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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 74

2014年01月14日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 74

皆さん、至聖所に入ったそのときに、罪の問題がすべて解決するのではありません。至聖所は裁きを受けるところです。皆さんが真実に、み言葉どおり神様の戒めに従って生きているかを裁くところです。罪からの清めは、外庭にある祭壇でなされるのです。罪に対するゆるしと清めは、いつでも祭壇でなされるのです。誰であっても、生来の罪を持ちながら聖所に入ることはできません。

“聖化とは、内外ともにすべて聖い状態をいう。聖い状態とは、主に属するものを一切差し控えないことをいう。あらゆる汚らわしい思いや、あらゆる情欲といったものは、魂を神から分離させる。”

       主の幕屋の中へ 64 

ここで、一般個人が罪を犯した時には、次のような規定がありました。

「もし子羊を罪祭のために供え物として連れてくるならば、雌の全きものを連れてこなければならない。その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、これをほふり、罪祭としなければならない。そして祭司は指でその罪祭の血を取り、燔祭の祭壇の角にそれを塗り、残りの血はことごとく祭壇のもとに注がなければならない。またそのすべての脂肪は酬恩祭の犠牲から子羊の脂肪を取るのと同じように取り、祭司はこれを主にささげる火祭のように祭壇の上で焼かなければならない。こうして祭司が彼の犯した罪のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう」(レビ記4:32~35)

 

それから、年に一度、「贖いの日」がありました。七月十日、年に一度だけ大祭司は、至聖所に入りました。その日は何を贖ったのでしょうか?

「彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない」(レビ記16:33)。何を贖ったでしょうか?すべてです!

  この至聖所での奉仕は、イスラエルの罪を赦すばかりでなく、象徴的に幕屋の中へ携えいれられた、あらゆる罪を除去するためにありました。

「神の掟」の中の一つでも犯したなら、贖いの犠牲を通して、罪を赦して頂かなければなりませんでした。人間は、罪のために神様と離れてしまいました。この聖所の奉仕を通して、人は神様とまた一つになることができました。

    


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