ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

継続できれば楽になれる?

2017-12-29 08:39:54 | 病状
 断酒中のアルコール依存症(アル症)者は、人付き合いが下手と自認している人が多いのですが、それだからか、それでいてなのか、やることは両極端に分かれるようです。

 一方で、人前で話すのが殊の外苦手とする人がいるかと思えば、それとは逆に何かと人を支配したがる人もいます。そんなことからでしょうか、大体断酒2年ぐらいまでの断酒歴の浅い人が自助グループ内で結構イザコザを起こすようなのです。

 恐らくこれは、想起障害・思考プロセス障害や自信過剰・自我の肥大など、背後にあるPAWSというアルコールの後遺症(?)のせいかもしれません。話そうとした途端、なかなか考えがまとまらないのが想起障害・思考プロセス障害の特徴ですし、何かと人にお節介したがるというのが自我の肥大に当たります。このため些細な言葉の行き違いが起き、いとも簡単に仲違いすることもザラなのです。言葉がストレスとなって、変に偏った解釈に陥りやすいのもPAWSの特徴です。

 この3年9ヵ月の間、AAのミーティング会場2カ所で私が見てきた範囲内のことですが、毎回欠かさずミーティングに出席するメンバーで仲間と連れだって来る人はいません。逆に言えば、仲間と連れだって来る人で長続きした人はいないのです。ほぼ毎回出席している面々は、いずれのミーティング会場でも大体5~7人程であり、各々1人でやって来ては顔見知りの仲間と談笑するというのがミーティング前の定番となっています。これを深読みすれば、長続きしてきた人は仲違いのハードルを目出度く乗り越えてきた人とも言えそうです。

 そんなミーティング前の談笑の場でのことです。専門クリニックの近くにありながら、なぜクリニックの患者仲間がこの会場では少ないのかという話題が発端でした。

「ヒゲジイさんがここに連れて来た人って、今では誰も来なくなりましたよね? 今まで連れて来た人数と言ったら、4~5人は下らないのでは?」

「言われてみればそうだよねぇ。私の不用意な言葉に腹を立てた人もいたし、世話人のチェアーと諍いがあった人もいたねぇ。大方がソーシャルワーカーに口うるさく言われて渋々っていう人だったからねぇ。
 まぁ、(ミーティングに)馴染むのには相当時間が掛かるものなのに、馴染むまで恐らく待てなかったんだろうねぇ。
 そうそう、SLIP(再飲酒)してしまった後ろめたさから来れなくなった人とか、休み休みしているうちに来づらくなった人とか、色々のようだねぇ。」 

「ぼくも2年前、ソーシャルワーカーに口うるさく言われて参加した口です。一時、中間作業所にも通い始めたんですが、気分の動揺が酷くてSLIPを繰り返していました。それでソーシャルワーカーからミーティングの方も止められました。
 それでもやはり続けてみようと、自分1人の意志でミーティングを再開したんです。」

「ほぉ、そうだったの。それなら、なぜまた続けようと思ったの?」

「断酒歴の長い仲間を見ていると、今でも飲酒欲求があるなどと気楽に話していますよね。
 そんな姿を見て、見倣うべきところは見倣えばよい、できることだけやってみようと考えるようになったんです。
 今では何が何でも断酒しなければというのではなく、無理せずに節酒でもいいやぐらいに思うようにしています。
 そうしたらSLIPしても連続飲酒にはならなくなり、少し気が楽になり出しました。そんなことで、これからも気楽に続けていこうと思っています。」

「その通りでいいですよ。実はネ、このミーティング会場に来られている断酒歴の長い人にはクリニックの同窓の人が結構いるんです。
 皆さんホーム・グループは別々なんですが・・・、どなたも自分の意志で、たった1人でここにやって来られていますよ。」

 恐らく初めの頃は、誰しもミーティングがどんなものかも分からずにオッカナビックリやって来たというのが本音でしょう。それでも何とか酒を止めたいという気持ちだけで、勇気を振り絞ってたった1人で出席してきたのだと思います。かく言う私も “たとえ1人でも” の気概で継続してきました。

