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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第12回 

2017年11月02日 | 日記

主を知ることは主を愛することであり、主を愛することは主のお言葉に従うことです。聖書の著者たちの言葉は単純で明白です。かりにある人がキリストに服従しないのであれば、その人はキリストを愛さない人だと言うことです。そして、彼が主に従っていないならば、彼は主を知らず、主もまた彼を知っておられないと言うことを、ヨハネは断言しているのです。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。このように私たちは、知ることと愛することがどれほど互いに緊密に連結していて、神様の真実なる民の生涯とは切っても切れない関係であるのかが分かるのです。この問題につ

いて、愛の使徒ヨハネは次のように短く要約しています。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)。

 

8、律法を守ることは可能なのか?

 

多くのクリスチャンが、律法は霊的なもので、人間は肉身に属しているので、どんな人であっても律法の要求を満たすことは出来ないという教えを信じ込んでいます。しかし、そのような見解は真理でしょうか?神様は、悔い改めた真実なクリスチャンであっても到達できない、不可能な標準である律法を私たちに与えられたのでしょうか。石の板の上に十の戒めを書き記されたうえで、守りなさいと命令なさった言葉には、何かの別に秘められた意味があったのでしょうか。十戒に記された『守りなさい』という神様の命令の中には『守らなくても大丈夫』という意味や『決して守ることはできない』という意味が隠れていたのでしょうか?


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第11回

2017年11月01日 | 日記

口で、「愛します」と言ったりするだけでは十分ではありません。神様への本当の愛の証拠は従順なのです。そういう意味では、最近自動車の後に貼ってあるステッカなどーは、浅はかな愛についての観念をあらわしています。「あなたがイエス様を愛するなら、笑顔を浮かべてください」。「もし、あなたがイエス様を愛するなら、手を振ってください」等々。しかし、私たちの主は、どのように語っておられますか?「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。

ところでこのみ言葉は、多くの人たちから歓迎されていません。愛が、微笑みと手を振ること以上の事を要求しない時には、人々は愛を歓迎しますが、それが生活全体を揺り動かして全面的な服従を要求する時には、大多数の人が拒むのです。

 

不幸にも、今日のほとんどの人々は真理を求めていません。彼らは気軽に平安を与える宗教、つまり、自分たちの生活を変えることなく、好きなことをしながら救いの確信を与えてくれる宗教を求めているのです。しかしそのようなものは、真のキリスト教信仰ではありません。この問題に対する最も強力な聖書の言葉の一つは、ヨハネ第一手紙2章4節です。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」。ヨハネがそのような確信を記録できたことは、それが聖書で最も重要で確実な真理の一つだからです。

 

イエス様は、「主よ、主よ」と言っていながら、父の御心に従って生きていない者たちに対して語られました。多くの人が、キリストの名によって奇跡を行ったことを功績にして、天国へ入りたいと懇願するようになると言われました。そのようなクリスチャンたちに向かって、主は悲しみながら次のように語られるのです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:22、23)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第10回  

2017年10月31日 | 日記

7、従順:愛の試金石                    

ある人たちは、律法が養育掛として罪人をキリストに導いて、罪の赦しを受けさせる目的を達成した後では、もう律法は必要ないと、ガラテヤ書3章24節25節を用いて言うかもしれません。それはどのような意味なのでしょうか。養育掛としての律法と、キリストにある自由との関係を私たちは正しく理解しなければなりません。律法は私たちの罪を指摘しキリストに導きますが、キリストを受け入れた人は、心に養育掛の教えが刻まれ、喜んで律法に従うようになります。外面から厳しく罪を指摘する律法から離れたのは、心に律法が書かれ、律法の要求がその人の中で確立されたからなのです。 

律法と恵みはお互いに競争し合っているのではなく、完全な協力関係にあります。律法は罪を指摘して、恵みは罪から救います。律法は神様の御心であり、恵みは神様の御心をなし遂げる力です。私たちは救いを得るために律法に従うのではなく、救われたゆえに従うのです。その二つの真の関係をもっともよく表現した美しい聖句が、ヨハネの黙示録14章12節です。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。信仰と行いについての完全な描写ではありませんか?信仰と行いの美しい調和が、イエス様を信じる聖徒たちを通して現されるのです。

従順の行為が愛の真実のテスト(試金石)です。行いは真のクリスチャンであることを証明するものです。「行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。どんな男性であれ、口先の言葉だけで女性の心を得ることはできません。花を贈ったり、献身的な行動も起こさず、愛のプレゼントもしないなら、純粋で知恵ある女性は、そのような男性の心を信じることはありません。イエス様は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第9回

2017年10月30日 | 日記

一人の殺人者が死刑宣告を受けたと仮定します。死刑執行日を待つ間、彼は法律の下にあり、罪責感の中で、その日をおびえながら待つことになります。しかし死刑が実行される一日前に、大統領がこの囚人の罪状を再検討した結果、恩赦を与える事にしたと考えてみましょう。大統領が情状酌量して、自分の権限によってその囚人を完全に釈放しました。赦された囚人は、今はもう、法律の下にあるのではなく、恵みの下にあるようになりました。法律は二度と彼を罪に定めることはできません。彼は法律の告発に対して、完全に罪と定められることはなくなり、義人となりました。彼は監獄から自由に歩いて出ることが出来るようになり、どんな警官も彼を逮捕することはできません。

