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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 183

2014年05月06日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 183

つまりイエス様は、堕落した罪深い肉体をもってお生まれになったということです。アダムの子孫と同じ血肉をもって、この地上に来られたのでした。 

したがって、イエス様は、堕落する前のアダムの性質をとって来られたのではありません。堕落した後のアダムの性質をとって来られました。彼の肉体は、私たちの肉体と全く同じでありました。 

では、イエス様の心はどうでしたか?イエス様は、堕落した肉の心をお持ちでしたか?いいえ、違います。そのようには書かれていません。イエス様は、神聖な心を持っておいでになりました。それゆえ、新しく生まれた人のような心で、この地に誕生なさったのでした。清められた人は、新しい心と新しい精神を持っています。したがってイエス様は、清くなった人たちのような心で来られたのです。

    霊とまことの礼拝 6  

ローマ人への手紙第12章1節、2節。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。

 

 聖書は私たちの捧げる、なすべき礼拝として、私たちの体を神様に捧げなさいと言っています。そしてこの体を捧げるという事は、具体的には2節の、「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」というこの事にある、と言われています。このような心に私たちがさせられた時、私たちは体を捧げて、霊的な礼拝を捧げる事が出来るようになっていくのです。このような礼拝を、神様は今日、今求めていらっしゃいます。これからずっと私たちが、このような礼拝をささげる事を神様は願っておられるのです。

『各時代の希望』という本の言葉を、もう一度読んでみたいと思います。「真理を探知し、認識することは頭よりも心の問題であると主は言われた。真理は魂に受け入れられなければならない。それは意志の服従を要求する。もし真理を理性だけで納得することが出来たら、それを受け入れるのに誇りは邪魔にならないであろう。しかし、真理は心の内における恵みの働きを通して受け入れられるのである。そしてその受け入れは神の御霊によって示されるいっさいの罪を放棄することにかかっている」(各時代の希望中238P)。


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