 とかく無理してでも自分の居場所をミーティングで確保しようと思いがちですが、それではうまくいきません。居場所の確保などとは思わず、馴染むまでじっくり待つことです。

 “たとえ1人でも” の気概さえあれば、継続する力となってくれます。そして継続できさえすれば、そのうち楽になれること請合いなのです。エラソウに言えるほどの経験はないのですが、継続こそが力なり、こう思えるようになりました。


皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。


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エスコートで知った老化の現実

2017-12-26 06:02:37 | 雑感
 ついこの間、耳の老化について記事にしたばかりですが、今回は脚の老化についての話です。市役所前兼駅前が話の舞台です。

 駅脇を通る幹線道路には踏み切りがあり、普段ならよく遮断機が降りて車の渋滞が発生するところです。その幹線道路に面した駅前のタクシー乗り場の端で、先日、杖をついた老女がひとりで立っていました。歳の頃は80代後半のようでした。どうやら道を横断しようとしていたらしいのですが、数珠つなぎの車はノロノロながらも動いていて止まってくれる気配はありませんでした。私も老女の側に立ち止まりました。

「あなたはどこに行くの?」と、その老女が私に聞いてきました。
「真向かいの信用金庫です。おばさんは?」
「わたしゃ、その隣のコーヒー店。」
「じゃぁ、一緒に渡りましょう!」少し離れた信号が赤となったので、すかさずその間に渡ることにしました。

 さぁ渡ろうということで手を繋いでみると、彼女の素手はカサカサして冷えていました。その手をしっかり握りしめて車の間を横切り始めたのですが、そのとき初めて彼女の足取りが殊の外遅いことに気づかされました。

 自分の歩幅でいつも通りに歩こうとした私なのですが、彼女が私を後ろに引っ張ろうとしたのです。いや、引っ張っていたのではなく、彼女の脚が追い追い付けなかったと言った方が正確でしょう。歩数からすると精々11~12歩ぐらいの道幅なので、彼女も精一杯歩こうとはしていたのです。ところが脚の方はと言うと、一向に言うことを聞いてくれなかったと言うわけです。

 どうにか渡り終えたので、彼女は深々と頭を下げて「ありがとう」を繰り返していました。私の方はと言えば、聞きしに勝る老化の現実に吃驚でした。老いが進むと足に1~2 kgの重りを付けたような感覚だとは聞いていましたが、こんなにも重く遅い足取りになろうとは私の想像力を遙かに超えていました。

 以前に比べたら私も随分歩くのが遅くなりました。元々身体が硬いこともあって、どことなく動きがぎこちなくなってきています。思い通りに足が上がっていないらしく、間合いが取れずよく躓きもします。30分以上歩き続けると、決まって足が重たくなってきます。随分老けたものだと自分なりに自覚はしているのです。

 そんな私ですが、身をもって老女の厳しい現実を体験し、今更ながら老いの行く末に覚悟を新たにした次第です。もうじき67歳になる年の瀬の出来事でした。



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プロセスを生かすには記録が必要

2017-12-22 06:50:53 | 雑感
 ある方のブログに『結果よりプロセス重視で!』という記事がありました。表題を目にした途端、思わず苦笑いをしてしまいました。実はこの言葉から、つい思い出してしまったのがかつて毎年あった人事考課のことだったのです。

 現役時代、手渡された新しい基本給の支給額を見る度に、「上司(考課者)がもっとプロセス重視でやってくれたら」と、いつも恨めしい思いをしたものです。大した成果を上げてもいないのに、自分を棚に上げての恨み節。いかにも他人任せの他人頼みで、依存気質そのものであったのかよくわかります。まだ独り立ちできてない頃のことでした。

 後に考課者となって初めてわかったのですが、考課者である上司としては目に見える披考課者の成果でしか評価できないということです。いくらプロセスも評価して欲しいと言われても、目に見えないものは評価のしようがありません。

 プロセスとして傍から目に見えるものと言ったら、前向きな勤務態度を初め、仕事をサボっていないとか、取引先とトラブルを起こしてないとか、マイナス評価となる要素がないことぐらいのものなのです。精々、評価に値する時間短縮があったとき、初めてそのプロセスを評価の対象としたものでした。やはり評価はすべて結果が対象なのです。

