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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第17回

2017年11月07日 | 日記

第2部:消え去った古い契約とは?

 

1、序論

 

ある時私は、伝道集会の説教を終えて、集会に参加された人々に挨拶するために急いで入り口に向かっていました。そこに、急に道を遮る3人の若者が現れました。その中の一人が私に大きな声で聞いて来ました。「牧師先生、私たちは今日の夜、先生が戒めに対して従順であるようにと強調して、あたかも私たちが、古い契約の中に生きているかのように主張なさる説教を聞いてとても失望しました。牧師先生は、私たちが新しい契約の時代に生きているのだから、恵みだけで救われるという事実が分からないのですか?」

 

その若者は、十戒は古い契約であり十字架で廃されたので、恵みによって救われた現代のクリスチャンは、古い契約である十戒はもう適用される事はないと信じていました。その若者のそのような考えは、今日の多くのクリスチャンたちが持っている確信を、そのまま反映しているものです。しかし、そのような確信を聖書の言葉で証明できるでしょうか?もし証明できるとするなら、私たちは恐ろしい律法主義に陥ることがないように、その教えを確実に学ぶ必要があります。しかし反対に、十戒が今も有効であるならば、神様が下さったこの道徳的教訓を一つでも無視することは、神様への致命的な反逆となることでしょう。

 

そこで私たちは、十戒が本当に廃止されたのか、研究したいと思います。旧約聖書では、十戒を契約と言っているところが、何回も出できます。私たちはこの興味ある主題を扱うにあたって、まず、契約とは何かについて調べる必要があります。契約には色んな形態がありますが、基本的にそれは、お互いの約束に基礎を置いた双方の合意を言います。各時代を通して神様は、このような契約に基づいてご自身の民を扱われました。神様は公正で論理的な方ですから「さあ、われわれは互に論じよう」(イザヤ1:18)と私たちを招いておられます。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第16回

2017年11月06日 | 日記

二人の兄弟についての古い話があります。その話は律法と恵みに対するとても良い例話になるでしょう。兄は裁判官でした。彼の弟が罪を犯して裁判官である兄のところへ連れて来られました。すべての証拠を見れば、自分の弟は間違いなく有罪でした。兄が弟をどのように裁判するか、法廷の中に緊張感が走りました。裁判官はこのような場合でも正義を実行し、公平な裁判が出来るでしょうか?裁判官は自分の弟を真っすぐ見つめながら、厳粛に有罪の宣告を下しました。そして最高の罰金刑を命じた時、法廷中の人々はとても驚きました。しかし裁判官は直ちに降りてきて、弟を抱きしめながら言いました。「お前が罪を犯したために、私はお前に有罪を宣告せざるを得なかった!しかし私はお前が罰金を支払えるほどのお金がないことが良く分かる。心配するな、私がお前の代わりに支払ってあげるから!」

 

この話は、私たちに感動と教訓を与えます。その弟は肉親である兄からは赦されたのですが、裁判官である兄からの刑罰は免れませんでした。しかし、裁判官である兄は罰金刑を自分が代わりに支払ってあげる事で、法律を廃止しなかっただけでなくその法律をさらに高めました。兄は、たとえ弟であっても、法律の要求を決して見過ごしにできない事を見せてくれました。

そのような意味で、神様も自分の御子を生かすために、律法を廃止する事はできませんでした。戒めは高められなければならず、最高の刑罰が宣告されて、刑罰の代価は支払われなければなりませんでした。

どのような人も、イエス様がどの位の代価を支払われたかを、正しく理解する事は出来ないでしょう。主の中で、愛と正義、赦しと刑罰が完全に調和していることは、なんと素晴らしい事でしょう。律法の要求を完全に満たしながら、罪人を完全に赦し受け入れる神様の救いに、言葉では言いつくせない感謝があふれます。ご自身の体で罪の刑罰を背負う事によって律法の要求を満たし、罪人である私たちを義として下さいました。

十戒が廃止できないために、神様がお取りになった方法を理解できますか?全宇宙の前で、神様はご自身の戒めを擁護するために、これよりもっと確実で反駁(はんばく)できない論証を提示することは出来ませんでした。それにも関わらず、このような驚くべき証拠の前で、誤って導かれたおびただしい人たちが、神様の律法を軽視して、神様の政府の権威を格下げしているのです。彼らは、律法が神様の聖さと義を重んじる品性の反映であることが、理解できていないのです。まして、恵みが律法を廃止したなどと言う事は、天の神様の政府に敵対する企みに加担していることです。

 神様の十戒をもう一度、しっかりと見てください!律法は神様の政府の基礎であり、そのお方の品性を反映するものです。神様が、皆さんの生活がどのようになることを望んでおられるのか、知りたいと思うならば、神様の律法を見ればよいのです。そこに神様のご品性が現されています。そこに皆さんの生活と良心を照らしてみて下さい。そして、皆さん自身の力では、その完全な標準によって生きることが出来ない事実を告白して下さい。

それから皆さんの目を、その律法を完全に守られた唯一のお方、そして今まさに、皆さんの心の中に入って律法と調和して生きられるように、力を与えたいと願っておられるそのお方を見上げて下さい。そのお方は律法の義を完全に満たし、皆さんの中に律法の義なる要求を全うして下さいます。ですから皆さんは、その時、使徒パウロと共に、次のように言うことが出来るのです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第15回

2017年11月05日 | 日記

10、何によって救われたのか?

