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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

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2014年03月25日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 144

“彼は、「わたしたちと同じように試練に会われた」(ヘブル4:15)。サタンは、すべての歩みにおいて彼を攻撃しようと待ち構え、最も激しい誘惑をぶつけてきた。しかし彼は、「罪を犯さず、その口には偽りがながった」(Ⅰペテロ2:22)。また、「試練を受けて苦しまれ」、その神聖さの完全に比例して、苦痛を覚えられた。”(5T422) 

では、誘惑を受けながら、どうやって苦難に当面しますか?誘惑を受けたとき、私たちがその試みに屈服せず、罪の性質が欲するままに従わないとき、それは私たちにとって苦痛となります。皆さんは肉体の中で、イエス様と共に苦難を受けているのです。

“かれ〔キリスト〕は、人類の強力な激情をすべて持っておられたが、ひとつの行為においても誘惑に屈服されたことはなかった。その行為には、不純で人を高貴にしないものは一つもなかった。”(HP155)

   宇宙戦争 18  

     自己犠牲の愛

 

南極にいる皇帝ペンギンのことを紹介します。このペンギンは卵をどこに産むでしょうか。母親ペンギンは、卵をお父さんペンギンの足の上に産みます。南極は本当に寒いんです。もしこの卵が、足の上から落ちてしまうと、すぐに凍って死んでしまいます。ですから、毛でおおわれていて温めることが出来るように、足の上に産むんです。そうすると、このお父さんペンギンは60日間、このままじっとして立っていなければなりません。口にするものは、ただ天から降ってくる雪だけです。皆さんよく考えてみてください、零下20度、30度の南極で、60日間ただじっと立っていなければいけないのです。頭のてっぺんから足の先まで、全身氷におおわれてしまうこともあります。もしこの卵が足から転げ落ちてしまったら、死んでしまいますから、本当にびくともしないで立ち続けるのですね。

ところが、時には、卵が足の上から落ちて見えなくなってしまうことがあります。そうするとお父さんペンギンは、悲しみのあまりでしょうか、卵の代わりに卵に似ている氷の塊を足の上に乗せて、また立ち続けるのです。 


 福音の力を体験せよ 143

2014年03月24日 | 日記

 

    福音の力を体験せよ 143

“キリストの恵みと力によって、道徳的、霊的完全さがすべての者に約束されている。”(AA478)

どのようにすれば、それを実現できるのでしょう?皆さんは今日、魂をイエス様に屈服させ、「主よ、私の誤った感情がここにあります。私の怒りがここにあります。恨みつらみの感情がここにあります。主よ、私はもうこれ以上、これらの感情を欲しません。ですから、どうぞ持って行ってください」と主に差し出せば、神の小羊は私たちの罪を背負って行ってくださるのです。その血潮は、皆さんをあらゆる罪から洗い清めることができるのです。

イエス様はこのようにして、私たちに新しい心と精神を下さいます。私たちはこのようにして、真の正義と聖潔へと再創造されます。ちょうど十字架上の強盗のように、み国の備えがなされます。その時、品性は完全になり、良からぬ思考と感情が清められ、それが私たちの完全な思いと心になります。まさに、そうなることが私たちに要求されていることです。

多くの人は、完全とは何かがよく分かっていません。そのために、さまざまな試練にあうのです。完全は、不可能なことではありません。一瞬一瞬、主のみ前に屈服するならば、正しい思いと正しい感情を持つことができます。それこそが完全です。

     宇宙戦争 17

今日多くの人が、「十字架を信じます」とか、「十字架を見上げて救われました」と言います。十字架はまるで魔法使いの杖のように、何でも解決してくれるもののように思われています。この十字架は、どんな力を持っているのでしょうか。先ほど、福音というのは力だと言いました。ダイナマイトの力だと言いました。では、十字架はどんな力があるのでしょうか。

十字架とは、神様が私の代わりに死んで下さった、愛の証拠なのです。皆さんが、愛する人と別れる時、たとえば、夫が戦争に行かなければならなくなって、奥さんが残された時、奥さんは結婚式の時にもらった指輪を、大切に記念として持っているのではないでしょうか。それと同じように、十字架というのは、イエス様と私たちとの愛のしるし、形見なのです。十字架を見つめる時、見上げる時に、神様がどれほど私を愛して下さったかを、本当に噛みしめることが出来るようにして下さったのです。

十字架は、天の父なる神様がどんなに深い愛の方であるかを、この宇宙全体、すべての天使たちにも、明らかにされたものでした。ご自分を犠牲にしてでも、全人類を救いたいという、このような神様の愛の深さを、私たちは、どのように味わい体験していくことが出来るでしょうか。私たちは聖書のみ言葉を瞑想したり、自然界の様々な出来事を通して、神様の愛の深さを少しだけ知っていくことが出来ます。

 


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2014年03月23日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ 142

たとえ教会に座っていても、誤った思考と感情を抱くことがあります。ですから、教会に出席しているからといって、みんなが救われるわけではありません。皆さんの思いと心をイエス様に屈服させる経験が肝要です。死んで墓に入れば、墓の中では、これ以上心には何の変化も起こらないのです。「たとえ私が、怒りの心情をもって墓に入ったとしても、私が祈って悔い改めることを主はご存じだから、とにかく私は救われるに違いない」と考える人がいるでしょうか?しかし神様は、すべての人に、生きている間に悔い改める機会を下さるのです。各自の選択にしたがい、救いか滅びかが決定されていきます。