 著者の主張は、プロセス重視は唯々経験を「必ず次に生かす」ためであって、決して評価するよう他人に求めることではないということです。この主張に今の私は全面的に賛同します。

 私なりに一つ付け加えるならば、記録に残していなければプロセスには何の意味もないということです。「ひょんな失敗が新発見に繋がった」、自然科学系のノーベル賞受賞者がよく言う言葉です。裏返せば、如何に彼らが記録を詳細に残してきたかを物語っていると思います。詳細な記録がなければ失敗を再現できず、その原因分析がなければ新発見にも至らなかったと思うのです。

 私たちの生き様も同様だと思います。記録がなければ曖昧な記憶頼りの印象でしかなく、手前味噌の感傷に浸るだけともなりかねません。まぁ、体の良い “思い込み” です。その都度その都度記録に残し、折に触れて記録を振り返って分析してみる。それが初めて経験を「必ず次に生かす」ことに繋がるのではないでしょうか。



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これって義憤? それともひがみ?

2017-12-19 06:53:39 | 世相
 私の住んでいるところは海浜を埋め立てた造成地です。中心部を高層住宅群が、その周りを中層住宅群が、さらに外側を戸建て住宅群が順に囲むという、大規模なニュータウンによく見かける住宅構成となっています。地域全体に公園を多数配置し、中央に遊歩道を通して緑を多くしてあり、あたかも地域全体が公園のような景観を呈しています。
 この地域に限ってのことですが、ゴミ収集には地下にパイプラインを埋設した吸引収集システムが採用されています。元々が埋立地の住宅地ですから、常時ゴミ出しができる利便性をダシに住民を高・中層住宅群に呼び寄せようとしたのがそもそもの発想だったそうです。
 全国的に見ても斬新な試みだったのですが、このゴミ収集システムの大部分は供用開始から40 年近く経過し、パイプラインの老朽化がかなり進みました。システムを維持継続するには何百億円という莫大な経費が見込まれ、さすがに行政側から廃止の声が上がりました。
 ゴミ出しの利便性が損なわれるので、住民側としてはこれに反対するのは当然です。特に高層住宅の住民にとっては死活問題で、常時ゴミ出しができなくなれば容易くスラム化する恐れが大なのです。他方、戸建て住宅地区にとっては大した問題ではなく、ゴミ出し場のカラス対策さえ万全であればいいはずです(つまりこの地区はオマケ)。私個人としても、道で拾い集めたゴミを処分できなくなる恐れがあり、放っては置けない問題でした。
 こんな事情から行政 ― 住民代表間の協議会が設けられました。ほぼ1年で12回の会合を経て、今後20年間は存続させるという中間報告がまとまったばかりです。私は第3回目の会合から傍聴者として参加しています。
            *    *    *    *    *
 ついこの間、この協議会を傍聴した日のことです。このところ傍聴席からの発言が多く、会議の進行がその都度横道に逸れることが続いていました。この日も同じような成り行きで、戸建て住宅地区の住民2人が発言を繰り返していました。戸建ての住民だけあって、いかにも社会的地位のある高額所得者然とした風貌をしていました。

 発言内容はと言えば、「海外駐在で見知った外国のシステムがよかったので、それを導入しては・・・」、あるいは「車で乗り付けて来る部外者が投入口の鍵を持っていて、どうやら不法投棄らしい・・・」という類い。どうみても議題からズレた興味本位の発言で、代り番こに “上から目線” で意気揚々と発言を楽しんでいるふうでした。住民のエゴが出るのはある程度仕方ないとしても、緊急性も真剣味もない発言というのは言語道断です。

 会の終了間際、司会者が「他に何かご意見はありませんか?」という形式的な締めの発言があったので、私はすかさず挙手をして発言を求めました。
「今日に限らないのですが、このところ傍聴席からの不規則発言が多くなっています。会議運営のルールが変わったのでしょうか? 私が初めてこの会に参加したのは第3回目の会合で、そのとき不用意にも発言を求めてしまったのですが、ルールだから傍聴席からの発言は認めないとハッキリ言われました。その一言で私は納得しました。もし傍聴者に意見があるのなら、先ず正式メンバーの委員にそれを伝え、委員を通して諮ってもらうのが本来の筋だと思うのですが?」

