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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 78

2013年08月08日 | 日記

    

  78

さらに先へ進む前に、贖いの過程を復習してみよう。義認(外庭)の経験をとおして、クリスチャンは、聖化の経験を表すところの聖所に入る(クリスチャンが義認を受けるときに、心の中で、聖化の経験も同時に始まる)。しかし、もし彼がそこで、罪や過ちを犯すならば、何をしなければならないだろうか?聖所内では、罪の赦しのための犠牲がささげられることはない。罪の赦しを受けるには、外庭に戻っていかなければならない。つまり、彼はいけにえの子羊を連れてきて、それを祭壇の前で殺し、こうして罪祭の経験をとおして再回心した。初めての時ほど長くはかからず、長い告白は必要ないかもしれないが、子羊の死の背後にある意味を再認識しつつ、再び回心を経験しなければならないのである。彼の罪のために、イエス・キリストは再度、苦しまれることになる。十字架へ行かなければ、誰も罪の真の姿を見ることはできないので、十字架のもとに行こうとしない罪人が、罪を悲しむことはあり得ない。悔い改めて再回心した後に、彼は聖所に戻ることができる。次のことを覚えていよう:罪は必ず、私たちを神から引き離す。罪人が完全に悔い改めて罪を捨て去っていないのに、キリストの義がなおも彼を覆ってくれるとは、聖所は教えていない。この概念を理解するために、わたし自身の次のような例が例がある。

 「八年ほど前に、私がシカゴで牧師をしていた頃、妻と私はラオデキヤ状態から抜け出す経験をした。私たちは、神の御前で真摯に罪を悔い改め、再び生涯を神に屈服させた。この事をしたとき、神が私たちの生活を一変させて下さった。最初の数か月間は、神と共に歩み、聖化の階段をのぼっていく喜びに満たされた。外庭の経験をとおり、聖所へと入っていったわけである」。

 

  世界を救う聖書の預言:預言されていたキリストの出現 

 では紀元27年に何が起きたのでしょうか。この年イエス・キリスト(ヘブル語のメシヤを意味するギリシャ語)は、それまでの全く名もない大工の子としての生活から、公に神の子としての働きを開始するために、バプテスマ(洗礼)を受けられました。この年こそ「メシヤなるひとりの君」が世に出現された年だったのです。

 旧約聖書『ダニエル書』は、キリストが誕生される数百年前に、その出現の年代を正確に預言しました。そしてこの預言通りにキリストは出現され、人々を罪から救うため、メシヤとしての働きを始められたのです。また、キリストは、人間の真の幸福がどこにあるかを教えられました。それは、神様によって心を新しくされ、喜びと感謝をもって神様の教えを実践する生活の中にある、ということでした。キリストの言動は記録され、新約聖書の最初にある四つの福音書として残されています。その中でキリストは、しばしばご自分が、旧約聖書に預言されていた通りのものであることを語られ、人々もまたそれを信じていたことが書かれています。

「『彼女は男の子を生むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます」という意味である』」(マタイによる福音書121~23節)

 またキリストは、ご自分が役人によって捕らえられようとしたとき、それを阻止しようとする弟子たちに向かって、「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」、と言われて、自分の逮捕は、旧約聖書に預言されているのだということを示されたのです。(マタイによる福音書26章54節)

  このような、キリストに関する預言は数多くあります。キリストは、その誕生も、そして死も、旧約聖書に正確に預言されていたのです。

 ところがここに、キリスト自身が語られた言葉で、当時のキリストの弟子たちでさえその意味が十分わからなかった預言があります。


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