goo blog サービス終了のお知らせ 

SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第7回  

2017年10月28日 | 日記

5、キリストの新しい戒め

またある人たちは、キリストが語られた新しい愛の戒めを根拠として、十戒が廃されたのだと主張しています。イエス様がヨハネの福音書13書34節で「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい」と語られ、すべての律法の要約として、神と人への愛である二つの大きい愛の律法を語られたのは事実ですが、主はそれらが十戒を無効にする新しい戒めだと言われのではありません。実際、イエス様が新しい戒めを与えられた時、全く新しい戒めを語られたのではなく、旧約聖書に書かれていた言葉を引用して、十戒の根本的な性質について説明されたのでした。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:5)。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19:18)。  

このような洞察力ある霊的な原則が、キリスト時代の律法主義者たちには忘れ去られていたので、キリストの教えは彼らに全く新しいものとして聞こえてきたのです。しかしイエス様が十戒を変更されたり、廃止されたのではありません。

 ある日、ひとりの律法学者がイエス様に「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と、質問した時、このように答えられました。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37~40)。

この二つの愛の戒めは、実に「律法全体と預言者とが、かかっている」内容を、厳選して簡単にまとめたものであることに注意してください。このマタイによる福音書22章37節~40節は、どの戒めの中にも、イエス様が言われた二つの愛の原則が、すべて含まれているという事を指摘する聖書箇所なのです。パウロがローマ人への手紙13章10節で、このことをもう一度反復して言及したように、キリストは愛こそ律法の完成であるという事実を語られたのでした。

 かりにある人が、キリストを心と精神と思いを尽くして愛するなら、彼は十戒の中で神様に対する私たちの義務を教えた最初の4つの戒めを遵守するでしょう。またもしあるクリスチャンが、隣り人を自分を愛するように愛するのであれば、他の人に対する義務を教える、十戒の後半の六つの戒めを遵守することでしょう。彼は自分の隣り人から盗んだり、偽りの証言をすることはできないでしょう。愛はすべての律法に従順であり、完成するように導くでしょう。愛は律法を廃するのではなくて、むしろ完全にすることです。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:17、18)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第6回 

2017年10月27日 | 日記

鏡自体には、私たちの顔に付いている汚れを消すことができません。どんなに鏡を覗き込んで、鏡に映った顔をこすってみても奇麗になることはできません。鏡の役割は、顔に付いている汚いものを見せて、洗面台に行って顔を洗うように教えてあげる事です。同じように律法は、人に心の罪の恐ろしさや汚れを教えて、人が罪人であることを宣言し、真の清さを得るために十字架に向かわせるように指示してあげます。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8,9)。パウロはこの事を、ガラテヤ人への手紙2章16節でさらに強調しています。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。

 

ここで私たちは、律法に関する問題の中で、最も誤って教えられている問題の一つを考えなければなりません。多くの真面目なクリスチャンが、旧約時代は律法による行いの時代であり、新約時代は恵みによる救いの時代であるという考えを受け入れています。そのために、旧約時代の人々は律法を守る行いによって救われ、新約時代の人々は恵みによって救われると考えています。しかしこれは真理ではありません。聖書はいつの時代のどんな人にも、救いのための完全で、美しいただ一つの計画を提示していますが、それは「信仰を通して恵みによって」救われるということです。

 

天国には、行いによって救われた人たちと、信仰によって救われた人たちの2種類の人々がいるというようなことは決してありません。あがなわれたすべての魂は、恵みによって救われた罪人だけなのです。旧約時代に救いを得た人たちも、やはりイエス・キリストの血潮の功績に頼った人々で、彼らは信仰によって、傷のない羊を聖所に持って行き殺すことによって、キリストの身代わりの犠牲を信じていることを行為で表現しました。そして彼らは、やがて来られるイエス・キリストのあがないの死を見上げたのです。現在の私たちも、信仰によってキリストの死を見上げる同じ方法で救われます。天国において、救われたすべての人は、世の初めから殺された小羊をたたえる、あがないの歌を共に歌うという事を忘れないで下さい。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第5回 

2017年10月26日 | 日記

3、律法は、いまだに贖いの力を持つ

 次に私たちは、多くのクリスチャンたちが混乱している質問について考えましょう。かりに律法を守る行為が人を救うことが出来ないとするなら、果たして律法を守る必要があるのでしょうか?実はこの質問は、初代教会当時にも問題になっていたことが、パウロがローマ人への手紙6章1節で同じ疑問を提示することによって表されています。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」。言い換えるなら、恵みは私たちに神様の律法に従わなくても大丈夫だという免許を与えることではないか?という質問でした。これに対する彼の答えは、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおその中にいきておられるだろうか」(ローマ6:2)でした。

 今日、相手に合わせて寛容になる倫理を受け入れたクリスチャンたちは、律法を犯すことを大目に見るようになり、それを正当化する自分なりの論理や定義を作りあげています。聖書が言う罪とは、まさに十戒を犯す事ですが、今日の多くの神学者たちによって、十戒は現代には合わない古代の法則として扱われています。しかし欺かれないようにして下さい。十戒に記された道徳の一つひとつは、神様ご自身が石の板の上に書き記された時から、今日にいたるまで不変の真理なのです。神様の律法は過去も現在もそして永久に不変であり持続するものです。イエス様は、パリサイ人たちのように形式的外面的な教えとしてではなく、律法を霊的に理解し適用する道を教えて下さいました。人の子キリストの完全な従順の生涯を見る時、私たちはイエス・キリストを通して、律法を完全に順守する歩みが出来ることを知るようになります。

