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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 39

2013年07月01日 | 日記

  

 39

もしイスラエルの全会衆があやまちを犯し、そのことが会衆の目に隠れていても、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをなして、とがを得たならば、その犯した罪が現れた時、会衆は雄の子牛を罪祭としてささげなければならない。すなわちそれを会見の幕屋の前に連れてきて、会衆の長老たちは、主の前でその子牛の頭に手を置き、その子牛を主の前で、ほふらなければならない。そして、油注がれた祭司は、その子牛の血を会見の幕屋に携え入り、祭司は指をその血に浸し、垂れ幕の前で主の前に七たび注がなければならない。またその血を取って、会見の幕屋の中の主の前にある祭壇の角に、それを塗らなければならない。その血の残りはことごとく会見の幕屋の入口にある燔祭の祭壇のもとに注がなければならない。またそのすべての脂肪を取って祭壇の上で焼かなければならない。こうして、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らはゆるされるであろう。そして、彼はその雄牛を宿営の外に携え出し、はじめの雄牛を焼き捨てたように、これを焼き捨てなければならない。これは会衆の罪祭である(レビ記4:1321)。

 

 罪祭がささげられたとき、いけにえ全体が祭壇で焼かれたわけではなかった。動物の脂肪と腎臓だけが焼かれた。前の章で学んだように、脂肪は罪を表す。「しかし、悪しき者は滅び、主の敵は子羊の脂肪のように消滅し、煙のように消えうせる」(詩篇3720―欽定訳)。

脂肪の焼ける臭いというのは、決して快いものではない。しかしながら、神は焼ける肉のにおいをお喜びになり、それは主にとって香ばしいかおりと描写されている。なぜだろうか? 神はそのにおいそのものを喜ばれたのではなく、それが表しているものをお喜びになったのである。それは、罪人が罪を告白して捨てたことを示していた。私たちが自分の罪を告白して捨て、神にゆだねるとき、神はどんなに喜ばれることか?

 脂肪を取り除いた後に残った死骸は、皮と汚物も含め、宿営の外に持ち出されてことごとく焼かれた。これは、自分たちの罪を放棄することなく、いつまでも抱きつづける者たちの最後の運命を表している。新エルサレムが建設され、天国から地球に降りてくる神の民がそこに住むようになった後、悪人たちは最終的に、火と硫黄とによって焼き滅ぼされるであろう。こうして、真の神の教会の基本的な教理は、すべて聖所に見出されるのである。

 

  説教集: すべてを与える愛 2  ひとり子さえ与える愛

 では、神様のこの世への愛とは、いったいどのようなものでしょうか。聖書はそれを、「ひとり子を賜るほど」の愛と表現しています。それは、この世のためにはご自身のひとり子であるキリストをさえ与え、十字架に臨ませ、死なせることもいとわない愛です。この世の救いのためには、自分の持てる最高のものさえ惜しまず与えることのできる愛です。

 ある時、一人の方がこのようなことを語って下さいました。「子どもをなくすということは実につらいことです。私は三年前に末の子をなくしましたが、あの子のことは少しも忘れることができません。何かを見ると、あああれはあの子が好きだった。ああこれはあの子に似合いそうだ、とつい思ってしまう」。そしてそう言いながら、もう目には涙浮かべておられるのです。その時私は、胸をつかれるような思いがしました。子どもをなくすということは、このようなことなのか、こんなにも痛く、悲しいことなのか、そういう思いで胸がいっぱいになりました。

 親にとって、子どもは自分の命のようなものです。ましてひとり子とは、決して失いたくないもの、失えば自分自身も失われてしまうようなかけがえのない存在です。ということは、聖書が、「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛」されたという時に、それは他のなにものにもまさって愛されている御子キリストを与えられたということだけでなく、実に神様は、ご自身そのものを与えられたということを意味しているのです。神様はこの世を愛し、その問題を解決するためには、ご自分を与えることさえ惜しまれないということです。

 ヨハネによる福音書15章13節に「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とあります。神様がキリストをこの世へ遣わされたとき、キリストが十字架につかれたとき、この聖句は現実のものとなりました。「これよりも大きな愛はない!」。これにまさる、これよりも素晴らしい愛はもうないのです。他のために自分の命を捨てるという最高の愛が、神様によってこの世にもたらされました。

 いったい、この世や私たちのどこに、そのような神様の愛を受ける資格があるのでしょうか。私たちの側に、ふさわしい何かがあったとは考えられません。それはただただ、神様の愛なるがゆえであり、私たちがあまりにもみじめで、憐れみを受ける以外にどうしようもない存在であったためです。私たちの心があまりにもかたくなで、信じることに鈍いために、神様は、もうこれ以上はない、という愛を示す以外に、私たちが心を変えて神様を信頼するようにはならなかったからなのです。

 しばしば私たちは、この世や自分に対して失望します。疑いを持ったり、嘆いたりします。自分の思いがけない失敗や弱さを見て、悲しんだり、いらだったり、ふてくされたりします。「自分などどうせダメなんだ」となげやりな気持ちになることもあります。神様にゆだね信頼していくことよりも、自分や世の現実の姿にくじけていってしまうのです。しかし神様は、私たちがいつでもどんな場合でも、ありのまま、安心してみもとに行くことのできるお方です。私たちを愛し、「来る者を決して拒まない」(ヨハネによる福音書6章37節)と言われるお方です。その目に見える証拠として、神様はひとり子を賜ったのです。

 ですから私たちは、神様の愛を告げるこの言葉によって、神様を、帰ってくる息子を抱きかかえようとして待っている、慈悲深い父のような方として知ることができます。 私たちは、神様の愛が信じられないような厳しい現実に直面したとき、心が重く、罪の意識に悩むとき、この言葉を思い出し口にするのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。そうすると、この言葉自体が私たちの力となっていくのです。「勇気を出しなさい。立ち上がりなさい。私はあなたを愛している。私を信頼しなさい」と聖書は語りかけてくれます。私たちの失望や困惑も、神様の愛を現実のものとして信じないからだ。神様を信じる心をいただきたい、そのように思う心を与えてくれます。



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