 すると会議中いつも何かと口を挟みたがる委員がこんなふうな発言をしました。この委員は戸建て住宅地区の住民代表です。
「仰ることはごもっともなんですが、傍聴席の方にも傾聴すべきご意見があるはずで、それを聞かないというのも大人気ないと言うか、、、できるだけ貴重なご意見は聞いておくと言うのが・・・」。

 初めは顔に笑みを作っていた私ですが、これを聞いているうちに段々顔が強ばって来るのがわかりました。この委員の発言は、どんなに贔屓目に見ても何ら建設的ではなく、単に一言居士特有の八方美人的なものだったのです。

 気まずくなった空気を察して司会をしていた行政側が助け船を出してくれました。
「われわれ行政の立場からすれば、傍聴席からの発言は許されない、というのが原則でして。ですから議事の進行状況に応じてですね、時間があれば司会者がその都度対応を決めるということでどうでしょう。」この当り前の一言でその場が治りました。

 閉会後、会議室を出た私を住民側代表の委員長が追いかけてきました。
「いやぁ、よく言ってくれました。あれぐらい言っていいんです。放っておけば好き勝手を言うばかり。あんな調子でやられて、私なんか住民の同意を得るのに3ヵ月もかかったんですよ。民主主義というものは実に手間暇かかるものだと半分ウンザリしています。」

 この委員長は私の好きな現場重視の人物で現実主義者です。行政側との協議に際して彼の採った手法は、現場の現況分析から始めて問題点を抉り出し、それを基に解決策を探るという合理的なものでした。今後20年間は存続させるという中間報告をまとめたのも彼です。もっとも、その中間報告をまとめるという協議会の当日でさえ異論を述べた委員がいたのですが・・・。まさに住民代表として打って付けと、彼への信頼感は増すばかりなのです。ちなみに彼は高層住宅の住民です。

 私が敢えて発言を求めたのは、実はこの委員長の心中を推し量ってのことでもありました。合理主義者の彼は不規則発言を苦々しく思っていたようですが、司会者でもない彼には注意したくともできなかったのです。それなら代わりに私がと、思い余っての発言だったのです。

 私としては、今後のことを考えた上での義憤からやったつもりだったのですが、ひょっとして戸建ての住民への “ひがみ” からだったのでしょうか?



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回復も感覚が導く?

2017-12-15 06:17:25 | 病状
 偏ったものの見方・考え方のことを “認知のゆがみ” と言い、これをいつまでも引き摺っていることがアル症者の回復を妨げる最大の障碍と言われています。そもそも、認知とは外界の見方・考え方のことで、その見方・考え方が外向けに現われるのが性格だと考えています。また、“認知のゆがみ” による考え方の典型が、何かにつけ “~ねばならない” となる考え方だと言われています。
 
 アル症者がよく口にする言葉に「自分の性格を変えなくてはならないと思っている」があります。無理をしてでも性格を “変えねばならない” と頑張る人が多いのですが、それではうまくいかないと私は考えています。そういう考え方自体が “認知のゆがみ” そのものから出た発想だと思うからです。

 私は「考え方はそのうち自然に変わるのだから、自然に変わるのを待てばよい」と考えています。なぜそういうふうに考えるようになったのか、今回はその経緯を述べてみます。

 このブログを始めた頃の記事『断酒しぃ~てよかったぁ~(その1)』にこんな記述があります。
「日曜・祝日を除き毎日通院が始まり・・・朝8時15分には家を出ることにしました。定年退職前の通勤が戻ってきたようで、すぐに快い生活リズムが蘇ってきました。」

 これは断酒を始めて間もなくの心境を記述した部分です。このように、規則正しい生活リズムを刻み始めて最初に気づいたことは全般的な体調の回復でした。そしてそれは、食欲やお腹の調子、視力、歩き方などに現われてきました。言い換えれば、身体の復調を最初に教えてくれたのが感覚であり、最初に復調したのも感覚だったのです。

