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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

  恋に落ちた神様 15

2014年06月11日 | 日記

   

 恋に落ちた神様 15

イエス様は、この地に来られて十字架につけられた時、堂々とした神様としてつけられたのではありませんでした。十字架の直前、神様にせつに祈られました。「この盃をどうかわたしから取り除いて下さい」と。勇敢に立派に死ねばよいのに、「エリ、エリ、レマ サバクタニ」と、切に願う声を上げながら亡くなられたのですね。中世時代の殉教者たちは、どのようにして亡くなって行ったのでしょうか。火刑に処せられながらも、顔は平安そのものでした。初代教会の最初の殉教者ステパノも、石で打たれて死ぬ時、顔は天使のように平安だったんですね。しかし、イエス様は、「エリ、エリ、レマ サバクタニ:どうして私をお見捨てになるのですか」と、大声を上げて亡くなられたのですね。なぜでしょうか。

殉教者たちは、死んだ後、永遠の世界に迎えられるのですね。しかし、イエス様の死というのは、私たちの罪の身代わりでしたから、罪人が受けるべき罰として死なれるのですから、イエス様には、永遠の世界の保証がなかったのです。なぜなら、罪というのは神様と相容れないもので、分離されなければならないものですから、イエス様は、永遠に神様から切り離されようとしておられたのです。神様であられたイエス様が、神様と言う立場を放棄されたのです。イエス様は、自分の存在がなくなっても、この罪人である人間を愛するゆえに、彼らのために自分は死ぬということを決心なさったわけです。

    神の火 16

私が言わんとしていること、分かりますか?これ、非常に深刻な問題ですよ。私たちは毎日毎日その問題と取り組まなくてはいけないのです。ヨハネによる福音書1章を見たいと思います。ヨハネによる福音書1章26、27節です。この福音書を書いた使徒ヨハネが、このようなことを言っています。

「ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」(ヨハネ1:26、27)。

次に33節に飛びますが、ここでも興味深いことが言われています。お読みいたします。

「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』」。

ここで、バプテスマのヨハネは、2種類のバプテスマについて語っています。水によるバプテスマと、御霊の火によるバプテスマです。水は私たちの体をきれいにしますね。私たちの外側の色んな汚れを洗い流してくれます。水は、そういうきれいにするという作用があります。ただしその問題の根本原因を取り除いてはくれません。


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