ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その9)慎重さを欠いた脇の甘さが仇と・・・?

2014-12-06 07:13:03 | 自分史
 風俗に手を染めた時期とどちらが先だったかはっきりしません。私が40歳の初夏、出張で郷里の大学病院に行ったついでに実家に泊まったときのことです。両親と顔を合わるのは文字通り久し振りのことでした。

 私の母は一度も他人の飯を食べた経験がない家娘(私の郷里の田舎ではこう呼びます)で、父を入婿として迎えたのですが、それだけに我儘そのものの人でした。気に食わないことがあると周りに直ぐ当たりだします。その時も丁度そんな状態で、久々に帰った私も騒動に巻き込まれてしまいました。

 久々に会う息子相手だからこそ腹に貯めていたことが一気に噴出してきたのでしょう。父と一緒に住んでいるのが我慢ならないとゴネ出したのです。毎度のことで原因がよく分かりません。最初は宥め役を務めていたのですが、酒も入っていたので、そのうち売り言葉に買い言葉で、遂には父を引き取ると啖呵を切ってしまいました。さあ大変です。

 妻には電話で経緯を告げただけで、どうにか出張に都合をつけ父を陸路新幹線で連れ帰りました。同居が始まっても私は仕事に追い捲られて、ろくすっぽ父の相手をしてやることもできませんでした。父は手持無沙汰で退屈だったろうと思います。1ヵ月半ほどして母から電話があり、父は郷里に帰って行きました。私は仕事で見送りにも行けませんでした。

 父との同居事件から間もないお盆休みの初日、N先輩がかつて責任者であった化合物A(うっ血性心不全治療薬)で、あるデータ捏造事件が発生していたことを全国紙が嗅ぎ付け、重大事件として大々的に報道しました。

 化合物Aについては発売直後から服用中の患者が死亡する事例が報告されており、使用に際して全例の調査が当局から指示(行政指導)されていました。その調査データの一部を病院担当者が捏造してしまったというのです。医師が調査に協力してくれなかったので、仕方なく病院担当者が自分で調査データを造ってしまった、というのが後から聞こえてきた真相のようでした。

 経験の浅い病院担当者だとしても、あまりにも想像力が貧困で迂闊です。会社としても、不祥事が全国的に報道されたことで消費者商品への影響が懸念され、医薬品についても国公立病院への営業活動が半年間停止となるなど事件の影響は全社に及びました。盆休みに入る前日、N先輩の顔が妙に引き攣っていたことに合点がいきました。

 新聞報道の直後に会社から臨床開発部門全員の召集が掛りました。医薬品事業の中枢の一つだからだと思います。社長から直接話がありましたが、内容はよく覚えていません。治験時代のデータも改めて調査の対象になることに備え、部内に特別プロジェクトが組まれ作業用の大部屋も確保されました。

 私のチームからも元担当者ということで1名が駆り出されました。私個人は担当業務のみに専任できましたが、少し前から私を含めやっと6人体制になったばかりのスタッフから1名抜けるのは痛手でした。なにしろ肝心要の比較検証試験が3本も進行中でしたから・・・。

 件の化合物Aのかつての担当PMとして、また現職の部長としてN先輩は我々部下に詳しく説明すべきと思えました。外部から求められた場合に備え説明内容の指示はありましたが、開発中の知見と事件の発端となった死亡例発生との関係など、期待に即した説明はありませんでした。当然ながら、事件に関する一切については厳重な箝口令が敷かれました。

 事件を受けてN先輩がしたことと言えば、特別プロジェクトのメンバーに化合物Aの臨床開発段階のデータや当局への提出資料などの点検・確認作業を命じていただけだったようです。当時の私にはそれが潔さに欠けた責任逃れにも見えました。

 私の方は、事件報道の衝撃で途方に暮れ、仕事に手が着かず、放心状態がしばらく続きました。先行きへの不安と事件による社内の混乱への憤懣もあって、いつも通りの一人酒が一層荒れた酒となりました。

 今振り返ってみると、会社の採った情報統制という対応は仕方のないことと思います。不確かな情報が外部に漏れることは事を混乱させるだけです。事件発覚後、得体の知れない人物が会社に入り浸って電話を掛け捲っていたことを今でもよく覚えています。マスコミが嗅ぎまわっていたのです。

 この少し後だったかと思います。社長から読むようにと回覧されてきた図書に「Strong Medicine」という小説がありました。

 ほとんど粗筋を覚えていませんが、主人公の副社長が臨床開発担当者に疑念を持った場面がありました。会社の主力商品の医薬品に重大な副作用が報告されて会社が危機に陥ったとき、開発段階で既に臨床開発担当者は副作用発生が予見できていたのでは(?)と副社長が疑いを持った場面です。その山場の場面が妙に暗示的だったという記憶があります。

 会社は10数年足らずの間に自社開発品を5成分も承認取得し、その内販売中であった4成分では安全性に何ら問題が出ていない実績から、新薬・化合物Aの発売に舞い上がって緊張感を欠いていたのだと思います。

 本来は発売から最低でも1年ほどは安全性に細心の注意を払い、慎重な営業活動であるべきだったのです。販売促進にのみ勢力を傾注したまま、発売間もない時期の死亡例報告に危機感を抱かず、細心であるべき全例調査への取組み不足が仇となったのです。タガが緩んで脇の甘さを突かれた事件だったと思います。成功体験は慢心の素でもあります。

 事件から3ヵ月ほどで社内に平静さが戻ってきました。死亡例の発生原因究明と社長直轄の特別専任プロジェクトを組んで全例調査の徹底を図ることで当局と折り合いが着いたのです。

 マスコミ報道で社内が浮足立っていた時、「このまま、仕事を放り出すことになるのかな?」という考えが一瞬脳裏を過りました。渦中にいて客観的な状況も先行きもよく見えなかったからです。

 しかし、このまま業務を続行するしかないと即座に腹を決めました。マスコミが今後どこまでどう報道して来るのか、当局がどう出て来るのか、その動静が大いに気になっていました。戦力不足で不安な状態でもありました。それでも、現状を維持せざるを得ないという簡単な結論に至りました。

 他に選択肢が浮かばないわけではないのですが、敵前逃亡には本能的に抵抗があるのです。「ここで逃げちゃダメだ」と即座に反応してしまいます。転職という選択肢が仮にあったとしても、「敵前逃亡では分が悪い。“稼ぎ”がシッカリ確保できるかどうか分からない」という現実的な損得勘定最優先の判断です。

 暇な仕事ばかりで実績を積めず、年末の人事異動で転勤になりはしないかと恐々としていた30歳前後の頃とはエライ違いです。ある意味、現実的で腹が据わった判断が出来るようになっていました。仕事で実践を積むことが人を育てるというのは私の実感です。

 内心までは分かりませんが、チームのスタッフ各人にも出来ることは淡々とこなす姿勢が見て取れました。重いストレスを抱えながら、打開策も浮かばず、途方に暮れながらも「やるしかない」日々が過ぎて行きました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その10)につづく



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