靴を脱ぐ経験
ヨハネの福音書14章30、31節にこう書いてあります。
「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。
皆さん、ここに、「彼はわたしに対してなんの力もない」とありますが、この状態こそ、最終世代の人々が持つべき品性なのです。さらに「わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」とありますが、これは、私たちが神様の律法を守ることが出来ること、そして律法が愛であることを証明するために来たと言っておられるのです。これは、受肉の経験です。聖書の中で、燃える柴が象徴している経験なのです。
みすぼらしい柴が火で包まれているのに、その木が燃え尽きることがなかったあの現象に象徴される経験です。モーセがこの火をたいへん不思議に思い、それを確認しようとした時に、天から声が聞こえました。「ここは、聖なる場所です。靴を脱ぎなさい」。私たちがイエス様の人性や生涯を語る時、私たちは靴を脱ぐ経験が必要です。それらは、聖なる主題だからです。この燃える柴は、イエス様の受肉の経験を表しているのです。
聖所の儀式において、契約の箱は、アカシアの木で作られていました。その木を純金で覆ったものが、契約の箱でした。アカシアの木は、私たちのこの弱められた肉体を表しています。イエス様も私たちと同じ肉体をとってこられたのですが、そのうちには、天の父なる神様の十戒が収められていたのです。その心に律法が刻まれていたのです。そして、それを掴んでおられたのです。
神様の神格が、その罪のさまである肉体のうちにあっても、その体は燃え尽きることがなかったのです。これが、奇跡なのです。この燃える柴は、イエス様の人性を象徴するものです。そして、これは私たちの今日の歩みをも象徴すべきものなのです。私たちは、堕落した肉体を持っています。しかし、罪に勝利し、神様の恵みよって、つまり、聖霊様の働きを通して、その戒めが心に刻まれ、それを守ることが出来るようになるなら、私たちは、神様の御前に立つことが出来るようになるのです。神様のシェキーナの栄光によって燃え尽きることがないのです。
そのことがまさに、イエス様の再臨の際に起きるのです。再臨の時、私たちの体は、朽ちないものに瞬く間に変えられます。なぜ、それが可能なのでしょうか? それは、神様の栄光の輝き、シェキ-ナが私たちを焼き尽くすことがないからです。なぜなら、私たちが従順な民に創り変えられているからです。皆さん、イエス様は、私たちの模範です。
ヘブルの手紙2章14-18にこうあります。
「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。
ここにはっきりと、イエス様は私たちと同じ血と肉を備えておられるとありますね。言いわけの余地がないくらいはっきりしていることです。イエス様は、私たちと同じ、堕落した、弱まった体を持っておられました