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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 95

2013年08月25日 | 日記

 

   95

私たちは、集団として救われるのではない。イエスは十字架上で、人類全体を義認し、救って下さったわけではない。すべての魂が救われるための、お膳立てが整えられたのである。赦しの賜物は確保された。赦されるために、人がしなければならないことがある。信仰の手をあげて、神の賜物を受け取らなくてはならない。これをしなければ、神の力を魂に取り込むことはできない。十字架で贖いは完成したと主張することは、天の聖所におけるキリストの働きを否定することである。もし十字架で贖いが完成したならば、天の聖所におけるキリストの働きは、空虚な形式に過ぎないことになる。イエスは、私たちのために贖いのいけにえとなられた一方で、私たちの大祭司ともなられた。私たちのために流された彼の血は大切だが、同じ血をもって神の御座の前でなされる仲保と裁きの働きも、贖いの働きにおいては同様に重要なのである。贖いは、十字架で完成しなかった。私たちにも、キリストと共に果たすべき役割がある。聖書はこう教えている。「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らないものは、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである」(Ⅰヨハネ2:3-5)。人が神の救いの恵みを受けるとき、それは罪深い生涯を一変させ、御心に従って生きるものとする。福音とは神の力である。神が私たちをお救いになるとき、私たちに神の子となる力も与えて下さるのである。

 

悔改め

 

人は、どのようであったら神の前に正しいと言えるでしょうか。罪人はどうすれば義とされるのでしょうか。私たちは、ただキリストによってのみ神と一致し、清くなることができます。それでは、どうすればキリストのもとに行くことができるでしょうか。ペンテコステの日に群衆が罪を悟って、「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と叫んだように、今日、多くの人々が同じ質問をしています。ペテロは、「悔改めなさい」(使徒行伝2:38)と言い、また「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい](使徒行伝3:19)とも言っています。

 悔い改めとは、罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。人は罪の恐ろしさを知るまでは、罪を捨てるものではありません。心の中で全く罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起こらないのです。



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