 感覚の回復をハッキリ自覚できたのは、“憑きモノ” が落ちた体験後のことでした。そしてその時を境に “ものの見え方” が変わったようなのです。(“憑きモノ” が落ちたという感覚は、単に脳からアルコールが完全に抜け切った感覚だったのだろうと今では理解していますし、こうなれたのは “言語化” をやっていたお陰と考えています。)

 飲酒時代には、道を歩いていて気にも留めなかった、吸い殻のポイ捨てゴミですが、“憑きモノ” が落ちてからは、それがどうにも目障りになり出しました。当たり前のことですが、さらにこれがキッカケで道が他のポイ捨てゴミでも散らかり放題と気づかされました。今振り返ってみれば近親憎悪みたいなものでしょうか、吸い殻ゴミの捨てられている場所に一定のパターンがあり、捨てた人のクセに依存症と共通した行動パターンを読み取ったのだと思います。

 この感覚の変化で、歩いているときにやること(行動の標的)が変わりました。ゴミで散らかった道の酷さに我慢ならなくなり、思い余って最初は素手で、その後はトングを使っての本格的なゴミ拾いが始まったという次第なのです。たとえ道がキレイになったとしてもほんの当座のことなのですが、それが快感となって病みつきになり、ほぼ3年経った今では道のゴミ拾いが日課(趣味?)にまでなっています。

 このように、クセになりやすい行動パターンは飲酒時代とあまり変わっていないのですが、実際にやっていることを見れば、行動の標的が飲酒時代とはほぼ真逆になっています。

 以上の例は、ものの見方が変わったというよりも、“ものの見え方” が変わったとする方が正確な表現だろうと思います。脳からアルコールが抜け切ったことが視覚を回復させ、周りのことがありのまま自然に見えてきたのでしょう。それが行動の標的をも変えたのだと思います。つまり、感覚の回復が行動の標的も変えたのです。恐らくは、視覚ばかりか臭覚など他の知覚の回復も加勢していたのだと思います。

 同様に、素面(しらふ)となった感覚の導きに素直に従っていれば、行動パターンの方も自然に変わり、ひいては考え方も変わってくれるものと思えてなりません。これが「考え方はそのうち自然に変わるのだから、自然に変わるのを待てばよい」と私が考えるに至った経緯です。ひょっとしたら、このことは私個人に限った事象なのかもしれません。もしご自身に当てはまらないようでしたらご容赦ください。



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認知症は聴力の劣化が招く?

2017-12-12 05:47:36 | 雑感
 巷間、男性の老化は歯、目、○○、の順で始まると言われていますが、この後に続くのが耳となるのでしょうか? 私も60代後半に入って、どうやら歳相応に聴力の衰えが始まったようです。

 新年を迎えるのに障子に穴が開いたままではと、先日、工賃の安いシルバー人材センターに張り替えを頼みに行きました。予算を見積もるため、応対してくれた人に料金を尋ねてみたのですが・・・。
「イチマン4千円になります。」
「イチマン4千円? 1枚で?」
「高いですか? サイズによって変わりますので、大体イチマン2千円から4千円までとなりますかねぇ。正式な契約にします?」
「はぁ~?! まぁ、お願いします。」

 実のところ、1万なのか1枚なのか、よく聞き取れなかったのです。聞き返しても同じことになるだけと諦め、1枚当たりの単価と勝手に解釈して依頼することにしました。実際に張り替えを担当される方に後日確認したら、やはり1枚当たりの単価だったのでホッとしました。こんな場合は単価とわかるよう、ちゃんと「一枚当たり」と言うべきですね。

 駅構内のトイレ案内に自動アナウンスを流しているところがありますが、最寄りの阪神電車の駅では、こんなアナウンスに戸惑ったこともありました。
「これはタキノトイレです。、、、左が男子トイレ、右が女子トイレです。」
「(エッ、水洗代わりに滝のトイレ? そんなバカな!)」

 車椅子でも利用できるトイレの多機能を意味していたのですが、私には滝のトイレとしか聞こえなかったのです。多目的なら聞き間違えようもないので、こんな聞き間違えも想定して多機能のアナウンスは変えるべきと思ったものでした。いずれにせよこれらのことで私は聴力の劣化を否応なしに思い知らされたのでした。

