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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 177

2014年04月28日 | 日記

  

 福音の道しるべ 177

ペテロ第二の手紙1章のみ言葉も、もう一度引用したいと思います。

“いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。”(Ⅱペテロ1:3,4) 

さて私たちは、どうすればこの腐敗に勝利できるのでしょう?神の性質にあずかる者となることによって、勝利できます。またそれが、勝利への唯一の道なのです。

  心の窓

   自由を得る

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書8章の32節)

以前何かのコマーシャルで、ある著名な作家が、「日本人は自分にからめとられてしまっている」と言っていた。我々は現在、言論、出版、職業選択などの各種の自由を得ているのだが、本質的に自分自身から自由にされていないということなのであろう。

キリストは、「自由を得」ると言われたすぐ後で「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(34節)とも言われた。聖書では罪とは、人間の自己中心性、自己愛をさす。つまり、神によって創られた人間が、神を神としてあがめず、自分をあがめ、自我に固執して生きることに罪の根源があると言うのである。とすれば、日本人が「自分にからめとられている」とは、実は、我々もまた、自己愛の罪の奴隷状態に陥っているということではないだろうか。

 何をするにも自分のことを考え、なおも良い行いをしている時でさえ、「認められたい」という自分が顔を出し、大声で笑っている時もどこかでさめた自分が自分を見つめている。そしてささいなことに意地を張り、メンツにこだわって腹を立て、しかえしをしようとさえする。まことにやっかいで不自由な自分である。

キリストは、この「自分にからめとられている」我々に、自己からの解放を約束して下さった。「真理を知る」者は、「自由を得」ると言われるのである。「真理を知る」とは、絶対者であり永遠の愛の神、キリストに出会うことである。ある日「ハッ」と神の絶対性にきづかされ、生きた神が、世界や歴史、自分の幸、不幸、生死を支配しておられることを知るのである。そして人は、そのような永遠の神を知る時、自分の小ささ、無力さを思い知らされ、自分へのこだわりがとかされていくのだと思う。聖書を学び、広大無辺の神の愛の世界を知れば知るほど、からみつく自我意識から解放されていくのである。

我々はしばしば、自分と他人とを比べ、相手の教養や財産、性格や、強そうか弱そうかなどによって、優越感を持ったり、引け目を感じたりする。物事がうまく行けば得意になり、失敗すると意気消沈してしまう。我々にとっては、生死、老若、貧富、喜び悲しみなどは、大きな問題である。しかし、絶対者の前では、それらは、何ほどの違いにもならないのである。なぜなら、たとえば地球の山と海溝のデコボコは、地球自体の中では大きいが、宇宙の大きさの中で考えるなら、ピンポン球の表面のようにツルツルなものでしかない。真昼の太陽の下で、ローソクと懐中電灯の明るさを比べても無意味なように、すべての富を所有し、最高善、最高の愛の方の前では、人間のすべては相対化され、本質的に何の差異もなくなってしまうからである。

我々が余りにも自己にとらわれ、こだわるのは、結局、真理なる神を知らないからであり、その神にたえず目を注いでいないからである。神に心を向ける時にのみ、我々は、生きようが死のうが、富もうが貧しくなろうが、ほめられようがけなされようが、そこからくる優越感や劣等感、自己満足や絶望感から解放され、真に自由なものとして生きていけるのだと思う。


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