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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第19回

2016年03月24日 | 日記

二つ目のジレンマ

アウグスティヌスは、イエス様が人間とは全く違う完全な肉体を持ってこられたという奇想天外な理論を立てましたが、彼はまたもうひとつのジレンマに陥りました。アウグスティヌスの理論のせいで、キリストは人類からはるかに遠ざかってしまったのです。キリストの肉体を人間の肉体よりずっと高い地位に置くことで、キリストは人間が試練や誘惑を受けるときに体験する苦しみを通ったことがない方になってしまいました。なぜならアウグスティヌスの見方からすると、キリストは私たち人間が経験する試練と誘惑の生涯とは全く別の、罪を犯す可能性のないまま生きられたという結論に達してしまうからです。同時にこの結論は、人間は決して罪に打ち勝つことが出来ないという、さらに致命的な理論につながるのです。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル4:15)。アウグスティヌスが作り出した理論のせいで、キリストは全てにおいて人間の模範になることは出来なくなり、その結果人類のための仲保者としての地位を奪われることになりました。こうして教会は、イエス・キリストのほかに別の仲保者を作り出したのです。                                                                                                                                                       

教会はこの神学的論理を完成するために、私たちと同じように誘惑を感じるだけでなく、誘惑に屈して罪を犯す可能性を持った仲保者を作らざるを得なくなりました。聖書が「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(Ⅰテモテ手紙2:5)と宣言しているにもかかわらず、教会は、イエス様の母であるマリヤを人類の新しい仲保者として人々に紹介するようになったのです。後になるとさらに発展して、数多くの聖人(Saints)を制定するようになり、司祭と神父にも仲保者としての役割を任せることで、信者から罪の告白を受けて神様に取り次ぐようにしたのです。教会はアウグスティヌスの間違った思想と神学に基礎を置く教理の盲点を埋めようとして、過ちに過ちを増し加えました。人間は罪を持って生まれてくるという原罪説が、人間を永遠の命から引き離し、妊娠の瞬間から、胎児はすでに永遠の滅亡の裁きを受ける存在であり、性そのものが罪の起源となったのです


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