“道徳的完全が、すべての人に要求されている。”(COL330) 

良からぬ思いや感情を抱いたまま、天国に行くことができますか?現在抱いている思考と感情が、すなわち皆さんの品性であります。イエス様は、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ5:48)。天の父なる神様は、よからぬ思いや感情を持っておられません。

私たちは、生涯のあらゆる分野において、どうすれば正しく生きられるか分かっていません。しかし、どう生きるかという方法論よりも、品性の完全がすべての人に求められています。そして、それは実現可能なのです。

    宇宙戦争 ⑯

聖書を見ると、信仰というのは、愛をもって行うことだと言われています(ヤコブの手紙2章参照)。「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ5:6)。「私は信じます」と口で言うことが信仰ではなく、愛によって働く信仰が必要なのです。信仰があるというのは、行いがあるということなのです。

今日多くの人が、熱心に教会に出席しているから、救われていると思っています。イエスさまの十字架を信じて、熱心に奉仕活動や伝道活動をしたり、定期的に献金を捧げたりしているから、自分には信仰があり、救われているという安心感を持っています。

皆さんも、そのように思っておられませんか。私たちの救いというのは、十字架を知ることだけで決定されるものではありません。十字架の力を体験する時こそ、救いを得たといえるのです。福音の力が、私の心に宿って、この福音の力によって私の心が新しくされ、怒りや、ねたみや、欲情や、高慢など、あらゆる罪に勝利する力を経験し、すべてのことを愛をもって行うことが出来るようにされていくことこそ、信仰があると言えるのです。


  福音の力を体験せよ 141

2014年03月22日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 141

もしも皆さんのうちに、何の思考も感情もなかったとしたら、どういう存在になりますか?たとえ心臓が鼓動していても、感情と思いがなければ、それはただの肉体に過ぎません。ある意味においては、思考と感情がその人となりを表すのです。

思考と感情が合わさって、品性を形づくります。皆さんの頭脳には、どういった情報〔データ〕が保存されていますか?これまで育ててきた悪習慣などが、頭脳というコンピューターに保存されています。良い習慣が保存されていれば、それらが、正しい思考や感情へと手引きしてくれます。

ただし、実際に皆さんの道徳的品性を形づくるのは、頭脳のコンピューターに記録されているデータではなく、意識して抱く、今現在の思考と感情です。ですから私たちは、現在どのような思考と感情を抱いているかによって、天国へ行けるか否かが決定されるのです。したがって、私たちが新しい肉体に再創造されるときに、この地上で育てた思考と感情がその肉体に授けられます。誤った思考と感情から守られるかどうかは、皆さん自身にかかっているのです。

   宇宙戦争  ⑮ 

正確に知っていることが信仰だというなら、サタンは一番信仰があると言えるでしょう。けれどもそれは信仰とは言えません。自分自身を神様に捧げることもなく、神様にゆだねて生きることもしないで、信仰があるとは言えないのです。

信仰というのは、神様を信頼して、何かを決定する時に、主がなさるように、主が喜ばれるようにすることです。心を完全に主に屈服させて、自分の好むものを置いて、主が望まれることを行うこと、主を見つめて、全ての思いを主に向けることです。その結果は、主に対する従順として現れてきますね。神様のみ旨に従って何かを始め、神様のみ旨に従って行動する時はじめて、私たちは信仰があるということが出来るのです。


   福音の力を体験せよ 140

2014年03月21日 | 日記

    

   福音の力を体験せよ 140

“罪を犯さないでおこうと思うなら、その最初から罪を避けなければならない。あらゆる感情と願望は、理性と良心に従属しなければならない。”(5T177)

“良心とは、人間が自らの激情と戦うときに聞かれる、神の声である。良心が抵抗を受けると、神のみ霊が嘆き悲しむ。”(5T119)

 皆さんがつまずくことのないように、また皆さんを守るために、神様は良心を通して語りかけられるのです。

“あなたの思いさえも神の意思に従属させて、感情は理性と宗教の支配下に置かなければならない。あなたがたの想像力は、むやみに暴れることを許されたり、制止または規律に服するいかなる努力もせずに、自分勝手にふるまうために与えられたのではない。もし思考が間違っていれば、感情も間違うであろう。思考と感情が合わさって、道徳的な品性を作りあげる。”(5T310)

   宇宙戦争」 14

皆さんは、生きておられる天の父なる神様こそ、真の神様であることを信じていますね。創造の働きを知っておられますね。神様のみ言葉は真理であることも理解していますね。皆さんよろしいですか。そういったことはサタンも知っているのです。 

   従うことが信仰 

ヤコブの手紙2章19節にこのように言われています。「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」。

サタンほど神様について、よく知っているものがあるでしょうか。サタンほど天と地を創造なさった神様についてよく知っているものはありません。サタンこそ、イエス様が十字架にかけられて死なれたという事実を、もっともよく知っているものです。私たちは、サタンよりも聖書の知識を持っているわけではありません。もし知識が信仰だとするなら、サタンは私たちの信仰より、はるかに大きな信仰を持っているとさえ言うことが出来ます。私たちは、み言葉を通してしか神様を知ることが出来ませんが、サタンは、地球が創造された時に、それを目で見ていました。イエス様の十字架の場面にも、彼は立ち会っていたのですから、正確に知っているわけです。