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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演17)

2012年10月03日 | 日記



   ひまわりさんより(10月3日)

以前、ある信仰の先輩の方に、「謙遜と砕けた心が大切よ。そこに聖霊様が働かれるから」とよく教えていただいていました。当時、それはそうだろうと思っていましたが、そんなことが聖書や証の書に書いてあるのだろうかと思っていました。今日の日課を読んでいたら、まさにそのことが書かれていました。「価値あるメンバーとして教会の名簿にその名が登録されているあなたがたに、キリストの徳を通して、本当に価値ある者となるようにわたしは嘆願する。神の憐れみと真理と愛は、へりくだった砕けた魂に約束されているのである」。(R&H1890年12月23日) まさに教えられたとおりの言葉が紹介されていたので驚き、また、感謝しました。そして、聖霊様が働いてくださらなければ何も始まらないのですから、謙遜と砕けた心のない者は、傲慢と自己主張の心が起きて来たときには、すぐに気づいてイエス様の品性と動機を求めて祈ることが大切だと思いました。

   霊によって戒めに従う(デビット・カン講演17)

次にローマ3:20~22 をお読みします。 「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証されて、現された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」。 義なる者とされるには、神様の戒めに従わなくてはいけません。しかしそれを、自分で守る力はないのです。不可能なことです。神様のみ霊を通してのみ私たちは、律法を守ることができます。イエス様は、神のみ霊によってみごもったとありますね。そして、イエス様は生まれました。イエス様は神のみ霊によってその生涯を歩まれました。私たちと同じように、堕落した人間の性質をとられたにもかかわらず、そして、私たちと同じように先祖から罪の性質を受け継いでおられたにもかかわらず、み霊によって戒めに完全に従われたのです。
罪の性質を持ったままで、完全に神の律法に従うというのは不可能なことなのです。それでも神様は、戒めを守りなさいと私たちに求められます。どういうことでしょうか。イエス様に対する信仰によって私たちは戒めを守ることができるようになるのです。





主は我らの義(デビット・カン講演16)

2012年10月02日 | 日記



   ひまわりさんより(10月2日)

SDA教会が、世界に宣べ伝えるべき使命の一つは、黙示録14章にある、三天使の使命です。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った。『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。私は以前はこの聖句の、さばきの時がきた、というところを見ると、怖いと思っていました。今は、三天使の使命とは、生きてイエス様をお迎えする神の民の励ましのために書かれたのだということが、だんだんわかってきました。まず、神様を恐れるとは、神様に従う動機が愛になること、神に栄光を帰すとは、神様のご品性をあらわすものになっていくこと。そのような人は、特に、日曜休業令が出されたときに、何の恐れもなく「天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝む、という経験をするのだと思います。その時の試練、苦難は、言葉に表現できないほどのものであるため、神様は、『恐れるな、バビロンは必ず倒れる。獣と獣の像とをおがんで,額や手に刻印を受けたものは、火と硫黄とで苦しめられる』とあるように、必ず悪は滅びる。だから、「神様の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続けていってほしい」という神さまの愛のメッセージでした。


  永遠の福音(デビット・カン講演16)

「主はわれわれの正義」という言葉があります。救われるものたちは、このように呼ばれるようになるんです。主はわれわれの正義と。私たちが救われて天国に行くときに、真珠の門を通っていく時、新しい名前で呼ばれるようになるんです。その名前とは、「主はわれわれの正義」という名前であります。宇宙の誰かが私に尋ねたとします。「どうやってここに来ることができたのですか」。次のように答えるでしょう。「主なる神が私たちの義であります」。主とはエホバのことですね。エホバなる、創造主なる神が私の義となられました。そうするときに、私達が天国へ行くのをとどめるものはいなくなるわけです。エレミヤ33:16。「その日、ユダは救いを得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの義』ととなえられる」。 エルサレム全体が「主はわれらの義」ととなえられるとあります。個人的にも私たちは「主はわれわれの正義」と呼ばれ、神の教会全体も「主はわれわれの正義」と呼ばれるようになるのであります。このような経験を私たちがするならば、きっと天国に行かれるようになります。たとえ真理を信じていたとしても、この経験ができていない人は決して天国に入れません。ですからこれは本当に深刻な問題なのです。






主は我らの義(デビット・カン講演15)

2012年10月01日 | 日記



   ひまわりさんより(10月1日) 私の信仰の歩み 第3回

それから、サンライズ・ミニストリーで出している、デビット・カン先生のCDを聞いて、「これだ!」と思いました。今まで自分が学んだことや、わからなかったことが、きちんと整理されていきました。自分がなぜSDAなのか、SDAの持っている真理とは何なのか、そして、SDAとして、これからどう生きていったらいいのか、ということがはっきりしてきました。同時に、なぜかこの真理は、多くの人が好むものではないこともわかり、公に伝えることは難しくなり、それでも語らざるを得なくなり、こうしてブログで紹介させていただいています。では具体的に、なぜSDAなのか、SDAの持っている真理とは何なのかについて、私の理解している所を紹介させていただきます。
なぜSDAなのか:それは聖所の理解にあります。聖所を通して私たちは、神様がこの世界にある罪をどう処理なさるかが分かります。まず聖所の外庭で、イエス様の贖いの功績を理解し、罪を告白して、自己を祭壇にささげる経験をします。それから、祭司として、聖所に入っていき、イエス様の信仰を学び、罪をおかせなくなる、つまり、み言葉がその人の心に宿るという体験をします。次に、至聖所に入って、罪を除去され、罪の記憶さえも取り去られるという経験をします。そのような人たちは、生きてイエス様を迎える人たちで、その人たちを迎えるためにキリストは再臨されるのです。その祝福された人たちがSDA(組織ではなく霊的な残りの民という意味で)なのだと、私は理解しています。また、ほとんどの日曜教会は、外庭の経験で終わってしまっていて、聖所の中の経験について十分知らされていないのではないかと思っていますが、どうなのでしょうか。

   義とは戒めを守り行うこと(デビット・カン講演15)

義を理解するためには、罪とは何かということを理解しなければなりません。1ヨハネ3:4を見ると、「罪は不法である」とあります。まず覚えておきたいことは、義というのは罪の正反対の言葉です。義とは、義なるものになっていることです。では、罪とはなんでしょうか。罪とは不法である、つまり、律法を犯すことであると書かれているのです。次にローマ3:20を見ます。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」とあります。今、いろんな言葉の定義を行っているんですけれども、義とは何ですか。神の戒めを守り行うことです。罪とは何ですか。神の律法を破ることです。犯すことです。しかし、パウロは、神の前で義とされる人はだれもいない、と言っています。神の律法を行うことによっては、だれも神の前に義とされないと言っています。ある個所では、義とは神の律法を守ることだと言い、一方では神の律法を守ることではだれも義とされないと言っています。どういうことでしょうか? このような聖句を、どのようにして、きちんとまとめて理解できるのでしょうか。混乱してきましたか? 律法を行うことでは、誰も義とされないとあります。エレミヤ23:6に、このように書かれています。「その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」