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惨禍を繰り返さぬ決意新たに ― 75回目の終戦の日

2020-08-18 | 正しい歴史認識を

 日本がアジア・太平洋戦争に敗北した1945年8月15日から75年です。絶対主義的な天皇制国家だった戦前の日本が海外での領土と利権の拡大を狙って始めた侵略戦争は、日本国民とアジアをはじめとする世界の諸国民に甚大な被害を与えました。新型コロナウイルスの感染拡大という戦後かつてない事態の中で、改めて平和の重みをかみしめ、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」(日本国憲法前文)決意を新たにしたいと思います。

世界の流れに逆らい

 「8・15」を前後して戦争と平和に関連した書籍の出版やテレビや新聞での特集、映画の上映が相次いでいます。ドキュメンタリー映画「日本人の忘れもの」は戦争で国家に捨てられたフィリピンと中国の残留邦人の過酷な実態を描き、戦争被害を直視した作品です。

 日本の侵略戦争は、31年に当時「満州」と呼ばれた中国東北部で日本軍が始めた「満州事変」から本格化し、37年に中国全土、さらにアジア・太平洋全域へと拡大されました。敗戦までに310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア諸国民が犠牲になりました。日本国内だけでなくアジア諸国にも大きな被害を与え、その深刻な傷痕は今も消えません。

 日米関係史などを専門とする油井大三郎氏の近著『避けられた戦争』は、「満州事変」に至る日本と世界の動きを丹念にたどり、戦争回避の機会があったのに、無謀な戦争に突入していった当時の支配層の姿を浮き彫りにしています。

 戦争は自然現象ではなく避けられないものでもありません。第1次世界大戦後に生まれた不戦条約などの新しい平和の国際潮流に逆らい、侵略戦争に突き進んだ日本の軍部や政治家の責任は重大です。国民は真実を知らされず、戦争への批判や反対の運動は強権で弾圧されました。当時の翼賛的なマスメディアは政府と一体で、戦争遂行をあおり立てました。この過去は絶対にあいまいにできません。

 戦前の東条英機内閣の一員でA級戦犯容疑者だった岸信介元首相を賛美する安倍晋三首相には、日本の侵略戦争に反省がありません。それを鮮明にしたのは2015年の戦後70年にあたっての「首相談話」でした。「侵略」や「植民地支配」などの文言はちりばめたものの、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」を行ったという戦後50年の「村山首相談話」などに示された歴史認識は全くありません。油井氏の著書は、「安倍談話は、戦争にいたる過程が、欧米列強による『圧迫』などどこか『他人のせい』にされていて、主体的反省が欠如している」と批判しています。この姿勢では近隣諸国はもとより、国際社会からの共感も信頼も得られません。

9条こそ平和の力に

 過去の戦争への反省を欠いた安倍首相は、再び「戦争する国」になる9条改憲の旗を振り続けています。しかし、国民は「安倍改憲」を求めていません。日本世論調査会の調査では、日本が戦後、戦争をしなかったのは9条があったからと評価する回答が最多の47%です(「東京」2日付)。

 二度と戦争の悲劇を引き起こさないというのは、戦後日本の出発点です。「政府の行為」による戦争を繰り返させないため、安倍改憲などの策動を阻止しましょう。

 

 

再び戦争許さない

「赤紙」配り札幌で宣伝

写真

(写真)「戦争は二度とごめんです」と訴える女性たち=15日、札幌市

 75回目の終戦記念日の15日、北海道では、女性たちが「悲惨な戦争は二度とごめんです。核兵器も基地もない平和な日本をつくりましょう」と、多くの国民を戦争に駆り出した「赤紙」(召集令状)の複製を配りました。中学生や高校生、若者らが受け取り、500枚があっと言う間になくなりました。

 強風が吹きつける札幌駅前。さっぽろ平和行動実行委員会の女性たちが防空頭巾ともんぺの戦時中の衣装で登場し、注目を集めました。「紙切れ1枚で戦争に行かなければならなかった。『赤紙』にはその人の命が入っている気がします」と語るのは中学1年の女子生徒(12)です。