 4、神の律法:鏡

 まず、律法の役割ではないことに注意してみましょう。神様の律法には、罪を指摘する機能はありますが、それは私たちを罪から救う力はありません。律法には、私たちを義として清める恵みも力もありません。人間が十戒の全てを守ろうとしても、思いや動機や目的において、戒めの精神である愛からそれているなら、それは罪と定められるからです。聖書に、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)と書いてあるとおりです。結局私たちは、信仰を通して、恵みによって救われる以外になく、それは全く価値のないものに賜物として与えられるのです。

 このとても重要な点について、誤った見解を持たないようにしましょう。私たちは従順になろうとして熱心に尽くす行為によって神様の赦しを得ることはできません。罪人は、どんなに一生懸命律法を守ったからと言って、それで神様に受け入れられ、好意を得ることは出来ないのです。律法は人間を救い義とする目的で作られたものではありません。律法は私たちに清められる必要性を示し、清くして下さるイエス・キリストに私たちを導くために作られたものです。聖書は律法の役割を『鏡』と、表現しました。私自身が実際にはどんな人間であるかを見せる、鏡の機能があるという意味です。「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」(ヤコブ1:23~25)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第4回 

2017年10月25日 | 日記

皆さんは誰のおきてを犯しましたか?使徒パウロは次のように答えています。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(ローマ7:7)。使徒パウロでさえ、神様の聖なる律法の前では、自分の心に律法への違反があることを認めざるを得ませんでした。神様の律法は、外面的な行為だけでなく、その心の動機や目的まで裁くからです。神様の律法の前に立つ時、聖霊によって心の動機が明らかに示され、自分の行為がどれほど自己中心的なものであったかがはっきり分かり、自分が神様の前に罪深いものであることを悟ります。こうして、すべての人が律法によって裁かれ、自分が律法によって死刑宣告を受けなければならない罪人であることが明らかにされます。

ではこのような私たちには、もう救いの道はないのでしょうか。これから一生懸命神様の律法に忠実に歩めば、死刑宣告を免れるようにはならないのでしょうか。

このような質問に対して、パウロははっきりとこう答えています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」(ローマ3:20)。

皆さん、よく考えてみて下さい!行為が人間を義とすることはできないということが真理であることを証明する、正当な理由があります。もしだれかが、物を盗んで捕らえられ10年間の懲役刑を受けたとするなら、彼はその刑が終われば、無罪となることができます。自分に宣告された年数を満たせば、法の要求を充足することが出来ます。彼は宣告された刑罰を監獄の中で全うすることで、いわば自分の行為によって自分自身を救い、罪のない義と認められる状態になることができるのです。

しかし、もしその刑罰が、10年や20年ではなく、死刑であったとするならどうでしょうか。その罪人が何かの行為によって、自分を義とすることができるでしょうか?決してできません。彼がかりに100年間、熱心に罪を悔いながら働いたとしても、律法は以前として死を要求しているのです。そこで人を救う真理は「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない・・・キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」(へブル9:22~28)と言います。

 これこそまさに、罪人が決して行為では救われないという理由です。罪の刑罰は、10年の懲役とか、50年の強制労働というものではありません。宣告は死であり、血を流すことなくしては律法の要求を充足することはできません。神様の御座が覆されることが決してないように、律法が宣言した罪人への死刑宣告も、もはや、取り消すことができません。罪を許容することは、宇宙を永遠に破滅させる道です。過去の罪を未来の善い行動で償ったり、取り消したりすることはできません。律法が死を要求する限り、罪人が死ぬ以外に、その要求を満足させることはできません。

 


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第3回

2017年10月24日 | 日記

2、死刑宣告を受ける!?

 聖書の真理の中で、最も重要な救いに関する真理について考えてみましょう。多くの人が罪と救いについて感情的な教えをたくさん聞かされていますが、なぜ、罪の赦しには必ず血の犠牲が要求されたのかということなどは、聖書的な理由と論理を十分教えられていないのではないかと思われます。

皆さんは、皆さん自身が裁判官の前に立って、自分に死刑宣告が下されることになる恐ろしい光景を想像できますか?神様のみ言葉が「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と宣告する時、皆さんは罪責感と恐れを感じられるのではないでしょうか。ではなぜ、恐れや罪責感がありますか?なぜなら、それは「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(ローマ3:23)いるからです。

 聖書にはとても明確に語られているので、誰もその意味を誤解することはありません。「すべての人」という言葉は、田中さんも、木村さんも、山田さんも、鈴木さんも、皆さんの名前が、その中に必ず含まれているという意味です。つまり驚くべき事実は、聖書によれば、皆さん一人ひとりが死刑宣告の下にあるという意味なのです。皆さんは神様の律法によって裁かれ、有罪判決を受けているのです!しかも、この裁判は神様の裁きで絶対に間違いがないために、皆さんが受けた有罪判決をくつがえすための控訴審はないのです。

事実において、罪自体が悪であるがゆえに、罪を犯した皆さんは悪なる罪人です。第Ⅰヨハネ3章4節では「罪は不法(神様の律法を犯すこと)である」と罪の定義がなされています。全ての国家において、その国の法律を犯すことは犯罪であるように、神様の法律である十戒を犯した人は、すべて罪人として裁かれなければなりません。