律法と恵みに関するわかりやすい例話があります。昔、ニュ―オーリンズ奴隷市場でこのようなことがあったそうです。二人の綿畑の農場主たちが、反抗的な声で大きく叫んでいる一人の黒人を奴隷市場で競売していました。ついに一人の農場のオーナーがその競売に勝って。その奴隷を自分の馬車に乗せて農場に向かいました。家に行く間中、その奴隷は反抗的な口調で、新しい主人のために働かないと言っていました。

ところが、農場に到着すると、その農場主は、その奴隷の手から鎖をはずして、このように言いました。「君はもう自由になった。君は二度と奴隷になる必要はなくなった。私は君に自由を与えるために君を買い求めたのだから」。その時、その黒人奴隷は農場主の足元にひれ伏してこのように言ったそうです。「ご主人様、私はあなたに永遠に仕えます!」。

私たちも同じように、罪の定めと死の中に捕らわれた罪の奴隷でした。しかしイエス様は、そのような希望のない奴隷の状態にある私たちに、自由を与えてくださるために、ご自分の命という大きな代価を支払って下さったのです。

主がそのような大きな犠牲を払われたのは、私たちを罪の奴隷から解放させるためでした。その事実を知った私たちの応答はどのようなものでしょうか。神様のあがないの恵みを受けた人々は、そのお方の足元にひれ伏してこのように言うでしょう。「ご主人様、あなた様が私のためにこのようになさってくださったゆえに、私はご主人様を愛します。これからは私の生涯をご主人様のために捧げます」。

次のような問題を考えてみましょう。人間が律法を犯した時、律法はただちに人間に死を要求します。しかしその時イエス様は、人間に宣告された罪の要求を、身代わりとして受けるために十字架の死を選択されました。仮に律法が廃止できるものであったなら、罪の刑罰も廃することが可能だったことでしょう。「律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない」(ローマ4:15)。律法は不変であり、その権威は神様ご自身の権威と同じように高かったために、神様も律法を廃しすることができませんでした。そのために、神様は律法の要求である死を、ご自分の御子であっても免れさせることはなさいませんでした。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第14回 

2017年11月04日 | 日記

9、律法により裁かれる

律法に関してもう一つ考えなければならないのは「人が罪人とされるのは、十戒の中でいくつを犯したときか?」と言う点です。ヤコブは次のように言いました。「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」(ヤコブ2:10~12)。

 すべての人は、結局神様の十戒によって裁かれることになります。その中で一つを犯したとしても罪を犯したことになります。たとえて言うなら、十戒は十個の輪を持った鎖のようなものです。ひとつの輪が壊れるならその鎖は使い物になりません。神様の律法も、ちょうどそのようなものです。神様の裁きの前に立たされた者たちは、十戒によって、天国へ行けるかどうかを判断されます。泥棒をやめられなかった人が天国へ入ろうとしても、拒まれることになるでしょう。パウロは盗みを働く者は御国を受け継ぐことはできないと言いました(1コリント6:9,10)。

 さらに聖書が明確に宣言しているように、偽りを言う者たち、姦淫する者たち、愚像を崇拝する者たち、むさぼりをする者たちは、御国へ入ることが出来ないのです(ガラテヤ5:19~21)。なぜでしょうか?その理由は、十戒がそのようなことを禁じており、そして戒めの中の一つを犯すことは、すべてを犯す精神を持っていることだからです。このように言うとある人は「それは行いを天国へ行くための基準にしているのではないか」と抗議するかもしれません。違います。それは実際上、愛を資格要因としていることです。イエス様は、最も大いなる戒めは神様を第一に愛することであると言われました。同じように「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)とも言われています。

 罪であると知っていながら続けて犯すことは、彼らがすべての心と精神と思いを尽くして神様を愛しているのではないことを証明していることです。従って彼らは愛がないという事実によって天国から締め出されるのであって、不従順の行為自体によって彼らが滅びるのではありません。十戒は行為の動機を裁きます。不従順はもちろんですが、神様を愛することなく服従していても、それはその人を救うものではありません。

服従の動機が愛である時こそ、神様に受け入れられることになります。ですから、救いを得るために熱心に努力しても、心に愛がなければどんな行為も空しいものであり、キリストの贖いの犠牲の効力を拒むことになります。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第13回 

2017年11月03日 | 日記

多くのクリスチャンたちが、キリストは、自分たちは持っていない特別な力を持っておられたので律法に服従することが可能であったのだと信じています。もちろん、イエス様はただ一度も罪を犯さずに、生涯を全うされた唯一のお方です。そして主がそのような完全な勝利の生涯を全うされた秘訣が、ローマ人への手紙8章34節に書かれています。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。

 

この点を見逃さないようにして下さい。イエス様は人として、律法の義を全うするために来られたのです。肉の体を取られても完全に生きられたことによって、人間性の中で律法を完全に守ることが出来ることを証明されました。上の聖書箇所で用いられた『義』というギリシア語の『ディカイオマ』は、文字通りには『義なる要求』という意味です。ですからこの言葉は、私たちもそのお方が勝ち取られた勝利を、自分のものに出来るように完全な勝利を得られたという意味です。悪魔サタンを征服して、肉の体を持っていても律法を遵守出来るという模範を見せて、キリストが私たちの心の中に入って下さり、ご自身が成し遂げられた勝利の経験を、私たちと共に分かち合いたいと提案されたことなのです。

 

ただ、主の力と内住して下さる聖霊の力だけが、律法の要求を成し遂げさせて下さるのです。パウロは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)と言いました。誰であれ、人間の意志と能力だけでは十戒を守ることはできませんが、イエス様が与えて下さる力によって、そのすべてを守ることが出来るようにされるのです。主がご自身の清さを、義の衣として私たちに着せて下さり、私たちの生涯のためにご自分の義を分け与えて下さるのです。キリストは私たちと同じ肉体を持って来られましたが、一生の間、天の御父だけを全的に頼って生きる事によって勝利をおさめられたように、誰でも天の父なる神様の恵みだけを頼りとして生きるなら、主と同じ勝利が可能であるという事を示して下さいました。