ければ良かったのですから。
 
虫の音にまで情緒を寄せる日本人の脳は、優れた耳と脳を持つのです。
近代では耳が機能不全の西洋騒音を、洋楽と言って喜ぶようになりました。
日本人の耳が腐って来た訳です。
ジャンク音楽です。

情緒ある脳の機能が、十五夜のような祭りを生んだのでしょう。
貧しい暮らしの中で、秋の収穫に神の恩恵を思い描けたのです。
 
私なんぞは、情緒の欠片しか無いから、団子となる訳です。
ところが曇天にも関わらず、お店に串団子が見当たらない。
既に売り切った後に訪ねた結果です。
高齢者が増えて日中暇だから、季節ものは早めに流れてしまうみたい。
 
考えも、行動も遅かったのです。
食べられず終いです。
今日の朝にも、コンビニに団子系はありません。
在庫の米粉も、昨日中に売り払ったのでしょう。
週末以降にならねば、手に入らないかも?
明日から連休ですが、その頃には十五夜心傷は癒えているでしょう。
もう欲しくなくなっていると考えられます。
 
阿保なので、心の回復は他の楽しみで癒えて忘れるのです。
子供と同じですね。
違う楽しみを提示されると、目前の不幸が書き換えられて消えるのです。
幼稚だと断定できます。
 
この逞しさと狡さで、心が快調と行きたいのですが、儘にならないものです。
若い頃の苦労が、今になって心を痛めています。
心の古傷が、治り切っていないので、古傷が痛む訳です。
十五夜の団子が見当たらないだけで、古傷の痛みを思い出すみたい。
心の心が痛むようです。
苦労や心配が終わらない、終わっていません。
 
せっかく心理学を勉強しているのですから、自己修復しなくちゃ。
このままでは費やして来た費用や時間が勿体ないです。
慈愛して労わって、慰めてやりましょうか! 
 

(夕方スーパーで、残り物団子を手に入れました。愚痴ってみるものです)