 

ところで、彼が恵みの下にあってこれ以上法律の下にはいないからと言って、思い通りに法律を破っても良いでしょうか?絶対そのようなことはありません!彼には大統領の恵みを受け赦された者として、もっと良く法律を順守する心と義務が生じるようになるのです。感謝と愛の心で、彼は自分に恵みを施してくれたその国家の法律に喜んで従うようになり、尊重することでしょう。まさしくこのようなことが聖書の教えではないでしょうか。

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。ここにすべての問題に対する正確な答えがあります。パウロは、「クリスチャンはキリストの救いの恵みを信じるゆえに、律法を不必要なものとして廃棄してしまうのか?」と、私たちへ質問を投げかけています。そしてその質問に対して、彼は自ら答えて、「恵みによって救われたクリスチャンは、心に律法が書き記され、愛と感謝と自由な心で律法に従い、それによって律法を確立するのだ」と言うのです。

 

この真理は非常に単純で明快であるため、再度説明する必要はないのですが、神様に素直に服従したくない人々が、巧妙な偽りの理論を持ち出してきて心の定まらない人々を惑わしているために、もう一度この問題を強調する必要があると思います。

皆さんは速度違反をして警察に捕まったことがありますか?警官が反則キップを書いている時に、あなたが、本当に急いでいた事情があったことを説得力を持って警官に訴えたとします。すると警官は、書いていた報告書をゆっくり畳んで破りました。そしてのように言います。「分かりました、今回だけは赦す事にします。しかし、・・・」。ここでこの警官が言う「しかし」という言葉の次には、どんな言葉が出てくるでしょう。言うまでもなく「しかし、再び速度違反をしてはなりません」ということです?警官のこのような赦し(恵み)は、皆さんに法律に違反しても良いという道を開いてくれましたか?そうではなく、二度と法律に違反しないという強い決心をうながすのです。

このように、赦されたクリスチャンが、どうして神様の律法に従わなくても大丈夫だなどと言えるのでしょうか。クリスチャンは、イエス様の十字架の血によって自分たちの罪が赦されたことを知っているので、なおさら、二度と罪を犯したくないと思うのです。

 

イエス様は言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。もし、皆さんが真心からキリストを愛するなら、キリストが言われた真理の通りに生きたいと思われるのではないでしょうか。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第8回 

2017年10月29日 | 日記

6、律法の下にいないとは?

 

私たちはしばしば、神様の戒めを格下げしようとする次のような発言を聞きます。「私たちは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、これ以上十戒を守る必要はありません」。これは正しい見解でしょうか?聖書は確かに、私たちが律法の下にあるのではないと記していますが、それは私たちが、律法に従う義務から解放された事を意味するのでしょうか?このことを教える聖書箇所はローマ人への手紙6章14、15節です。「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。

 

私たちが、聖書が語るそのままを受け入れるなら、どれだけ簡単に混乱を防ぐことになるでしょう!パウロは自分の言葉を自分で説明しています。彼は、私たちが律法の下にあるのではなく恵みの下にある、と語った後で「それでは、どうなのか?」という言葉を付け加えました。それは、「そのことをどのように理解するべきか?」という意味です。彼の答えに注意してみてください。その当時ある人たちは、律法に対するパウロの説明を誤解して、「恵みの下にあるから律法を犯しても大丈夫だ!」と言っていましたが、パウロはこのことをとても心配して、付け加えて説明した内容が「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは“罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない”と言いました。強い断定的な言葉で、パウロは恵みの下にあるという事実が、クリスチャンたちに律法を犯しても良いという免許証を与えているのではないと語っています。しかし今日、おびただしい人たちが、このパウロの警告を無視しています。

 

もし恵みの下にあるという事実が、律法を守ることからクリスチャンを解放することでなければ、パウロが「律法の下にあるのではなく」と言ったのはどのような意味でしょうか?彼は、ローマ人への手紙3章19節で次のように説明しています。「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」。ここでパウロは「律法の下にある」という事を「神のさばきの下にある」という事と、同一視しています。

つまり、律法の下にある人たちとは律法を犯す人たちです。彼らは依然として律法の定めの下にあることになります。逆に言えば、このことが真のクリスチャンが律法の下にいない理由です。彼らは律法を犯さないようにされることによって、律法の下で罪に定められることはなくなりました。そのために彼らは、律法の下にあるのではなく恵みの下にあるのと言えるのです。続いてのパウロの論証で、彼は恵みの力が罪の力よりさらに強いという真理を指摘します。そしてパウロは断固とした口調で「律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」(ローマ6:14)と言いました。恵みは罪の権勢を打ち砕いて、神様の戒めに従う力を与えるのです。まさにこれこそが、クリスチャンが律法によって指摘される罪責感から解放され、罪の下にいない理由であり、クリスチャンが引き続き「罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ6:1)と言った理由です。