 「曽祖父が戦地に行く途中に亡くなったと祖母から聞いていました」と語る高校1年の男子生徒(16)は「二度と戦争は起こしたくない」ときっぱり。

 教科書に小さく載っている「赤紙」を見たという高校3年の女子生徒は「選択もできないで強制的に戦争に行かされるのは間違っています」。

 初めて「赤紙」を見たという大学2年の女子学生(19)は「ドキュメンタリーで殺し殺される戦地の悲惨さを知り、語り継いでいかなければと思います」と力を込めました。

 吉岡弘子日本共産党市議が参加しました。

 

 

全国戦没者追悼式 平和誓う遺族語る

戦後75年 今も続く悲しみ

戦争は理不尽 9条改憲反対

 終戦から75年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、全国から200人以上の遺族が参列しました。遺族に引き渡せなかった遺骨が納められている同区の千鳥ケ淵戦没者墓苑でも、家族連れや若者など多くの人が訪れ、花を手向け手を合わせました。今も消えない悲しみと、平和への思いを聞きました。(芦川章子、和田育美)


日本武道館

 新潟県南魚沼市の女性(75)は父(当時36)をフィリピン・ミンダナオ島で亡くしました。補給を無視した無謀な作戦で多数の餓死者・病死者を出した激戦地です。「お国のために」と戦場に向かった父は「水一滴も飲めず」に亡くなりました。

 「かわいそうなんて言葉では片付けられない。75年たっても悲しみは癒えない」と声を詰まらせます。再び「戦争する国」へとつながる9条改憲には「絶対に反対。これからの若者に戦争なんて絶対にさせちゃいけない」と語気を強めます。

 滋賀県近江八幡市の男性(64)は、叔父が25歳で戦死し、父親は3年間シベリア抑留を体験しました。「(叔父が)怒っている姿は一度も見たことない」という父の言葉が今も心に残ります。

 「兵隊だけじゃなく、小さい子や普通の人も戦争の犠牲になった」と胸を痛めます。「自分も他人も共に助け合って生きていかないといけない。笑っていられることが平和だよね」とにこやかに話します。

 川崎市に住む女性(75)は兄(当時21)を失いました。輸送船の上で戦死したとされ、場所は「南方洋上」とだけ伝えられました。「母はすごく悲しんでいた。戦争はやってはいけないと後世に語り継ぐためにも、式典は続けてほしい」

 千葉県銚子市の男性(77)の父(当時30)はビルマ(現ミャンマー)で戦死し、遺骨すら戻っていません。農家の長男だった父の死後、農業を守るため母と懸命に生き抜いてきました。「日本の侵略戦争のために、大勢の若者が死んだ。戦争にくみしてはいけない」

 愛知県北名古屋市から参加した女性(75)は、父がフィリピンの船上で戦死し、面識はありません。「母も生きることに必死だったから、父の話はあまりしなかった」とふり返ります。みんなが飢えていた時代。両親がいれば生活は違っていたのでは、という思いは消えません。

 「戦争は理不尽。あってはいけない。憲法9条は変えてはいけないし、広島や長崎のことを安倍首相はもっと世界に発信してほしい」と語りました。

千鳥ケ淵墓苑

 夫婦で訪れた都内の保育士の男性(49)は、祖父が戦死しました。「父が2歳の時。父からよく聞かされていた。祖父のためだけでなく、皆のために手を合わせた。戦争のことは自分の子どもたちにも話しています」

 一緒に参拝した妻(45)=フリーランスのデザイン業=は「毎年来ている。来なければいけないと思って。東京大空襲の話を聞いて育ったので、戦争は反対して当然と思っていたが、おとなになった今、そうじゃない声がある。当たり前のことは当たり前ではない。今の平和をつないでいかないといけない」と汗を拭いながら語りました。

 

                                                          ― しんぶん赤旗より ― 


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