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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 25

2013年06月15日 | 日記

       

  福音の道しるべ  25   庭に咲いていたトケイソウ

 私たちが自らをまったく神に明け渡し、罪を悔い改めて捨て去るとき、義認と聖化の両方を経験することになる。最近の神学は、私たちが真理を認めるか、あるいはイエスを信じるだけで義と認められると教える。つまり、私たちの罪は覆われるが、全的には聖化され〔清められ〕ないということである。これを説く人たちは、聖化とは、私たちの個々の罪が処理される間の長い過程のことであると言うのである。しかし、そうではない。罪の問題は義認の経験の間に解決され、この清められた状態は、神の恵みと聖霊の助けによって維持される。このように私たちは、この経験によって義と認められるのと同様に、清められるのである。

もちろん、人はそれでも間違ったり倒れたりするが、常に赦しと助けが提供されている。罪人が悔い改めるとき、神はその人を赦し、新しい心を与えて下さる。神は人の内面を義となさるので、その人を義人と呼ぶことがおできになるのである。再び義と認められた人は、同時に清められる。神は、不義な者を義人と呼ぶことはおできにならない。それは、嘘になるからである。ところが新神学は、そのあり得ないことが起こると主張する。それはちょうど、汚物の上にきれいな布をかけて、「これできれいになりました」と言っているようなものである。しかし私たちが、聖所について研究すればするほど、義認と聖化の経験に関する正しい理解が深められるのである。多くの人は、信仰による義について誤った観念をいだいている。偽りの教理をどれほどまじめに信じても、それが真理でない限り、私たちを救うことは決してできない。多くの人が、誤りを本気で信じ、自分たちは救いに至る道を歩んでいると確信している。これは恐るべき状態である。


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