鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】知的活動というか好奇心を満たす活動というか…それについてw(適当

2016-11-08 06:07:32 | 考察

ここ数日、仕事と交際に忙殺されて創作活動的なことと好奇心の赴くままな活動がご無沙汰だった。

時間的な余裕のなさが原因なのだとばかり思っていた。余剰空間に埋まるべきものが必然的に埋まっていく、物理の法則がエネルギーの差(温度差、密度差、気圧差、etc)を嫌うように、人間の心理的な作用にもそうしたものが作用しているのだと期待していた。生物の中で唯一理性を獲得したヒトが、退屈を嫌って多くの禁忌へ時に躊躇なく手を出してしまうのは、退屈という何かしらが欠け或いは不足しているという穴がまるでブラックホールのように存在していて、それは理性をも飲み込んでとにかく"埋まろう"とする。それを根拠として扱うことが相応しいかどうかはさておき、つまるところはマズローの欲求段階説でもあるように、満たされてなお余裕のある状態においてに限り、知識欲なり自己実現欲を満たそうとするのだとすれば、最近は忙殺されていたから知識欲なり自己実現欲なりが湧かなかったのではないか?と思うのは妥当だと言えないだろうか。

しかし、先ほど睡魔を感じつつも貴重な休日を寝て過ごすのは如何なものかと、寝床で横になってスマホ片手に最低限の労力でネットサーフィンに興じていたら、なんだかんだで興が乗って今ではPCを起動し調べ作業の前にこうして今回の体験を執筆している始末である。

「作業興奮」というものがある。言説や根拠や出自や研究データ発見されておらず、それについて執筆記事があるブログ主曰く「単なる造語であり、ネーミングセンスと共感者の多さから言葉自体が自ら勝手に普及したものではないか?」という意見があり、そのメカニズムの信憑性は不確かだが、仮にこのメカニズムを肯定する前提で話を進めるのであれば、今回の俺の心理状況に綺麗に当て嵌まる。

きっぱり寝るつもりで寝床で横になり、スマホを触らず目を瞑り続けていたのであれば、この記事が存在していない世界の朝を迎えていたことだろう。

「作業興奮」の信憑性やメカニズムについては置いておくとしよう。問題は、今回の創作活動と知的活動へのやる気が湧いた理由についてである。

忙殺され気味の最近、本日も仕事と日課を終えてあとは寝るだけという状況において、冒頭でも書いたような「時間的な余裕があった」とは些か考えにくい。感覚としては睡眠時間を削って徹夜状態なのだ。健康的な入眠に十分な眠気もあるほどに。

さて本題。

「マズローの欲求段階説」と「作業興奮」が今回俺の中で否定された。好奇心を満たす活動、ここではそれを知的活動と定義するが、今回その知的活動へのモチベーションが、「心身の疲労度合いに関わらず上昇傾向に動いた」。

これは個人的にとても貴重な体験である。というのも、肉体を酷使する労働を日々8時間以上続け、オフタイムに美食や友人知人と交際をする生活の中では、創作活動なり知的活動なりへのモチベーションを維持するどころか0から1にすることは困難だと思っていたからである。「人の一生なんて仕事して飯食って、たまに仲間と酒を飲んだり遊んでいれば幸せに過ごせる」と言われれば確かにそうなのだが、(定義については省くとして)遊びでも仕事でもない"好奇心の赴くままに活動すること"が人生を豊かにしていくうえで、俺にとってはとても重要なことなのだ。

美食、嗜好、女遊びor男遊び、仕事熱心。大いに結構。しかし"彩り"という意味では、俺としては非常に物足りない。飽くなき探求と追究、そこに存在する情熱にこそ、媒体がなんであれ俺は魅力を感じる。

そこで忙殺である。不安や焦り、そして疲労や生理的欲求の不足と不満があるうちは、好奇心を育む機会が得られない。そういう時は、とりあえず休息、とりあえず娯楽というふうになってしまう。しかしそうした営みが状況によって必要であり時に尊ばれるべきであることも事実。でも俺はそれをどうにかしたい。

なぜならそうした日々を送っているうちに人は老いてしまうからだ。積もった思い出のひとつまみを顕微鏡で覗いてみても、どこそれの店の料理だのどこそれの男や女との猥談だのが並んでいるだけの人生の価値というのは如何ほどだろうか?

知見でもいいし環境でもいいし技能でもいいからステップアップや開拓があったほうが絶対に良い!というのが俺の価値観である。衣食住の充足は、自然と好奇心がそれを年収という名の副産物にしてくれると、俺はそう期待している。

「鉄は熱いうちにうて!」それを理解していくらそうしたいと思っていたとしても、鉄が熱くなるにしても、そもそも鉄を得るにしても、そして打つための槌を得るにしても、それは待っていれば自然と寄ってきたり降ってくるようなものだとばかり思っていた。しかし自分で着火させて始動できるものなのだという確信に近づいた気がした。

「疲れたし腹が減ったからたまには美味いものでも食べよう」「たまにはパーっと楽しもう」それでもいいかもしれないが、当然のことながら安くは済まない。知的活動なり創作活動なりをするためにもお金はかかるし時間もかかる。日々と将来に発展を呼ばない短期的な発散である前者と、新たな可能性や貴重な体験に満ち溢れた後者とで、どちらが優先されるべきかは明白だろう。この平和で飽食な時代だからこそ特に。
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