 先日、『認知症を防ぐカギ!あなたの「聴力」総チェック!
(NHK「ためしてガッテン!」2017.12.6放送)という番組で、こんなことを知りました。

 意外だったのは、難聴を放置すると脳が萎縮し、認知症を発症する確率が上がるということでした。恐らく、難聴で会話が億劫になり人とのコミュニケーションを避けるようになることや、耳から入る音の情報が少なくなることなどが誘因だろうとされています。使わない筋肉が萎縮することを廃用性萎縮と言いますが、廃用性萎縮は筋肉ばかりでなく脳にも当てはまるようなのです。

 老化に伴い、聴力は高い音(子音)から聞きづらくなることが多く、60代で2~3割の人に、高齢者全体では3人に1人の割合で耳の機能低下が隠れているそうです。「隠れている」というのは、日常会話などには問題がないことがほとんどで、「多少聞こえづらくても聞き返せばいいから大丈夫」などと自分ではなかなか気づけないことがその理由だと言っていました。

 難聴は放置されるとリスクが高くなるので、その対策も挙げられていました。番組でのお勧めは「有酸素運動」をして普段から血行をよくすることと補聴器の活用でした。補聴器は難聴を来たす周波数帯に合わせて調整してあるそうなので、耳鼻科に相談してみればよいとのことでした。そう言われてみれば定年後、長いこと人間ドックに行ってないことを思い出しました。
 
 自分一人では難聴と気づきにくいものなら、周りの言うことを信用するしかありません。「耳が遠くなったねぇ?!」こう言われたらつい腹を立ててしまいがちですが、こういうことには素直に従った方が身の為と心しておきましょう。ただし私の関心はただ一つ、道のゴミ拾いは果たして「有酸素運動」に当たるのか(?)なのですが・・・。



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思うところは皆同じ? “自分が第一”!

2017-12-08 06:41:13 | 病状
 今まで数々のことを教わってきたAAのミーティングですが、中でも印象深かったのは誰もが内心では “自分が第一” と考えていることでした。

 アルコール依存症(アル症)者に共通していることは偏った認知の持ち主ということです。体験談を聞いていると、ほぼ全員が自己中心・自分本位の性格だったと反省の言葉を口にします。これを言い換えれば、自分が可愛くて仕方なく、“自分が第一” だったと言っているのと同じことです。この “自分が第一” も偏った認知の現われなのでしょうか?

 そんな言葉を数多く聞いていると、「これはアル症者に特異的ということではないのでは・・・? “自分が第一” は当たり前と世の中の誰もが弁えていることで、皆がこのことを暗黙の内に了解し合っているだけなのでは・・・?」と次第に考えるようになりました。

 皆が皆 “自分が第一” と我先にワガママを押し通そうとしたら争いになるのは避けられません。そこを巧く折り合っているのが世間一般の道理なのでしょう。その折り合が巧くできず、“自分が第一” の考え方が少しずつ自己中心・自分本位に偏って行ったのがアル症者ではないでしょうか。

 自分の思いを叶えようとするのなら、相手の都合も考慮し、遠回りするのもアリかと自制するのが普通です。ところが、手短な欲望を直ぐにでも叶えたい、何が何でも自分のことを構ってもらいたいと、どうにも我慢できなくなっているのがアル症者です。ものごとには遠回りもあり得るとわかっていながら、こうなのです。

 私をはじめアル症者は皆、そんな不満を酒で紛らわしていましたし、その酒が逆に不満やイライラを増長させてもいたようです。アルコールには、コルチゾール、アドレナリンなど、危機に際して分泌されるホルモンの分泌亢進作用が知られており、アルコールの常用はそうしたホルモンによる興奮状態を持続させ、不満やイライラも増長させるのです。

 “自分を大切にする”  ⇔ “自分が第一” ⇔ “自分を甘やかす”

 上に示したように、“自分が第一” は “自分を大切にする” ということにも、“自分を甘やかす” ということにもなり得ます。この二つは似て非なるもので、まったく異なった意味を持っています。

 一方の “自分を甘やかす” は、近視眼的な欲に目が眩んで無理筋を通そうとするワガママにもなりかねません。そうなれば周囲と無益で無謀な争いが起き、結果的に自分自身が傷つくことにもなります。

