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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演10

2012年06月25日 | 日記


    ひまわりさんより(6月25日)

私は、3年ぐらい前から、「霊とまこと」の礼拝を捧げたいと思い、そのための場所をあちらこちら探していました。
何か所も良さそうな場所を聞いてみましたが、価格や、環境、設備などの面で、今一つ決められませんでした。
ところが今回、思いがけず、家主さんから立ち退きの要請があり、それに応じて移転先を探したところ、
すぐに、本当に願った通りの集会室のついた家が与えられました。
昨日は、集会室の床に敷くカーペットを見に行ったら、ワインレッドのすてきなものが見つかり、
さっそくあるだけを買ってきて、床に敷きました。
店に在庫がなくて、まだ3割ぐらいしか敷けませんでしたが、それでもいい雰囲気になりました。
今日は、知り合いの介護用品店に、集会室に置く椅子の注文をしました。
折り畳み式で肘掛がついた高級なものですが、介護用品店の社長が、これは介護用品ではないから、
もうけは取らないと言ってくださり、安い値段で購入できることになりました。
今日は暇があると、カーペットの上に茶色の椅子が置かれた集会室で礼拝する様子を思い浮かべながら、
楽しい一日を過ごしました。

   真の謙遜とは(デビット・カン講演10)

私は、自分の教会員に、このような教えをします。
「謙遜とはどのようなものでしょうか」と尋ねます。優しくて柔和で、そのような態度が謙遜ですか。
アメリカ人に謙遜を教える時に、もし、それが謙遜と言うならば、日本や韓国の航空会社のスチュワーデスが、
世界で一番謙遜だという事になるでしょう。ある時、機内でスチュワーデスを呼んだら、私のそばに来て、
ひざまずいて「何か御用でしょうか」と言ってくれました。それが謙遜なのでしょうか。
そうではありません。真の謙遜は、心から来るものなのです。誇るものが何もない時、
イエス様の前では土くれ以外の何ものでもないと感じる時、その時、本当の意味で謙虚になることができるのです。
謙遜になろうと努力しなくてもいいのです。もう、自然に謙遜にいきます。
神様のみ前では、何ものでもないからです。すべて、神様の恵みによるものだからです




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