
ひまわりさんより(10月3日)
以前、ある信仰の先輩の方に、「謙遜と砕けた心が大切よ。そこに聖霊様が働かれるから」とよく教えていただいていました。当時、それはそうだろうと思っていましたが、そんなことが聖書や証の書に書いてあるのだろうかと思っていました。今日の日課を読んでいたら、まさにそのことが書かれていました。「価値あるメンバーとして教会の名簿にその名が登録されているあなたがたに、キリストの徳を通して、本当に価値ある者となるようにわたしは嘆願する。神の憐れみと真理と愛は、へりくだった砕けた魂に約束されているのである」。(R&H1890年12月23日) まさに教えられたとおりの言葉が紹介されていたので驚き、また、感謝しました。そして、聖霊様が働いてくださらなければ何も始まらないのですから、謙遜と砕けた心のない者は、傲慢と自己主張の心が起きて来たときには、すぐに気づいてイエス様の品性と動機を求めて祈ることが大切だと思いました。
霊によって戒めに従う(デビット・カン講演17)
次にローマ3:20~22 をお読みします。 「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証されて、現された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」。 義なる者とされるには、神様の戒めに従わなくてはいけません。しかしそれを、自分で守る力はないのです。不可能なことです。神様のみ霊を通してのみ私たちは、律法を守ることができます。イエス様は、神のみ霊によってみごもったとありますね。そして、イエス様は生まれました。イエス様は神のみ霊によってその生涯を歩まれました。私たちと同じように、堕落した人間の性質をとられたにもかかわらず、そして、私たちと同じように先祖から罪の性質を受け継いでおられたにもかかわらず、み霊によって戒めに完全に従われたのです。
罪の性質を持ったままで、完全に神の律法に従うというのは不可能なことなのです。それでも神様は、戒めを守りなさいと私たちに求められます。どういうことでしょうか。イエス様に対する信仰によって私たちは戒めを守ることができるようになるのです。