 これに対して “自分を大切にする” のなら、決して無理はしません。“損して得取れ” 昔の人はよく言ったもので、結果的に自分が得をすればよいのですから、状況によっては遠回りすることもアリなのです。その際に心懸けるべきはただ一つ、単に “周りの事実をありのままに受け止める” ことだけで良いのですが・・・。

 こうは言っても現役の働き世代の方々にはなかなか難しいことかもしれません。こんなエラそうなことを言えるのも年金のお陰であって、少しずつ貯金を取り崩しながらも働かずになんとか暮らしていける身分だからです。そのことは重々自覚しています。

 それでも私は「人生の帳尻は必ず合うのが自然の摂理」を固く信じ、それゆえに日々ゴミ拾いにも励んで精々自分を大切にしているつもりなのですが・・・。断酒歴4年となった今の私はこんなふうに考えられるまでになりました。



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変調は感覚が最初に教えてくれる

2017-12-05 05:50:13 | 病状
 先週の水曜日のことです。私にしては珍しく、午前中どこにも出かけませんでした。目が覚めたのは朝の5時半頃で、いつもとあまり変わりません。いつもと違っていたことと言えば、気が漲るような感覚がなく、妙にモヤモヤして気分が乗らないことでした。

 モヤモヤした気分の内に8時半が過ぎ、いつもなら日課にしているゴミ拾い兼市役所詣での頃合も逃してしまいました。それならばブログの原稿作成でもと考えたのですが、どうにも気が乗りません。思い浮かぶエピソードはどれもモチーフとするには物足りなく、ましてテーマにすべきは何かが一向にまとまりませんでした。思うところがどうにもチグハグで、モヤモヤした気分に不穏な感覚も加わってきました。

 どうやら私は、所謂 “空白の時間” モードに入ったようなのです。このままグズグズしていては、それこそ生活リズムの乱れに繋がりかねません。すぐに気分転換を計らなければと、まず洗濯をすることにし、その間に入浴もしてしまおうと決めました。

 その成果は上々でした。どうにかこうにかお昼近くになったので、これ幸いと食事をしに近くのスーパーに出かけることしました。スーパーにはイートイン・コーナーがあります。昼食を摂った後は、そのまま図書館に行ってみました。いつも通りに新聞を読み始めたら案の定、いつも通りに睡魔が襲ってきました。食後にお決まりのうたた寝です。行動パターンはこんなときにも健在でした。やはり “空白の時間” には行動するのが一番と実感しました。

 半年ほど前、大腸内視鏡検査の前日にも “空白の時間” を経験しています。そのときは食事制限が主の行動制限が原因でしたが、今回はそんな行動制限などありません。強いて挙げれば、今にも雨が降りそうな曇り空と、北朝鮮のミサイル・火星15型の発射をラジオでしきりに報道していたことでしょうか。この程度のことで浮き足立つ私だとは考えにくいのですが・・・。

 田舎であった姉の葬儀と、そのための長距離移動が今頃になって多少響いてきたのでしょうか? 田舎まで片道1000 km超の陸路を新幹線で6時間以上かけて往復してから10日間ほど経っていました。少し無理をして身体を動かしでもしたら、二~三日後に決まって筋肉痛に襲われる老体の身です。久々の非日常的行動が日を置いてモヤモヤした感覚を引き起こしたとも考えられます。

 このところ急に寒くなった気候も多少影響しているのでしょうか、トイレが近くなって夜中に起きることが多くなりました。睡眠時間は6~7時間と変わらないのですが、微妙に寝不足状態なのをモヤモヤした感覚が教えてくれたのかもしれません。

 内臓の状態にしろ、心の状態にしろ、身体に変調があったら最初に教えてくれるのが感覚です。“病は気から” という言葉がありますが、身体の変調を最初に教えてくれるのは感覚、という全く逆の意味なのかもしれません。この日のモヤモヤした感覚は、上に述べた諸々の要因による身体の変調を教えてくれたのでしょう。今更ながらこんな当たり前のことに気づかされた日でした。
          *     *     *     *
 病気からの回復も病態生理からみたら変調の一つでしょうから、「(病気が)治った / 楽になった」という感覚があるのは当然でしょう。ただし、心の病の場合は感覚通りに受け取るのは危険です。特にアルコール依存症(アル症)の場合は、「もう飲んでも大丈夫!」回復したと勘違いしがちな “ドライドランク” がこの上なく危険な兆候なのです。アル症の皆さん、このことをお忘れなく!



