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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

神様に知られる人  第4回

2016年10月02日 | 日記

またこの人たちは、実は時々しか良い行いをやっていなかったから、それを覚えていたのかもしれません。いつも良い行いをしている人は、いつ何をしたかなど忘れてしまっているのです。時々しか良い行いをしていない人ほど、自分のしたことを覚えていて、それを誇るということがあります。一生のうちに1回か2回の、目覚ましい証を持っているけれども、それだけに頼って、それが救いの根拠になっている人があります。たとえば証というと、バプテスマを受けた時の証が頂点で、それ以後はずっと下降線という人もあります。日々に新しくされ、罪に勝利し前進していくのでなく、ある日ある時の素晴らしい体験に頼ってしまうなら、『知らない』と言われてしまう人になってしまうかもしれません。

 さらにこの人たちは、「不法を働く者」と言われていることに注目するべきです。この不法と言われる言葉は、マタイ23章27、28節でも用いられています。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。 

律法学者、パリサイ人たちは、善い行いをしていましたが、間違った心で行っていました。神様を心から愛して、喜んで行うのでなく、自分をよく思わせたい、自分を誇りたい気持ちでやっていたのです。外面的には立派に見えても、家庭が天国になっていなかったのです。内側には偽善や不法が満ちていたのです。心の罪の根が断ち切られていない人、自分の栄光を求める心が残っている人だったのです。

黙示録14章7節の最終使命である、三天使の使命は「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」と宣言されています。神様に栄光を帰するためには、自分の栄光が全く塵に伏させられなければなりません。自我を放棄して、ただ神様の栄光のために生きる人だけが、神様に受け入れられるのであって、自己を持ったまま、自分の栄光も求めながら働く人は、不法を働く人として、「あなたがたを全く知らない」と言われてしまうのです。

 テトス1章15、16節「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」。  

 

  ここでは、ただ口で「主よ主よ」というだけで、行いが伴わない信仰について、そのような人は、「忌わしい者、不従順な者、失格者」とたいへん強い言葉で警告されています。



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