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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

サムエルの経験 〈第4天使の使命) 1

2013年05月05日 | 日記

    

                    デイの玄関を飾る花

 もう罪を犯してはいけない 20 

 しかしイエス様は、信仰によって勝利された。その方は、「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書19章30節)。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカによる福音書23章46節)と叫んで息を引き取られた。

 

イエス様は、人類の身代わりとして裁きを受け、永遠の滅亡を受けなければならないとしても人類をあきらめることができないという、死よりも強い愛を表された。ご自分が神様から引き離され、永遠に消滅する恐れがあったとしても、私たちを救い出すと決められたのだ。

 

十字架はショーではない。それはご自分の生命を注ぎ出して示された真実の愛だったのだ。イエス様の死は、昔の殉教者の死のようなものではなかった。イエス様の苦難が、ただ肉体的な苦痛だけであったら、その死はほかの殉教者たちの死と何ら変わるところがなかっただろう。苦しみを受けるが、喜んで死んでいった殉教者たちの死と、イエス様の死はどう違ったのか?

  

 サムエルの経験〈第4天使の使命〉  1  

     謙遜は努力ではなく高慢になれないこと

 私は伝道者として、たくさんの経験をしてまいりました。色々な伝道講演会やセミナーに携わってきました。神様に仕える働きをすればするほど、はっきりすることがあります。それは、イエス様なしには何事もすることができないということです。当然、頭では分かっていました。しかし今では、本当の意味でこのことを理解していると思っています。色々なことに関して、色んな訓練を受けてきましたが、一つの大切なことを学びました。いつも常に神様のみ心がなされる、ということであります。私の思い、計画ではなくて、神様の計画がなって行くのですね。もう、本当に強い意思で自分の方法、自分の計画を押し通そうとするならば、失敗に終わるのですね。神様はそこからでも教訓を与えてくださいます。そういう経験を通してさらに謙虚になるということも学んでまいりました。前回もお話ししたかもしれませんが、真の、本当の謙遜とはなんでしょう。神様のみ前に、へりくだるというのはどういうことでしょうか。高慢になろうと思ってもできなくなるのですね。なぜなら、へりくだるための経験をさせてもらっているからです。

 自分自身に栄光を帰すことができなくなるのです。自分の手柄にすることが出来なくなります。それが不可能になるのです。すべては神様のみ業だということがわかってきます。常に自分の生涯に、神様のみ心がなっていくということを認めるようになるわけです。そういったことを本当の意味で理解するならば、もう、高慢になることは、誇り高ぶることはできなくなるわけです。私はやった、俺がやったぞ、とか、自分の計画がそのとおりになったとか、自分の努力が実ったぞ、とかですね、そういった思いに浸ることはできなくなります。不可能になります。過去にいろいろな失敗とか、つまずいた経験をさせてもらうなら、主の創造の力が私たちに必要だということがわかってきます。そうすると、毎朝神様に自分自身を捧げるようになります。今日も「神様、私の心と、私の技をすべてあなたにおささげ致します。どうぞ、あなたのみ業のために私を用いてください」、と祈ることができるようになります。私たちにとってイエス様がすべてのすべてとなります。私たちのなすすべての業がイエス様のものとなるわけです。救霊の働きにたずさわることにおいても、イエス様がすべてとなります。

 


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