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「私はアル中なんで・・・」(否認の克服)

2017-12-01 07:15:07 | 病状
 経験が少いこともあって冠婚葬祭にはとんと疎い私ですが、告別式の後に初七日の法事も同時に済ますことが普通のようです。先日の姉の葬儀もまさにその通りで、告別式の後、親類一同で初七日の法事が執り行われました。

 法事には食事とお酒が付きものです。断酒を始めて丸4年、この間酒宴からは悉く距離を置いて来て、たとえ酒の席となっても飲まないでいる自信が付いて来ました。それでも親類一同が集う法事です。断酒歴4年の自信と言ってみても、さすがにこの種の酒宴は何とも気が重く、できれば避けたかったのです。

 私の両親が鬼籍に入ったのは、それぞれ父が8年前、母が7年前の2年連続でした。その頃の私はまだ定年前で現役サラリーマンをしていました。とは言っても仕事は教育担当という閑職で、仕事上でストレスを感じることもなく、厄介なアルコール依存症も小康状態にありました。

 それでも2年連続となった両親の葬儀のときには、どうやらアルコール依存症の本領を遺憾なく発揮していたようなのです。つまり飲み出したら止まらない酒だったようなのですが、どうも記憶が定かではありません。少なくとも親類の方々はウワバミだった私の姿をしっかり覚えているはずで、生半可な逃げ口上では酒の勧めを断れそうもありませんでした。気が重いとはこのことでした。

 さて法要の儀式の後、いよいよ酒宴が始まりました。私の席は導師を務めた菩提寺の住職の隣でした。宴が進むにつれ、誰彼となく引っ切りなしに住職にお酌をしに集まって来ました。ついでに隣の私にも酒を勧めるのは道理で、案の定そうなりました。

「実は、私はアル中なんで・・・。酒を断って4年になりますが、一滴でも酒を飲んだら元の木阿弥、また気違い酒になるんです。」私は腹を括って、こう正直に言いました。
「えっ、アル中? そんなふうには見えないけど・・・、まぁ、それじゃ仕方ないね。じゃ何にする、ウーロン茶?」誰もがそう言ってあっさり酌を控えてくれました。

 隣で私の話を聞いていた住職が、こんなことを言ってくれました。この住職は4歳で酒を知り、中学の時には遊びに来た友達と本堂で酒盛りをやったという強者です。
「本音を言うと、私も酒はほどほどにしなきゃいけないと思っているんですよ。早い時間に切り上げたいのは山々だが、一定の時間付き合わないと檀家の方々から(飲み足らないと)不平が出るんです。だから、頃合いを見て引き上げることにしているんですよ。」
正直な言葉には正直な言葉で応じてくれるものと知りました。
             *     *     * 
 私は、46歳にあと半月というときに初めてアルコール依存症(アル症)と診断されました。アル症の知識は中途半端なものでしたが、だらしないとか意志が弱いとかと見られる世間体ばかりでなく、何よりも恐れたのは社会的に抹殺されることでした。

 バリバリの現役サラリーマンでしたから会社に知られでもしたらマズイと、診断事実はおろか、手の震えもひたすら隠しおおそうとしたものです。聞けば、大方のアル症者も同じような恐怖に囚われて、口外せずに秘密のままにしていたと言います。これが、酒に飲まれて無様になった自分を受け容れられず、何とかしてキレイごとのままにしておこうとする否認の素顔かもしれません。

 ― 私たちは自分がアルコホーリクであることを心の底から認め
   なくてはならないことを知った。

                    (『アルコホーリク・アノニマス』第3章より)

 思うに、他人の前で自分がアル中と声に出して言えるか否かが肝要なのです。再就職の就活の場で、問われもしないのに告白するバカ正直はいないと思いますが、ここぞという時にはアル中と告白できる正直さが問われているのだと思います。



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コメント (3)
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